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福山雅治がいい。天才的な頭脳を持つ若き物理学者が、難事件を解決していくという「ホームズ」的な架空性によくはまっている。対するやはり天才的な数学脳を持つ犯人役は、もう名優といいたいリアリズム演技の堤真一。最初から犯人がわかっていて、犯人が構築したトリックや動機の謎が次第に明らかになっていく倒叙ミステリーとしては、すこぶる上出来。
ただし、誰でも気づくだろうが、倫理的には致命的な欠陥がある。原作を読んでいないが、物語の構成としては、あえてこの倫理的欠陥を、殺人という行為に踏み切るための動機とする力業のようだ。しかし、殺人犯になるために殺人を犯す、という反動機が行動と感情のそれぞれにおいて論理的に破綻しているのは、誰が見ても明らか。
犯行を隠蔽しようとする工作と犯行を暴こうとする捜査には、論理性を持たせることができる。なぜ殺人を犯したかという動機は、必ずしも論理的ではなく、感情的な場合が多い。実際の殺人は、犯人にとってはきわめて論理的な結果である場合が少なくないと以前に現職刑事に聞いた覚えがあるが、小説や映画の殺人はそんな犯人しかわからない感情や動機では読者や観客を満足させられない。
読者や観客にとって、「なるほどね」と想像力の及ぶ範囲でなくてはならない。乱暴にいえば、この想像力とは観客の感情を刺激するものであり、いわば「俗情との結託」(@大西巨人)である。たぶん、原作は「俗情」と結託しない動機の構築を狙ったのだろう。読んでいないから間違っているかもしれないが。
犯行も動機も論理的な殺人。その挑戦的な試みは買えるが、残念ながら、映画を見た限りでは失敗している。もちろん、物語としては欠陥があっても、小説としてはおもしろく感動的だという作品は珍しくない。我々は、文章なら選択的に読み込むことができるからだ。だが、映画では選択的に観ることはできない。「献身」というタイトルの意味深さと込められた皮肉を観客に納得させることは難しい。
なぜそうしたかという行動論理としてはそれなりの説得力があるが、なぜそう考えざるを得なかったかという感情論理への描写が不十分だからだ。それぞれを車の両輪とすれば、行動輪は走ったが感情輪は回っていないのだ。案の定、ラストに愁嘆場を持ってこざるを得なかった。軽快でドライな福山雅治「ホームズ」を捨てて、松本清張が造型するような厚く湿った犯人像を拾い集める仕儀となった。
論理の達人だったはずの探偵や犯人が感情に流されっぱなし。心理的などんでん返しもなく、したがって、観客はいったい論理はどこにいっちゃったんだと途方に暮れ、犯人を倫理的に許したい気にはとてもなれない。後味がよくない。残念。
(敬称略)