徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

続・現世太極伝(第七十五話 音…存在の証)

2006-09-14 23:23:23 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 305号室…玄関の扉を開け…ただいま…と声をかける。
これまではずっと…和の遺影にそう語りかけてきた。 無論…遺影は応えない…。
それでも帰るたびに…ただいま…と言う…。

 最近では…輝がお帰り…と応えてくれる…。 
応えがあるというのはいいものだ。

 西沢のところもそうだが…滝川の部屋はもともと家族用に設計されたものなので後から部屋数が変更できるようになっている。
滝川が普段ベッドルームとして使用しているところにはふた部屋分のスペースがあり…輝に使ってない部屋を貸しても不自由はしない。

 いつもは火の気のない部屋に…今夜はおいしそうな匂いが漂っている。
豚肉やソーセージをザワークラウトと煮込んだスープ…。
セロリ…にんじんなどの野菜やインゲン…大豆など豆類をたっぷり入れて…。

 「いい匂いだな…。 美味そうだ…。 」

滝川が鍋を覗き込むのを輝は愉快そうに笑いながら見ていた。

 「さっき…ノエルのところにも半分届けたのよ…。 寄って来なかったの?
紫苑が遅くなるみたいだから…こちらへ来て一緒に食べようって誘ったんだけど… クルトの風邪がアランにうつっちゃったみたいなのね。
ケントにもうつすといけないからって遠慮しちゃって…そんなこといいのに…。」

 ノエル居たんだな…。 紫苑が泊りかも知れないって言ってたから…それなら亮くんとこへ行くだろうと思ってたもんで…。
そうか…アラン…風邪か…後で診に行ってやろう…。

 何と言うこともない静かな夕餉…。
和が居た時は…もう少し賑やかだった。 話好きで明るい女だったからなぁ…。
 それでもひとりの時とは違って…なんやかや話ができる。
西沢を通じての長い付き合いだから共通の話題もある。
そのせいか…このところ結構305号で過ごす時間が増えたような気がする…。

滝川が片付けをしていると…輝が絢人を連れてキッチンへやってきた。

 ほら…ケント…先生にお休みなさい…また明日ねって…。
ノエルが滝川のことを先生と呼んでいるので…子どもたちにもそう言ってきかせている。
 絢人はまだバイバイするのも無理だが…滝川に向かってにこっと笑う。
抱っこしてくれる…というのも分かっているみたいだ。

 滝川は絢人を受け取り…ちょっと頬ずりし…お休み…と囁いた。
ノエル父さんじゃなくて…ご免な…。 

 片付けが終わってしまうと301号に行って…吾蘭の風邪の具合を診た。
来人の時もそうだったがちょっとした鼻風邪でたいしたことはなかった。
何かあったら呼ぶようにとノエルに言いおいて…部屋に戻った。

 絢人はあっさり寝てしまったとみえて…輝は居間で雑誌を見ていた。
これ…恭介の写真じゃない…? あ…やっぱり…そうだ…。

 部屋の中から外を覗く品のいい西欧系の女性…。 片手でカーテンを掴み…片手は胸に当てられている。
誰かを待っているのか…物思わしげな横顔…レースをあしらった薄手のガウンから覗く薄桃色の蕾み…福与かな乳房…。
 まとめて結い上げた髪に続く白いうなじが印象的…。
まるで…物語の一シーンのようだ…。

 「このモデルいいわね…。 この首を…私のアクセサリーで飾りたいわ…。
あなたって…本当に首とか喉に拘るのね…。 」

 喉フェチ男…と仲間内では呼んでいる。
確かに人物を撮る時の滝川はモデルの性別に関わりなく…喉や首…うなじのラインの美しさに拘る…。

 「いいだろ…僕の好みの綺麗なラインを見つけるのには苦労するんだ。
その点…紫苑は抜群…。 喉でもうなじでも何処でもOKだからな…。 」

 はいはい…あなたの紫苑ちゃんは確かに素敵よ…。
彫金する私が見ても…あの喉は飾り甲斐があるものね…。

 「おまえのも…悪くはないぜ…。 ちょっと手入れすれば完璧…。 」

 あ…そ…何なら食べちゃってもいいわよ…。
紫苑ちゃんほど美味しくはないかもしれないけど…。

えっ…? どっちが…?

どっちって…何よ? 

 「紫苑より美味しくないのは…おまえなのか…僕なのか…って…? 」

 輝は苦笑した…。
馬鹿ね…そんなこと真面目に考えてないで…試してご覧なさいよ…。
すぐに分かることじゃないの…。

それは…まあ…そうなんだけど…。

 何にもなくて…ケントのお父さんを続けるつもり…?
そこんとこ申し訳なくて…気になるっていうか…嫌なのよね…。

 輝がそっと滝川に触れた。
滝川は身を強張らせた。

 責任とって…とか…結婚しよう…なんて言わないわよ…恭介。
みんな同じ…紫苑も…ノエルも…友達でいいわ…。
そうやって生きてきたんだから…そうやって生きていきましょうよ…。

 輝…。

 滝川は輝を抱き寄せ…うなじにキスをした。
地上最悪の天敵同士…が…お互いに共存を認め合った瞬間だった…。 



 西沢のための夕食を冷蔵庫に入れて…寝室へ引き揚げる前にもう一度子ども部屋を覗いた。
吾蘭も来人もよく眠っていた。
西沢が居ないので風邪気味の吾蘭が少しむずかるかな…と思っていたが…特に機嫌の悪い様子はなかった。

 疲れたぁ…。
寝室へ戻ったノエルはベッドの上にどさっと身を投げ出した。

 今日一日仕事をしながらずっとふたりの面倒を見ていた…。
いつもは西沢の手があるが…まるっきりひとりで…となると勝手が違う。
 他所のお母さんはすごいなぁ…何人もの子どもを毎日毎日ひとりで面倒看てるんだからなぁ…。
僕は一日でぜいぜい言っちゃうよ…輝さんに晩御飯まで作って貰ったのにね…。

