コタツ評論

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神の子どもたちはみな踊る 1

2006-12-12 05:13:00 | 新刊本
村上春樹 新潮文庫

畏敬する荒川洋治さんが「村上文学の最高到達」といっていたので、つい買ってしまう。村上春樹・龍の小説はどうも食指が動かず、これまで一篇も読まずにきたのだが、エッセイ集『やがて悲しき外国語』(村上春樹)の率直さに好感したので手に取った次第。ま、俺の小説初体験は小学生の頃の、『越前竹人形』(水上勉)と『宮本武蔵』(吉川英治)だったのだから、文学には縁遠い人間なのだが、やはり読まずにきて正解だったようだ。まだ、3篇しか読んでいないが、作為が鼻につき、リアリティがまるで感じられない。いや、リアリティの希薄さこそが時代の命題であり、川床のうなぎのようにつかみ難い、手指をすり抜けていく別のリアリティに触れているのだというセンサー(触感)があるのかもしれない。だが、それらはトリビアに過ぎないように思えるのだ。また、短編というより掌編というべき短い作品なのに、以下のような明らかな失敗がある。ノーベル文学賞の声がかかるほどだから、編集者が書き直しを命ずるに遠慮したのか。


二日酔いで苦しい思いをしているときには、いつもテレビで朝のワイドショーを見るんだという友人がいた。そこに登場する芸能レポーターたちの耳ざわりな魔女狩りの声を聞いていると、前夜から胃の中に残っているものが、うまく吐けるということだった。(神の子どもたちはみな踊る)。

陳腐だ。この程度のことを繊細というなら、繊細などつまらないことだ。それ以前に、こんなやついるかと。二日酔いで胸がムカムカしているときに、わざわざ朝のワイドショーの騒音に身を浸し、吐き気が喉元までせり上がってくるのを待つ、それが習慣だという男が、たまたまではなく。

いたとしても、それを公言するとはただ嫌みなやつじゃないか。いったい、何十年TVを観てるんだ、気取りやがってこのバカと俺の友人ならいう。たいていの視聴者は「魔女狩り」を「ショー」として楽しんでいるのではなく、そんな問題意識や娯楽への指向もなく、受像器を前に無為な時間を過ごしているアノミーなのだ。アノミーになることでなけなしの自分を守っているのだ。

俺たちはもはやTVを拒否できない。吐くことで排毒できるほど軽い病態ではない。TVに映っていることだけでなく、TVを見入っている自分こそが現実なのだ。NHKの受信料徴収の根拠がTV視聴ではなく、受像器の有無にあるように、TVの現実は個人の選択を超えている。それを弁えることがリアリティじゃないか。

もう、かなり以前のことになるが、某TV局に新聞出身のキャスターがいた。社会部で数え切れないほどスクープをものした有能な記者だった。父親による子どもへの虐待事件が起こり、取材のなかで彼はひとつの事実を見つけ出した。父親だけでなく母親も、よく靴の踵をつぶしスリッパのように履いていたという。

画面には収監された父親が残したスニーカーが映され、たしかに足首をくるむのはもはや難しいほど踵の部分はぺしゃんこにつぶされていた。30歳をとうに過ぎた両親の「幼児性」や「不良性」を表す、ひとつの事実として彼は勢い込んで、踵のつぶれた靴を指摘した。2ちゃんねるなら、一言「ドキュン」と嘲笑っただろう。

ひとつのリアリティをつかんだ、取材とはこんな瑣末な事実の発見なんだ、といわんばかりの彼の顔を観ながら、俺は苦笑した。踵の部分をつぶして履く職種があるのを友人を通して知っていたからだ。鳶や鉄筋工などの職人は、現場ではつま先に鉄板が入った堅牢な安全靴を履く。大工やクロス貼りなど室内に入る職人は、デッキシューズのような脱ぎやすい薄手の履き物を履く。

地下足袋のコハゼの部分がなくて、足指が分かれていないものと考えればよい。「寅壱」や「ワークマン」など、作業服を売っている店にはいずれも必ずある。たとえば、マンションの建設現場。クロス貼りやフローリング、建具などの内装関連の職人や、水道屋、電気屋など屋内の設備業者はほとんど仕上がった室内に出入りするため、そのたびにこれを脱ぎ履きしなければならない。それは面倒くさいルールだから、少なくない職人がデッキシューズのような職人靴を踵をつぶしてスリッパのように履いている。

踵つぶしを常態にはしなくても、ちょっと道具を取りにいったりする場合は、きちんと履かずに踵の部分を踏んだまま歩くことはよくある。つまり、突っかけ。昔でいうなら、雪駄や草履のように使うのだ。めんどうくさがりのだらしない履き方や履き物ではなく、雪駄や草履の先祖帰りであり、現場ではそれがいちばん合理的なのだ。したがって、若者だけでなく、中高年の職人もたいてい踵をつぶした跡がある。若者は地下足袋のような職人靴より、ふつうのスニーカーを好むという違いがあるくらいだ。

某キャスターの取材による小さな事実の発見は、たいした意味をもたらさない。子どもを虐待した父親がブルーカラーに属するとわかるくらいなことだ。そんなことは住んでいるアパートを見ればすぐにわかることだ。また、安アパートだろうが六本木ヒルズだろうが、俺たちは室内に靴を脱いで入る。子どもの靴や傘がひしめく狭い玄関口だろうが、シューズクローゼットを備えて生花が飾られている広い玄関だろうが、無様に屈んで靴を履いて出るようになっている。第一、どこの家にもちょっと外に出るためのサンダルを備えているはずだ。

もちろん、村上春樹はそんな皮相な意味づけをモノやコトに帰してはいない。三宅さんが浜で興じる焚き火(アイロンのある風景)や妻に離婚された小村が釧路まで運ぶ空箱(UFOが釧路に降りる)には、家族を喪失した空虚な人生の断面が表されている。踵を履きつぶした靴と同様に、焚き火や空箱のような小さな事物をきっかけに、人とその営みを寄り添うように見つめようとしている。某キャスターは名づけられた貧しさに、村上春樹は名づけようもない感情に、依拠して。

しかし、やはり村上春樹にも、なんだ感は拭えないのだ。三宅さんの焚き火には阪神淡路の大震災の地に家族を残してきた過去があり、離婚後の傷心旅行なのに会ったばかりの女とラブホテルでビールを飲んでいる小村の現在があれば、その「名づけようもない感情」は俺たちにとって未知なものではない。ただ、そこに「名づけようもない意味」を見い出せないから、これからどうしていいのかわからず、うっちゃっておくのだ。瑣末なこととして。まだ続くかも。



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