江別創造舎

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開拓使官有物払下げ事件~開拓使廃止

2008年07月09日 | 歴史・文化
 開拓使10年計画の期間の国費投資額は、約2千万円にものぼりました。
この主な収入源は、定額金8,600万円、租税収入7,000万円弱、特別国庫から支出したものに屯田殖民費72万円余り、煤田(炭鉱)起業費115万円余りでした。

 道内で徴収される約700万円の租税は、殆ど水産税と出港税でした。つまり、北海道在来の産業であった漁業を犠牲にして、開拓事業は推進されていったのでした。

 開拓10年計画が終わる明治14(1881)年、開拓使を存続させるか、廃止するかが問題となりました。
2千万円の巨費を投じ、確かに開拓しはさまざまの事業を行いましたが、ケプロンに指摘された基礎設備がなおざりにされて、目前の利を追った矛盾が次第に表れてきていたのです。これに輪をかけて、官営事業の非能率や官僚腐敗がありました。
そして、黒田清隆長官の存続運動も空しく、開拓使は廃止されることになったのです。

 黒田清隆は、部下の安田定則(薩摩出身)ら4人に開拓使の主な物件を払下げることによって黒田清隆の意志を継がせようとしていました。払下げによって、安田らは、薩摩出身の政商五代友厚の関西貿易商会に入る予定だったのです。払下げ内容は、北海道・東京・大阪・敦賀にある官舎・工場・牧場・船舶・倉庫・その他の利権などで総額38万円と評価され、無利息30年賦で払うというものでした。

 しかし、世上に漏れることとなり、10月ついに開拓使官有物払下げは取り消されました。払下げ反対派とみられた参議大隈重信は免官になりました。
この時期、国会期成同盟の大会に上京してきた民権派は歓喜して自由党創立に踏み切りました。この創立大会には、北海道からは室蘭港で旅館を営む本多新(ほんだあらた)がただ一人出席していました。本多新は、北海道自由民権運動の草分け的存在でした。
(参考)当ブログ7月 6日(日)「西洋式江別兵屋とロシア式篠津兵屋」
    当ブログ7月 3日(木)「教師頭取兼顧問ケプロンの北海道開拓」
    当ブログ6月24日(水)「石狩川」
    当ブログ6月23日(火)「北越殖民社の開拓」
    当ブログ6月18日(水)「わが国における電信の始まり」
    当ブログ6月16日(月)「蝦夷地から北海道へ改称ー蝦夷地は皇国の北門」
    当ブログ6月11日(水)「江別屯田兵入地」


註:「北海道の歴史」榎本守恵・君尹彦著参照。
写真:「開拓使官有物払下げと三県一局」北海道開拓記念館2007年撮影許可を得て、掲載いたしております。
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