コタツ評論

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戦争の余波

2011-04-04 02:25:00 | 3・11大震災


悲惨な事故や凄惨な暴力をテーマとする海外サイトをのぞくと、aftermathという名詞がよく出てくる。余波と訳されるが、the aftermath of the warという慣用が代表的なようだ。死体や破壊の写真に、「~の余波」とキャプションされる。今回の「東日本大震災」と「福島第1原発事故」は、その被害の規模と深刻さにおいて、ほとんど戦争に匹敵するほどのダメージを日本に与えつつあるが、日本の原発もまた、戦争の「余波」だったのではないか、ふと思った。

以前、TVドラマ「不毛地帯」を観ていたら、大本営作戦参謀だった瀬島龍三がモデルの商社マン壱岐正が、中東の原油開発に乗り出すとき、「日本は石油で負けた。死んだ仲間たちのためにも、平和的な手段で石油の獲得を!」と熱く訴える場面があった。瀬島龍三がそう言ったかどうかは別にして、東海原発から高速増殖炉もんじゅまで、日本の原子力発電所には、そんな戦争世代のパトスがビルトインされている気がする。その後、オイルショックを経て、「日本のエネルギー自立を!」という合い言葉に受け継がれ、原発建設が推進されてきた。

地震が多発し、津波が襲い、活火山が活動する、唯一の原爆被曝国に、原発を乱立させる「狂気と正気」とは、先の敗戦の余波という射程でも考えなければ、とても理解が及ぶものではないように思う。

「フクシマ・トーデン」は、「スリーマイルではない」「チェルノブイリではない」「健康にただちに影響はない」と、つねに「~ではない」という言葉づかいで語られてきた。「フクシマ・トーデンは、~である」とは、語られることはないかのようだ。

いや、少しずつ、語られはじめたのかもしれない。「フクシマ・トーデン」においては、「余波」とは比喩ではなく、有害な放射線や放射能物質が拡散するという「余波」であり、あるいは、かつて原発を推進したように、エネルギー政策を転換させる「余波」もあり得るかもしれない。

同様に、「大津波」の「余波」として、死体や瓦礫の山だけでなく、東日本の復興が成されるのか、あるいは成されないのかもまた、比喩ではなくて事実としての「余波」だろう。the aftermath of the 311.

その時、4号機で何が起きたか?
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/04/post_7ce4.html