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コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

事実上の戒厳令?

2011-03-14 11:33:00 | 3・11大震災
福島第1原発第1号炉に続き、第3号炉も爆発。TVの原発や放射能の専門家は、相変わらず、「危機的状況ではない」「安全だ」と繰り返しているが、以下のような報告が出ている。

広河隆一
http://daysjapanblog.seesaa.net/

森住卓
http://mphoto.sblo.jp/

原子力資料情報室
http://www.cnic.jp/


今週も注意と用心を

2011-03-14 11:16:00 | 3・11大震災
17日(木)まで、休業となった。
流言飛語を飛ばすつもりは毛頭ないが、今週も大きな地震の怖れがあるかもしれないという情報を入手。地下鉄や地下街を避けるなど、皆さんも、どうかじゅうぶんな注意とご用心を。

計画停電と計画経済

2011-03-14 08:14:00 | 3・11大震災
西武線は動かず、今日もお休み。幹線道路は渋滞。私の住む町は、埼玉の第1グループになっていて、6:20~10:00 16:50~20:30 の間、計画停電のはずだが、この通り通電している。NHKTVニュースによれば、当面、需要に応じられるため6:20~は中止になっている模様。16:50~になるかもしれない。節電や停電に協力するのはやぶさかではないが、冷蔵庫や冷凍庫が止まるのは痛い。

変わるべきなのかもしれない。90年代の「失われた10年」から「リーマンショック」を経て、「少子高齢化」を背景に、経済成長と「GDP神話」が疑問視されるなかで、かねてから、「日本鎖国論」や「ダウンサイジング」といった議論が出てきている。内輪でやりくりしよう、少しくらい貧乏でも、モノやカネだけではない豊かさをめざそうという考えだ。

東北太平洋大地震の津波被害による福島第2第3原発の「廃炉」から起きた電力不足を契機に、はからずも日本経済は「計画停電」という「軽量化」へ転換を迫られることになった。それが直ちに、日本経済の「縮小化」ではないところは、「激甚災害」に指定された被災地復旧のため、数十兆円もの莫大な財政出動が予測されるからだ。

被災地復旧は公共事業費として、政府財政をさらに圧迫するが、GDPにはカウントされる。とっくに政争の具(愚?)となった「子ども手当」などフローの支援策は廃止して、緊急かつ中期のストックに予算配分されるべきだろう。ストックとフロー、それぞれの予算配分を調整連動させる中期の経済政策が必要とされるため、自公を含めた大連立か、自公を入れた挙国一致内閣か、政界再編は避けられまい。

安全保障面も、とりあえず心配ないように思う。世界各国は、これほど甚大な被害に遭いながら、日本国民が黙々と事態に対処し、けっしてモラルハザードを起こさないことに驚嘆している。そんな国民を相手に戦争するのは厄介に違いない、という畏怖につながるものだからだ。もちろん、原発それ自身が安全保障の重大な危機要素であることは、今回の福島原発の事故であらためて思い知らされたわけだが、それは原発を稼働する諸国お互い様でもある。


とりあえず防衛策

2011-03-13 14:51:00 | 3・11大震災
Sさんの助言に従って、私も以下を買ってきた。おなじみの「都こんぶ」はなかったので、塩コンブとおしゃぶりコンブになった。

家人がウイルス除去マスクと都こんぶ買ってきた

日曜の午後だというのに、幹線道路は深夜のように車の姿が少ない。私の住む町は埼玉県南部の首都圏ベッドタウン。土日ともなれば、買い物や食事に出かけるマイカーで、幹線道路は渋滞するほどだった。

スーパーのカップ麺棚は、ほとんどが売り切れていた。いつもの週末なら、レジ係が倍増されているはずなのに、2人しかいなくて行列ができている。今夜の夕食のためというより、カートには一目で買いだめとわかる品々。値上がりを見越してのこともあるだろうが。「ヨード卵はないの?」と店員に尋ねているおばさんも二人いた。

かっぱ寿司やくら寿司など、回転寿司店は入荷しないため休業。一方、TUTAYAのレンタルカウンターに長い列ができていた。駅前に、「若菜」というチェーン弁当店があるが、そこもいつもより品薄だった。パートのおばさんたちがずいぶん休んでいるらしい。


つくづくダメな菅直人演説

2011-03-13 07:33:00 | 3・11大震災
これまでのところ、関係各方面は困難な救助救援活動にがんばっておられるようで、それは民主党政権には関係なく、これまでの被災経験と防災活動の蓄積のおかげだろうと、菅直人首相の演説を聴きながらあらためて思った。

終始、空疎にして無内容。政治家の演説なんてそんなものさという声もあろうが、政治家とて日本国民の一人。日本が未曾有の被災に遭遇したとき、日本の唯一のリーダーとして、被災者を励まし国民を奮い立たす言葉が欠片もなかった。あえていうが、それは言葉の技術の問題だと思う。言葉を駆使すべき時だという判断はなかったのだろう。

今、この時、呆然と悲嘆と不安のただなかにいる多くの同胞に、その胸に届く言葉とはどんなものか。それを考えた節がない。どこまでも、民主党政権首班としての「等身大」の演説だった。選挙演説と変わらぬ言葉と調子。ふつうに使われるのと反対の意味で、分を弁えないものだった。

日本と日本人を背負う決意を込めた呼びかけは、ついにどこにもうかがえなかった。そういえば、それこそ空疎な精神主義ではないかと鼻白む向きもあろう。が、今、この時、呆然と悲嘆と不安のただなかにいるはずの多数の被災した日本人、そうした人々を見守る被災を免れた日本人を含めて、みな「等身大」以上の思いを堪えているのではないか。