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昭和すだれ頭

2015-07-13 23:59:00 | 政治
周知のように、言動にはTPOが大切だ。TPOをわきまえ、TPOに応じて使い分ける。TPOを踏まえないで振る舞うと、とんでもない恥をかいたり、周囲に迷惑をかけることさえある。

TPOとは、 Time(いつ-時間)、Place(どこで-場所)、Occasion(場合)。ただし、英米人にTPOを説いても、たぶん「何、それ?」と首をかしげられるだろう。これは服装ファッションについて、VAN創始者の石津謙介が言い出した和製英語だから。

そのせいか、TPOには重大な欠落がある。Who(誰が)という主体である。いつ、どこで、どんな場合に、「誰が」、何を言い、何をしたか。いうまでもなく、「誰が」、によって、事態は大きく変わるはずだ。

葬儀に半パンで出かけ、年長者にタメ口をきいた若者はただの馬鹿者だが、これが県会議員なら、まず精神的な失調や病気を疑うべきだし、つぎの選挙では間違いなく落選するだろう。

あるいは、「誰が」によって、TPOとは、「とってもパワフルなお言葉」の略になる場合もある。以下の天声人語氏のコラムのように。

人々が主権者である社会は、選挙によってではなく、デモによってもたらされる
http://www.asahi.com/articles/DA3S11854826.html?ref=tenseijingo_backnumber

おいおい、「とってもパープーなお言葉」の間違いじゃないか? 一読してそう思ったあなた、よろしい、あなたは私の友人である。しかし、それじゃ、チャンチャンおしまい、になってしまう。

そこで、天声人語氏に視点を変えて、このコラムがどれほどパワフルなポジショントークであるかという解説をば。

いつ-安保法制自民党案の強行採決が目前に迫っている、どこで-社論を書く社説ではなく記者個人の感想を述べるコラムで、どんな場合-世論調査で80%がそれに反対を示し、国会正門前に党派とは無関係な若者一万五千人が集結した、これがTPO。

冒頭の一行がすごい。

日が落ちれば少しは涼しくなるだろうという目算は外れた。

官邸前デモや国会前集会も暑くなれば、やがて下火になるだろうという「目算は外れた」と吐露しているのである。それだけでも尋常ならざるものだが、この「目算は外れた」を終行近くで、絶妙に受けて投げ返しているのだ。

「危ないね」という思いを伝え合う、それぞれの目配せ。

この「目配せ」がそれだ。「目算は外れた」という「目配せ」のコラム、そう読まれるべきだと天声人語氏は云っているのだ。じつにすさまじいばかり力技である。だてに、天声人語を任されているわけではないようだ。えっ、ひどい曲解じゃないか? チッ、あなたは私の友人ではない。

わからないかなあ。コラムには、とくに新聞のコラムには一行も一字も無駄なことは書かないし、書けない。冒頭の一行を日和伺いと読めるわけがない。予測や予想ではなく、「目算」という言葉を選び、それが「目配せ」に対応していることがわからなければ、残念ながら、あなたには行間とか紙背などは無縁といわねばならない。

書いてあることだけでなく、書かれていないことがより重要な文章というものがある。かつて、検閲や弾圧から逃れるために、古今東西の少なからぬ文筆家はそうした技術を磨いて、人々に真意を意味を伝えたものだ。そしてそれ以上に、より多くの文筆家は、権力に阿り追従する意図を巧妙に隠し、内通する文章を書いてきた。

いうまでもなく、「目配せ」のことだ。これは国民間の「目配せ」でもあるが、政府自民党へ内通する「目配せ」でもある。どうして、そのまま書いてあるとおりに国民間の「目配せ」だけにならないのか。冒頭に、「目算は外れた」があるからだ。

ほんとうに、国民視点で書いたのなら、どうして「目算は外れた」などという外部の視点が導入されるのか。冒頭ではっきり、天声人語氏は自らをインサイダーとして置いているのだから、「目配せ」の相手も一般国民だけには限られないわけだ。

「目算は外れた」という「目配せ」と読めば、「人々が主権者である社会は、選挙によってではなく、デモによってもたらされる」はただの引用に過ぎず、安保法制反対デモを称揚しているのでないことは自明のことだ。また、称揚したという言質はどこにも与えていないし、称揚しているとすれば、デモではなく「目配せ」の方だ。

(ちなみに、例の植村隆元記者の問題となった「従軍慰安婦記事」も、挺対協の発言を紹介しただけでそれを是認したという言質は与えていない。あの程度で捏造というなら、政府発表をそのまま掲載した記事のほとんどは、取材の裏づけのない捏造記事になる。慰安婦問題に関心のある向きは、一度植村記事を読まれるとよい。よくある記事の調子だなと違和感を感じないから)

むしろ、ここは、選挙とデモの間に、当然あるべき、国民主権を守る言論と表現の自由を掲げるメディアの使命と責任が欠落していることに注目すべきだろう。政府自民党の圧力と懐柔の前に、メディアはもはや無力という国民向けの思わせぶりとも、白旗を上げたという政府自民党への敗北のポーズとも受けとれるが、重要なのはそこではない。

「誰が」が徹底的に隠されていることだ。このコラムには、SEALDs(シールズ)の若者や柄谷行人氏は登場するが、新聞というメディアも、その新聞社に所属する新聞記者である筆者も、いっさい出てこない。5W1Hというより、ただ、TPOだけがある。国会前に佇んでいたのは、ほかの何ものでもないTPOなのである。

このさりげない連帯は強まりこそすれ、と感じる。

政府自民党と朝日新聞との「さりげない連帯」と読むのはさすがにうがち過ぎだろう。だが、デモという「過激な」「思想表現の自由」を「目配せ」による「さりげない連帯」に置き換えようとする意図は、このコラムの流れから明白だろう。あの日、天声人語氏の前でデモに参加した国民をも、見事に隠してしまったのである。

たぶん、昭和人のはずの天声人語氏にこの歌を贈りたい。「ケッ、いつから日本はデモしちゃいけねえ国になったってんだ」と安酒場で愚痴っているかもしれない。
http://togetter.com/li/846923



(敬称略してないぞと)









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