 紫苑さんも…すごい…。 
仕事しながらアランの世話をして愚痴ひとつ言わないんだもの…。
僕なんか店ではみんなの手を借りちゃってるのに…。

 ぼんやり天井を見た。 さっきスミレちゃんからメールの返事が届いた。
大丈夫よ…何とか頑張ってるからね…と言っていた…。

 薔薇のお姉さん…死んじゃったんだもんね…。
スミレちゃんもだけど…きっと紫苑さんも大ショックなんだろうなぁ…。

 そんなことを考えていると…西沢が戻ってきたらしく鍵を開ける音がした。
いろんな音が聞こえてきた。
 扉の音…シャワーの音…湯船に浸かる音…。
歯を磨きながら子ども部屋を覗く音…。

 冷蔵庫を開ける音…水を飲む音…。
生きていると人はいろいろな音を立てる…。

 音にはその人独特の特徴があり…その人の存在する証でもある…。
突然…その音が日常から消えてしまったらと思うと…何か怖いような気がする…。
 以前にそれに近い経験をしているから…余計にそう思う…。
あの時…西沢の生命の火が消えていたら…そう考えただけで今でも涙が溢れる…。

 ただいま…と寝室に入ってきた西沢はひどく浮かない顔をしていた。
可哀想に…やっぱりショックだよねぇ…とノエルは考えた。
美咲が死んだ時…僕もつらかったもん…。

 う~胃が痛い…。
西沢は倒れこむようにベッドに突っ伏した。

 「どうしたの…紫苑さん…? 先生呼ぼうか…? 」

ノエルは飛び起きて西沢の背中を擦った。

 「何でもないよ…。 神経的なものなんだ…。 嫌なことが続いたから…。 」

すぐ治まる…。 西沢は痛みに顔を顰めながらもそう言って軽く笑った。
ノエルの心配そうな顔を見て…そっと頬を撫でた。

 「疲れた顔して…。 ずっとお母さんで居るのはつらいだろう…?
我慢しないで…時々は男の子に戻って遊んでおいで…。 
僕の仕事が終わった後なら…ふたりを置いて行っても大丈夫だから…。 」

 西沢がそう勧めてくれても…有り難いとは思うが…はいそうですかと遊びに行く気にはなれなかった。
 西沢の外出はほとんどがお役目か仕事…健康の為に時々スポーツ・ジムで汗を流す以外には遊びに行くことなど滅多にない。
それでさえ…最近は忙しくてなかなか…。

 吾蘭や来人の為に多くの時間を割き…家事までこなしながら仕事をしている。
いくら女で居ることが不本意でも…その西沢にこれ以上負担はかけられない…。

 「有難う…でも…もうちょっと待つよ…。
アランやクルトが幼稚園に入れば少しは楽になるだろうから…。
先生に任せっぱなしのケントのこともあるし…。 」

 それが切なかった…。
吾蘭と来人の母親であるノエルは…絢人の父親としての役目を思うようには果たせない…。
 もともと輝はノエルに父親であることなど期待してはいないので…このまま行けば絢人は滝川の子どもとして育つことになる…。

 「亮の…木之内の…お父さんの気持ちが何となく分かる気がする…。 
紫苑さんを手放さなきゃならなかった時のお父さんの気持ちが…。 」

 心なしかノエルの声が震えた。
それは…そんなに遠くない未来のように思えた。

ノエル…。心配しなくていいよ…。
恭介はちゃんと…きみの立場を考えてくれるよ…。 きみがケントのお父さんで居られるように…手放すなんてことしなくていいように…さ。

 「恭介は…西沢の養父とは違う…。 ケントを独占して閉じ込めるようなことはしない…。
その点は…安心していいよ…。 」

硬い表情で西沢が呟いた。

 やなこと思い出させちゃった…。 
ご免ね…紫苑さん…。
 …なんでこんな話になっちゃったんだろ…?
紫苑さんの胃痛の話をしていたはずなのに…。

 「そうだった…。 さっき胃薬買って飲んじゃった…。 
胃薬なんて何年ぶりのことか…。 僕はわりに丈夫な方なんで…。 」

胃の辺りを擦りながら西沢は言った。

やっぱ…齢なんじゃない…? そろそろ中年だし…。

はぁ…? 何だって…? 
恭介といい…きみといい…人を親父扱いかい…?

冗談だよん…とノエルは笑った。

 胃痛の原因は分かってはいるけれど…どうしようもないからなぁ…。
物思いに耽ってぼんやりしだした西沢にノエルがそっと身を寄せてきた。
寄り添いながらそっと胃の辺りを擦ってくれる。

こういうところは…女なんだけど…ねぇ…。
華奢な手を引き寄せて抱きしめる…。

 やがて…西沢の腕の中で…ノエルが安らいだように寝息を立て始めた。
その穏やかな寝顔を眺めているうちに…痛みも薄れ…西沢も引き込まれるように眠りに落ちた。









  
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続・現世太極伝(第七十四話 薔薇の最期…。)

2006-09-14 09:45:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 銃だなんて…。 スミレは怒りのあまり吐き気を催しそうだった。
能力者が…銃を使うだなんて…邪道もいいとこ…。

 戦闘能力のない麗香には銃でも特殊能力でも襲われれば同じことだろうが…それでも銃を使うというのは正体隠しが見え見えでいやらしい。

 そんなことしたって…バレバレよ…。
小手先の誤魔化しなんざ…この国の能力者には通用しないんだからね…。

 思ったとおり…急所外れていた三宅は命に別状はなく…まだ眠ってはいるもののそれほど心配なことはなかった。
利用されてばかりで…不憫な子だわ…とスミレは思った。

 特別病棟の廊下を急ぎ駆けて来る靴音…麗香の部屋の前でぴたりと止まった。
チャイムがあるのに病室のドアを叩き壊さんばかりの勢いでノックする音がして…返事と共に西沢が飛び込んできた。

 「麗香は…? 麗香の容態は…? 」

 ああ…紫苑ちゃん…待ってたのよ…早くお姉ちゃまに会ってやって…。
スミレは奥の部屋へと西沢を引っ張って行った。

 ばばさまの魂の力を借りて何とか持っているらしいの。
そうでなければ…。  

 眼を閉じたままの血の気を失った弱々しい顔をひと目見た時…西沢の胸に鋭い痛みが走った…。
西沢の治療能力では…もう奇跡を起こすこともできなかった…。

 紫苑…何故…家門の壁などぶち壊してでも麗香を護ってやらなかった…?
どうしようもないこととは分かってはいても自分を責めずには居られなかった。

 「ご免よ…麗香…。 傍に居てあげられなくて…。
護ってあげられなくて…ご免…。 」

 麗香の耳元で…西沢はそっと囁いた。
西沢の声に反応したのか…麗香は薄っすらと瞼を開けた。

 「お姉ちゃま…お姉ちゃま…! 」

 スミレが声をあげた。 
紫苑ちゃんよ…お姉ちゃま…ずっと待ってたんでしょう?

 「し…おん…。 お願い…。 智明の…後見…を…裁定…人…の…宗主…に…。
この子…ひとりぼっち…に…なっちゃう…の。 
後継に…指名…した…けど…後ろ楯…なくて…可哀想…だから…。 」

麗香は拝むような目で西沢を見た。

お姉ちゃま…私のことなんて今どうでもいいのに…。
時間がないのよ…。

 「分かった…。 間違いなく智明をばばさまの後継に立てる。
後見のことも宗主にお願いする…。 
僕もできる限り力になるよ…。 」

 西沢は何度も頷いた。
麗香の前で…そうはっきりと約束した。
麗香はほっとしたように…嬉しそうな笑みを浮かべた。

 「帰ってきて…しおん…。 あの…部屋…。 しおん…と私…だけの…部屋…。
まだ…こん…なに…し…おんが…好き…。 」

過去を思い浮かべているのか…麗香はぼんやりと天井を見つめた。

 「ノエルが嫉妬してる…。 
薔薇のお姉さんを忘れられない僕の心に気付いている。
 悪い亭主だけど…どうしようもない…。
きみが好きだよ…。 」

冗談っぽく微笑みながら西沢が言う…。

 ほんと…悪い…ひと…。 
けど…いつ…見ても…憎めない…その笑顔だけは…。

 「嬉…しい…わ。 
ノ…エル…ちゃ…んから…焼き…もち…焼いて…貰え…て…。 」

しおん…。

 それきり…麗香の言葉は絶えた。
薔薇のように美しく微笑んで…西沢に手を取られながら…。

 逝ってしまったと分かっても…西沢は…その手を離すことができなかった。
まだ温もりのある手…愛して止まない女の手…。
 頬寄せて…キスして…涙が溢れてくるのを必死で堪えた…。
笑顔のまま見送ってやりたかったから…。



 庭田本家は家格に恥じぬ荘厳な葬儀を執り行った。
喪主は智明が務め…これもまた…普段とはまるっきり人が違ったような威厳ある後継ぶりで…周りをおおいに驚かせた。

紫苑…僕は今…この瞬間から智明に戻る…。

 麗香が亡くなった後で…智明は西沢にそう宣言した。
長年…被り続けていた道化の仮面を外し…正当な天爵ばばさまの後継者としての顔を同族に曝した。

 智明を後継とすることに異論がなかったわけではない。
先代の指名があって…庭田の長老衆が智明の中にばばさまの魂を確認してさえも…納得しない者も居た。

 内部から反対者が出ることは智明も十分に予想していたし覚悟もしていた。
外にできた者にとって後ろ楯がないということは…そういうことなのだ…。

 しかし…この件については比較的迅速に解決を見た。
麗香の遺言によって指名を受けた裁きの一族の宗主が、智明の後見を務めると正式に庭田に申し入れた為に、反対派の気持ちが大きく揺らいだせいだった。

 他家の当主の後見を引き受けるということは…それだけで家を乗っ取ると疑われても仕方のないほどの大事だが…宗主が敢えて危険を冒したのは庭田の安定が族長会議に欠かせない重要な要素になっているからだ。

 加えて…これまでの智明の働きが他の家門から高く評価されていて…対外的には智明が庭田の顔になっており…その価値には余人を以って代え難いものがあった。
それについては反対派も認めざるを得なかった。

 裁定人の宗主が乗り出したことで反対者も表立って異論を唱えるわけにはいかなくなった。
ようやく庭田は智明を天爵ばばさまとして長に戴き…再び動き始めた。


 
 「それじゃあ…仲根さんは族長会議の警備に行くんですか…? 」

キーを打つ手を止めて亮は仲根の顔を見た。

 「そう…。 今回は庭田の事件の検証が行われるんで…妨害されないように各地の御使者とエージェントが特別警備に出るんだ。 

警察で検証は行われているけれど…何しろ普通の人たちには分からないこともあるからね…。 」

 検証…ですか…。 う~ん…見てみたい気もするなぁ…。
内勤の亮は羨ましそうに言った。

 だろぉ! まあ…会議場内の担当にはずれりゃ外で立ち番だからさ…。
見られないかも知れないけど…。

 「全国の代表家門から選りすぐりのリーダーたちが集まってくる。
事件当夜の状況を読むんだ…。 前代未聞の大イベントだぜぇ…! 」

うわ~…行きてぇなぁ…。 

 「そんじゃ~行ってみるかぁ? 」

さっきまで電話を受けていた大原室長が亮に声をかけた。

えぇっ…?
 
亮も仲根も驚いて室長を見た。

 「今回さ…証人として華道家の紅村旭に参加して貰うことになったんだけど…そのボディガード…。
仲根と亮とでがっちり固めて来い。 勿論…会場内に入れるぜ…。 」

 やりぃ!
仲根と亮は手を打ち合わせた。



 かさこそと落ち葉の舞い落ちる音がする。 少し風が出てきたか…。
しんと静まり返った広い座敷の真ん中あたりで西沢は身動ぎもせず…ただ宗主が現れるのを待っていた。

 西沢の隣では智明が…信じられないことにひと言も口を利かず座っていた。
これがもしスミレだったら…際限なくべらべらとしゃべりまくっていただろう。
智明はどちらかと言えば寡黙である。

 使用人頭の声がして…開かれた襖の向こうから宗主と内室…お伽さまの三人が現れた。

 「待たせたね…。 」

 西沢は型通りに挨拶の口上を述べ、智明もそれに従った。
今日は母屋での正式な話になる。 
洋館でのように無礼講というわけには行かない。

 「近く…族長会議で事件の検証が行われるが…その前に…庭田にもいろいろな事情があることと思うから…前以て聞いておこうと思ってね…。 」

 宗主は穏やかに智明の方を見た。
智明は軽く…一礼した。

 「ご存知のとおり…姉はお告げ師ですから…この事件についてまったく気づいていなかったというわけではありませんでした…。

 ですが…庭田では…古からの禁忌として自らの運命を事細かに調べてはいけないことになっています。
姉もそれに従って…敢えて知ろうとはしませんでした。

 気丈な人で…すでに覚悟を決めており…怖れてもいませんでしたが…庭田の行く末だけは気に掛けていました。 」

 智明の話によれば…三宅を身近に置くようになった頃には…それらしい気配を感じていたとのことだった。
避けられぬ運命ならば…そのことを最大限に利用しよう…と麗香は考えた。

 天爵ばばが何者かに殺されたとなれば…居眠りしている連中も眼を覚ますに違いない。
証拠無しでは思うように動きが取れない裁定人の宗主にも…動く理由ができるだろうし…。
警察では迷宮入りの事件になるとしても…族長会議では必ず答えが出るはず…。

 「ばばさまらしい…命に代えても我々の未来を護ろうとなされたわけだ…。
応えねばならんな…。 
 
 紫苑…おまえは後見人の使い…世話人として時々庭田に出入りせよ…。
智明の相談相手になってやるがいい…。 」

宗主は西沢にそう命じた。

 「時に智明…きみは庭田の本家で育ったわけではないが…庭田の祭祀…作法などは…学んだことがあるか…? 」

 それを言われると…つらいものがあった。
庭田にもお告げ師として天啓を受ける為の祭祀や儀式がある。
麗香が執り行う儀式などの介添えを幾度もしてはいたが…いざ自分が主になると上手くいくかどうか…。

 「お伽…庭田の儀式には御大親の祭祀に近いものがある…流儀は異なるが…立ち居振る舞いなど教授してやれ…。
おまえなら…智明の中のばばさまと話ができるだろうから…。

北殿…何か紫苑に伝えることがあるかね…? 」

 宗主は傍に控える内室にそう訊ねた。
お伽さまが青竹のように清々しい方なら…北の方は艶やかな大輪の牡丹…。
裁きの一族のもうひとつの家門の長らしく…宗主にも引けを取らない堂々たる女主。

 「紫苑…宗主と同様…私の特使としても…あなたにエージェントに命令できる権限を与えます。
家門の枠を越え…御使者と同じようにエージェントをお使いなさい…。
すでにこのことは通達済みです。 」

 えっ…ちょっと…待ってください…! 何か…誤解されているようですが…。
西沢は慌てて言った。

 「僕は…ただのはみ出し御使者で…みんな僕より先輩ばかりだし…仲間たちに命令なんてしたことはありません…。 」

 お伽さまが横を向いてぷっと噴き出した。
怪訝な表情で北殿が宗主を見た。

 「御使者長から聞いてはいたが…如何にもおまえらしい…。
特使とは…僕の直属の使者で…当然…御使者長の上を行くお役目だ…。
その権限を一度も使ったことがないとは…。 」

宗主も北殿も堪えきれずに笑い出した。

 ひえぇぇぇぇ~っ!
どうしよう…どうするよ…そんなあほな…聞いてねぇし…。

さっと血の気が引いた。 
 
 紫苑…大丈夫…顔色悪いよ…。
智明が心配そうに小声で訊いた。

大丈夫じゃねぇよ…。 死にそ~だ…。

 「あの…前にも申し上げましたが…やはり…僕には荷が重過ぎるようなので…分相応に普通の御使者に戻して頂けないでしょうか…?
生来…怠け者なので…そんなご大層なお役目は務まらないような気がします…。」

 襖の奥からもクスクスと笑い声が聞こえてきた。
宗主はとうとう腹を抱えて笑い出した。 北殿も堪らず声を上げて笑った。

 「紫苑…紫苑…そのように…不安がらずとも宜しい…。 心配ありませんよ。 
あなたはこれまでどおりにお務めを果たされればいいのです。
気を楽になさい…。
ただ…お務めの上でひとりでは困難なこともお有りだろうから…そういう時にはみんなに頼めと言っているだけなのですよ…。 」

 笑いながらお伽さまが説明した。
私も…始めは戸惑いましたが…今では慣れました…。
出来ることを精一杯すればよい…そう考えております。

あ…そうか…お伽さまも特使のひとりなんだ…。
西沢は初めてそのことに気付いた。

 「北殿は…あなたを見込んで権限を与えて下さったのです…。
何でもひとりで背負い込まないで…与えられた権限を有効にお使いなさい…。 」

 そう言ってお伽さまは北殿と笑顔を交わした。
結構…仲良さそうだ…このふたり…。 
宗主の子のひとりがお伽さまの子だっていう噂は…本当かも…。

 なんて…悠長に…人の噂を言ってる場合じゃないよ…。
お伽さまに諭されても…改めて知ったお役目の重さに西沢は頭を抱えた…。

 僕は万事てきと~な男なんだぜぇ~。 
お伽さまみたいに真面目なタイプじゃないんだよ~…。
どうするよぉ~…紫苑?

どうすりゃいいんだぁ~!










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続・現世太極伝(第七十三話 ひとりにしないで…。)

2006-09-12 10:21:30 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 紫苑…おい…紫苑…。 
滝川の呼ぶ声が西沢を現実世界に引き戻した。 ひどく魘されていたらしく…額も身体も汗びっしょり…。
滝川が心配そうにこちらを見ていた。

 「この間から…ずっと魘されてるじゃないか…? 今夜は特にひどい…。
そんなに…アランのことが…気にかかるのか…? 」 

 アランもだけど…。 西沢はちょっと扉の方を見た。
子供部屋に居るノエルが気付いた気配はない…。
来人が風邪気味なので今夜は付き添って寝ている。

 「麗香の…天爵ばばさまのことなんだ…。
議員を潰したタレこみは…ばばさまの仕組んだことじゃないかと…。
 庭田に危険が迫っているような気がして…。
今更…僕が案じてどうなるものでもないんだけれど…。 」

 連絡…入れてみたらどうなんだ…?
滝川は言った。

 「入れてる…スミレちゃんには…時々近況を聞いてるんだけど…何しろ表向きのことしか…言わないからね。 
それに…もしスミレちゃんが真実を話したとしても…ばばさまが宗主を通じて依頼してくるのでなければ…こちらからは手助けもできない…。」

 そいつは…どうしようもないなぁ…。 親切の押し売りになるってか…。
まあ…庭田も外には漏らしたくないこともあるだろうし…おまえに負担をかけたくないって想いもあるだろうし…な。

 西沢はふうっと溜息を吐いた。
どうしたらいい…恭介…? 僕はこんなにも無力…。 思うだけで動けない。
家門の壁を越えられず…あのふたりのために何もしてやれない…。

 切なさが胸を締め付ける。 自分の中で存在の意味が揺らぐ…。
何もしてあげられないなら…なぜ…おまえはそこに居る…。
無意味な存在…。 邪魔な存在…。

 役立たず…要らない子…西沢の胸の中でそんな言葉が渦を巻く…。
死ぬのよ…紫苑…生きているだけで迷惑なんだから…首を絞める手…口いっぱいに詰め込まれた睡眠薬…狂気に走った母親の言葉…。

危ない…と滝川は感じた。

 紫苑…どんなに助けてあげたくても助けてあげられないことってあるんだよ…。
僕は治療師なのに…和の命を救えなかった…。
 人にできることには限りがある…。 何でもできると思うのは驕りだ…。
むしろ…できないことの方が多いんだから…。

 「ま…いっか…きれいごと言ったって始まらないや…。
紫苑…おまえが生きててくれないと僕が生きられないんだよ…。 
おまえが居なくなったら…同時に僕も死んじゃうのさ…。

 和が言ってた…。 
ふたつの身体を持つひとつの存在だってね…。 もう…何度も話したけどさ…。
僕はまだ…死にたくないからな…おまえには生きてて貰わなきゃ困るんだ。 」

ふっ…と西沢が笑みをこぼした。

 「また…馬鹿言ってらぁ…。 何度も言うけど…齢が違うだろう…齢が…。 」

本気で信じてんのかよ…。 まったく…そこまでいくと和ちゃん信仰だね…。

 「齢なんかおまえ…生命誕生から40億年の歳月に比べりゃ…数年の差なんて問題にもならない…。 
太極のレベルから見りゃ瞬きほどのこともない…。 」

それに…僕にとっておまえは…大事な宝物だから…。

ドル箱だしな…。

おまえはぁ…この展開で…それを言うか…? 
ロマンの欠片もねぇ…。

 持ち直した…と滝川は思った。
ほっと…胸を撫で下ろした。

 紫苑はノエルのように自分から目立った自傷行為をするわけではない…。
けれども…桁外れに喧嘩に強いくせに義理の兄弟たちからの暴力には抵抗できなかったり…どんなに嫌なことでも我慢して耐えてしまったり…諦めの方が先に立ってしまう傾向がある。

 こちらが気付いてやらなければ…とんでもなく悲惨な状況に置かれていても愚痴ひとつ言ってこない…。
眼に見えないだけに非常に厄介だ。

 「大丈夫だよ…恭介…。 生まれて間もない息子が三人も居るんだ…。 
ひとりで暮らしてた時とは違う。 そう簡単にゃくたばれないって…。 」

西沢はそう言って微笑んだ。

 廊下の方からうにゃうにゃと来人の声が聞こえる…。
思わず半身を起こして扉の方を見る…が…声はすぐに消えた。

 不意に…滝川の腕が伸びて…振り返った身体を抱き寄せた。 
少しは…空白の時間が必要だぜ…紫苑…。
いつもいつも人のことばかり考えていないで…さ。

自分の為に泣いたり…笑ったりするのも…悪くないぞ…。
 
おまえの…腕の中でかぁ…?
西沢はニヤッと笑った。

おお…いつでも空いてる…。

弾けるようなふたりの笑い声が夜のしじまに響き渡った。 



 三宅がかつての仲間…仲間と呼べるほど親密ではなかったが…HISTORIANの組織員に呼び止められたのは…華道家の紅村旭の屋敷を訪問した直後だった。

 考えておきます…と三宅を送り出した紅村は、普段どおりに三宅を持て成した茶器を片付けようとした。
茶器に手をかけた途端…突然…頭の中にお経みたいなものが流れたような気がした。
 妙だと思って三宅の後を追い玄関のあたりまで近付くと…いつもは静かな屋敷の周りで聞きなれない争うような声が聞こえた。

 紅村はそっと窓を開けて覗き見た。
ふたりの外国人が紅村の家を出たばかりの三宅をどこかに連れ去ろうとしていた。
紅村は慌てて屋敷の外へ飛び出した。

 「ちょっとあなたたち…その子をどうしようって言うんです…! 
うちの従弟に何の用です…? いきなり襲いかかるとは失礼じゃありませんか!」

紅村が突然現れて大声で怒鳴ったのでふたりはたじろいだ。

 いや…紅村先生のご親戚とは存じ上げず…人違いでした…などといい加減な言葉で取り繕って…ふたりはそそくさとその場から逃げるようにして去って行った。   
 「大丈夫…? あなた…怪我しなかった? あいつ等が例の男たちですね…?
西沢先生から事情を伺っててよかった…。 」

紅村は心配そうに三宅の顔を覗きこんだ。

 「有難うございます…紅村先生。 僕はかつて奴等に騙されて…恋人を死なせてしまったことがあるんです。
もう二度と奴等のことは信じない…。 
 だけど…今頃なぜ…僕を連れ出そうとしたのだろう…?
僕なんかはただの使いっパシリにされていただけで…奴等からほかされたも同然な形で手を切ったのに…。 」

三宅は如何にも納得がいかないと言う表情で首を傾げた。

 「まあ…とにかく無事でよかった…。 それにしてもなんて奴等だろう…白昼堂々人を襲うなんて…。
あいつ等がまた襲ってこないとも限らないから十分に気をつけて帰りなさい…。
 こういうことは黙っていてはいけません…。
後々…何が起こるか分からないから…戻ったら庭田の方たちにもちゃんと伝えるのですよ…。 」

 紅村にそう言われて三宅は素直に頷いた。
三宅が何度も礼を述べて帰って行った後…しばらくして…少し不安になった紅村は庭田に連絡を入れてみた。

 ばばさまの代理人が電話を受け…三宅が無事戻ってきたこと…三宅を助けて貰ったこと…に対して丁寧に礼を述べた。
こちらから連絡すべきところを申し訳ない…と代理人は礼儀正しく詫びた。

 概ね…庭田の印象は良かった。
三宅という人については…西沢先生も気にかけてらしたから…お耳に入れておいた方がいいかも知れない…。

 紅村は早速…西沢に電話を入れ…さっきの出来事を話した。
西沢は…連絡を貰った礼を述べるとともに…目撃者となった紅村の身を案じ…十分に注意するようにと忠告した。



 闇を劈くような銃声が薔薇の館に轟いた。
予約受付の相談に来た本家の執事を相手に、天爵ばばさまの次の仕事の段取りを決めていた最中に…。

銃…だなんて…まさか…。

 そう思っているとさらにもう一発…。
スミレは部屋を飛び出した。 執事が後から追ってきた。

 館中の人間が主の部屋の前に集まって来ていた。
恐れて誰も部屋に入ろうとはしない。

お姉ちゃま…お姉ちゃま大丈夫? 

 どんどんとドアを叩きながらスミレが叫んだ。
返事はない…。

開けるわよ!

 ドアの奥には…背中から血を流して…うつ伏せに倒れている三宅の姿があった。
すぐ傍に使われたと思われる銃が落ちていて…それはスミレにはまったく見覚えのないものだった。
僕じゃない…僕じゃない…と三宅は震える声で呟いていた。

 少し離れたところに麗香が仰向けに倒れていた。
胸か…腹の辺りから血が滲み出していた。

お姉ちゃま!

急いで駆け寄った。

お姉ちゃま…しっかりして…お姉ちゃま…。

まったく意識はなかったが…まだ息をしていた。
 
スミレはすぐに皆を振り返った。

 「三宅は背中から撃たれているわ…。 銃は傍に落ちているけれど…これは三宅のしたことじゃない…。
銃なんか…うちにはひとつもなかったはずだし…誰のものかも分からない。

 これは外部のものの仕業よ…。 何処かに痕跡が残っているかもしれない…。
みんな…いいわね! 心してちょうだい! 」

執事を始め…家の者はみな畏まって頷いた。

 「すぐに救急車を呼んで! 警察もよ! 」

しんと静まり返っていた館の中が俄かに騒然となった。
執事が電話に飛びつき…警察を呼んだ。

スミレはまだ意識のある三宅の傍に膝をつくと覗き込むようにして訊いた。

 「お姉ちゃまとおまえを襲った相手を見たの…? 」

否定するように小さく首を振った。

 「見えなかった…。 最初…誰かが銃を置いて…僕に撃てと言ったんだけど…出来ないと…断ったら…後ろから…。
先生…のところで…呪文…かけたから…奴等の言うなりには…なら…なかっ…。」

 三宅はそのまま意識を失った。
大丈夫よ…あなたは助かるわ…急所ではないようだから…。

 スミレはもう一度…麗香の傍に膝をついた。
お姉ちゃま…お姉ちゃま…そう簡単に逝ってはだめよ…。

奴等を…追い出すのでしょう…?
全国の能力者の連携組織を作るのでしょう…?
何ひとつ…まだ…完成していないわよ…。

置いて行かないで…。
僕をひとりにしないで…。

麗香…。
  








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続・現世太極伝(第七十二話 ぴったりだろ…。)

2006-09-10 16:05:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 同じくらいの小さなにゃあにゃあが…あっちとこっちに居る…。
ようよう一歳になったばかりの吾蘭は物珍しそうに覗き込む。
 このふたつのにゃあにゃあにはとがった耳も尻尾もない…。
ふわふわの毛もない…。
 けれど…確かにニャアニャアと鳴く…。
お猿さんみたいなのにニャアニャアと鳴く…。

吾蘭にそっくりの来人(クルト)…ノエルに似た絢人(ケント)…。

 「赤ちゃん…可愛いだろ…アラン。 ふたりともきみの弟だよ…。
アランはお兄ちゃんになったんだ…。
お兄ちゃんは赤ちゃんよりずっと強いんだから…優しくして可愛がってあげるんだよ…。 」

西沢は…得体の知れない生き物を前に不思議そうな顔をしている吾蘭にそう言って聞かせた。

 生まれてたった一年しか経っていない吾蘭に自分の方が大きいとか強いとかいう意識があるかどうかは分からない。
けれども…そうした自覚の有る無しに関わらず…赤ん坊に怪我を負わせるような危険な行動を取ることのないように教えていかなければならない。

 吾蘭はすでに自分で歩けるし物も使える。
本人にその気がなくても事故の起きる可能性は十分にある。
故意にやるとは考えたくはないが…。



 二年続きの奇跡と恐怖の難産を乗り越えて…さすがのノエルもボロボロ状態…。
なかなか身体が回復せず…有と滝川の両方から毎日のように治療を受けている。
去年のようには動けず…筋トレもお預け…。

 輝は細い身体でも極めて元気。 超安産だったこともあって回復も良好…。
たっぷり出るおっぱいは絢人だけでなく来人にも隔てなく与えられる。
時々は吾蘭もご相伴に預かる…。

 産休と称して工房を閉じている間にも…慌てないでいいからと幾つか仕事の依頼が来ていて…早めに工房を開けて絢人連れで仕事をしようか…とも考えていた。

ただ…普段は工房で仕事をしていても、顧客がいる限りは、時には外を回らなければいけなくなることもある…。

 外回りには…連れて行けないものね…。
もう一度保育園探そうかしら…出産前に探した時は何処も欠員待ちだったけど…。

 家に居るうちは僕が看てるよ…とノエルは言ってくれたが…ノエルも身体が回復すればすぐに店での仕事が待っている…。

 吾蘭は普段…家で仕事をしている紫苑が看ているが…如何に扱いに慣れた紫苑でも仕事をしながら三人もの赤ん坊の面倒を看るのは無理だ。

 定休日なら僕が看ている…と滝川も言ってくれたが…その日にタイミングよく外回りになるとは限らない…。

 月に数回のことだけれど…臨時にベビーシッターを頼もうかしら…。
長時間じゃないから…その方がいいかも…。
でも…知らない人だから…トラブルが心配ねぇ…。

 「吾蘭の時みたいに僕が店へ連れて行くよ…。 奥の部屋にふたりを寝かせておけばいいさ…。 毎日じゃないんだから大丈夫だよ…。
吾蘭は紫苑さんが看ててくれるし…もう学校があるわけじゃないし…。 」

 ベビーシッターを頼もうか…と思いながらも少し躊躇っている輝に…智哉に許可を貰ったから…とノエルが笑顔で伝えてきた。
ノエルなりに親として絢人のことを考えていたのだろう…。

 ノエルの実家に迷惑はかけたくなかったけれど…智哉から話を聞いたのか…その後で母親の倫から電話があって…どうせベビーシッターを雇うなら格安で雇われてあげるよ…と言ってくれた。

 ただじゃないってところが…いいじゃない…?
絢人は孫だけど…輝は嫁ではないから…気を遣わせまいとする倫なりの思い遣りなんだろう…。 
 断るのも大人気ないので外回りの日だけお願いすることにした。
時給はノエルのバイト時代と同じ800円ってことで…。

   

 部屋に籠もってイラストを描き…ひとりきりで時が止まったような生活をしてきた西沢にとって…この数年の間の環境の変化は実に目まぐるしかった。

 今では飛ぶように毎日が過ぎていく…。
ひとりで居る時間があるというのが不思議なくらいに…。

 夏の終わりにようやく体調の戻ったノエルが店に復帰した。
輝が絢人を…ノエルが来人を連れてそれぞれに出勤していった後…ひとり残された吾蘭を仕事部屋のチャイルドサークルの中へ入れて遊ばせておいて…イラストボードに向かう…或いはパソコンに…。
そんな生活が再び戻った。

 仕事は順調…家庭は円満…世間的に見れば…まずまず幸せに暮らしていると言えるだろう…。
突然…送られてくる指令書と…内と外に気がかりが幾つか…それさえ何事もなく無事に済んでくれれば…。

 西沢のように別の仕事を生業としながらお務めをする御使者は、御使者を専業とする有や亮たちとは異なって常時任務についているわけではないから、指令があれば優先的に動くことになるが、なければごく普通に生活できる。

 普段は何気ない日常の中にどっぷり浸かっていて構わないはずなのだが…吾蘭と来人のことがあるせいか…気分的にずっとお役目続行状態が続いていた。 

 もうひとつ…あの議員から栄光の座を奪った者がいったい誰だったのか…?
何処からか情報が漏れる…それはどんな世界にでも起こり得る事だから別に驚きはしないが…エージェントが該当者を割り出した直後にその該当者が潰されるというのはあまりにも出来過ぎてやしないか…?

いかんいかん…今はオフ…お役目は忘れて本業に専念しなきゃ…。

 出来上がった指定サイズのイラスト数枚を受け取りに来た玲人に渡し…お昼前に少しだけ吾蘭を公園に連れて行き…公園のお母さんたちから軽く情報収集…。
これもお仕事…。 

 通りがかりの学生…コンビニの店員…喫茶店のマスターと客…書店の店主等々…ありとあらゆる会話の相手が…西沢にとって大切な情報源…。

 アランが一緒だと話相手が警戒しないからその点は助かるね…特に女性が…。
思わぬ効果にちょっと気をよくする…。

 帰宅して吾蘭に昼御飯を食べさせ…御腹いっぱいで幸せそうに御昼寝している間にパソコンに向かう。
仕入れた話を忘れないうちに入力…。 時折…子ども部屋のベッドを覗く…。
ぐっすり…だ…。

 さあちょっと休憩…お茶でも飲もう…と思っていたところに…予約の入っていた早朝の出張撮影から滝川が戻ってきた…。

 「えらく早いご帰還じゃないか…スタジオの方は…? 」

遅番に任せてきた…。 早いったって朝6時からずっと詰めてたんだぜぇ…。

はいはい…お疲れさま…ほら濃いめのお茶だ…。

あ~うめぇ…。 アランは…?

 「子ども部屋…御昼寝中…。 」

 天使の時間か…。 可愛いもんだ…。 
思い出すぜ…おまえの幼い姿を…最高に可愛いアンティーク・ドールだった…。
アランも可愛いが…比じゃねぇな…。

 ふっ…と西沢が笑みを漏らした。
まったく何年経っても…。 

 何年経とうが関係ねぇよ…僕の原点はそこにある…。
たとえ…おまえが爺さんになっても僕の眼に映るおまえは紫苑ちゃんのままだ…。
僕が撮りたいもののすべてなんだ…。

 よせよ…今度は何のおねだりだよ…。
もう…モデルはやらねぇ…てか…やれねぇ…絶対…無理だし…。

 安心しろ…ポスターなんだ…。
親父の子育ての啓蒙ポスター…ぴったりだろ…。

 西沢は絶句した…。 頭痛がしてきた…親父かよ…ついに…。
そのうちに敬老会パンフなんて言いだすんじゃないだろうな…。

 滝川は西沢の後ろに回って説得を始めた…。
西沢口説き専用の甘ったるい声で…。

 紫苑…愛してるよ…。 モデル代はずむからさぁ…。
おまえが親父やるなんて誰も想像つかないんだよ…そこが狙いめ…。
結婚して子どもが居るのはみんな知ってるけど…永遠の独身みたいなイメージがあるから…。

 う~…その声聞くと鳥肌が立つ…。
西沢が顔を顰めた。

 「幻滅するだけじゃないのかぁ…? 」

 大丈夫…そんな写真は撮らない…。
キャッチ・コピーは…『命を育む仕事』…なんだ。

 紫苑…なぁ…頼むよ…。
う~ん…相変わらず…刺激的だ…この項と喉…愛してるぜ。
滝川の唇が頚動脈の辺りをするすると移動する。
 
いっぺん…どついたろか! 喉フェチ親爺…!

 クックッ…と喉を鳴らして滝川は笑う…。
嘘じゃぁないぜ…惚れて惚れて惚れぬいた相手だから…撮りたいんだ…。
西沢紫苑は僕にとって…最高の被写体…永遠のテーマ…。

 「まったく…喜んでいいんだか…悲しんでいいんだか…。
惚れてくれるのは…良くも悪くも男ばっか…。
よくもまあ…次から次へうじゃうじゃと…。

たまには…超ど級の女に惚れられてぇ…。 」

 不意に…麗香の顔が西沢の脳裏をかすめた…。
間違いなく…超ど級だったよな…きみは…。

 後悔なんか…していない…。
きみはきみのとるべき道を選び…僕は僕の歩むべき道を来た…。
今更…きみとの関係をどうこうしようとは考えていないけれど…。

 なぜか…このところ…やたら気にかかって…不安でいっぱいなんだ…。
スミレちゃんがきみのことを心配していたせいもあるかもしれない…。

 「どうかしたのか…? 」

 黙りこくってしまった西沢を窺いながら…滝川が怪訝そうに訊いた。
いいや…と西沢は答えた。

 子ども部屋で音がする…。
吾蘭が起きたようだ。
西沢は返事の代わりに滝川に軽くキスをした。

よっしゃ! OK取った!

そんな滝川の嬉しそうな声を尻目に、吾蘭の待つ子ども部屋へと向かった。
 








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続・現世太極伝(第七十一話 生き残る…地獄…。)

2006-09-08 22:05:30 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 おおばばさま…この世の終わりです…。 火の雨が降り…地は沈むでしょう…。
最早…どうすることもできません…。

 天の怒りに触れたのじゃ…。 滅びは…致し方のないこと…。
そうならぬように…さんざんご忠告申し上げたが…無駄じゃった…。

この国をこのような姿にしておいて…奴等は…すでに逃れたのでしょうか…?
何という無責任な者たち…恥知らず…。

 おそらくのぅ…だが…奴等もほとんどが滅びた。
残った者たちに未来へ繋がる記憶を刻み込んだということだが…。

 未来へ繋がる記憶…では…またこの国の悲劇がどこかで繰り返されると…?
こんなひどいことが再び引き起こされるのですか…?

 こうしたことは…人が存在する限り…幾度となく繰り返されるものなのだよ…。
愚かなことではあるが…これが初めてというわけはなく…これが終わりというものでもない…。
だが…未来には…すべてが失われる前に…過去に学んでくれる者が現れると信じよう…。

 ですが…この悲劇をどうやって後世に伝えられますか…?
逃げ延びた奴等はきっと真実を話さない…我々はもう…逃れる術を持たない…。

 おまえは…その力を認められて見習いになったばかり…まだ幼い。
我々はこの悲劇の記憶を未来へと繋げるために…おまえの魂をトツクニの予言の母の胎内に移すことにした。
 いまひとり…王に…諫言して幽閉されておられた偉大なる王弟の記憶も…いつか国を再興できるようにと願い…トツクニの母の胎内に刻む。
お気の毒に…王弟はすでに薨去あそばされていた…。

おおばばさま…私だけが生き残るなどとそのようなことはできません…。

 生き残る方が地獄ということもある…ここで我々とともに滅びた方が幸せかも知れぬ…。
だが…おまえにはこの悲劇を語り継ぐ使命があるのじゃ…。 
 時を越えて生きよ…。
せめて…おまえが再び生まれ育つ国だけは…この国と同じ轍を踏まぬように…。



 降り出した雨の音が暗闇の中で響き渡る…麗香と智明は同時に眼を覚ました。
薔薇の館のそれぞれの部屋で…まったく同じ夢を見た。
ふたりの中にある天爵ばばさまの記憶…。

 なぜ…姉弟同時にその記憶が存在するのかは分からない…。
通常は後継者だけが引き継ぐはずの記憶なのに…。 
 智明が麗香に気を使ってオネエを装っているのも…その記憶があるからだ…。
姉弟の間でお家騒動に発展しないよう伏線を張っている。

 麗香と暮らし始めたのは高校の終わり頃…母が亡くなって引き取られた。
先代によって指名された麗香がばばさまの後を継ぐ数年前のこと…。
 麗香もひとり…智明もひとり…父親で繋がっているとは言え…それまでほとんど会ったこともない異母姉弟だった。

 麗香がばばさまになってからは…まるで影のように寄り添い…己を犠牲にしてひたすら麗香のために働いた。
麗香のため…今もそれは変わらない…。

 しかし…今回のことで庭田家の顔となったのは各地の有力な家門に危機を説いてまわっている智明の方で、薔薇の館の奥深く神秘のベールに包まれた美貌のお告げ師天爵ばばさまではなかった。

 外との交渉はすべて智明の仕事だから…結果的にそうなっただけのことだが…麗香の周りには…それを抜け駆けと見る者もないではなく…うんざりするような陰口も時折耳に入ってきた。

 馬鹿言ってんじゃねぇよ…。 
お姉ちゃまのためだから…苦労して…飛び回ってんじゃないかよ。
 自分のためだったら…はなっから動きゃしねぇ…。
こんな割りの合わねぇしんどい仕事…すぐにでもほっぽり出してやらぁ…。

 そう啖呵切れたらどんなにスーッとすることだろう…。
いいんだ…もう…何言われたって…。 誰がどう思おうと…かまやしないさ…。
紫苑だけは…分かってくれる…信じてくれる…。
 
 「スミレ…起きてる…? 」

 静かにドアが開いて麗香の囁くような声がした。
どうしたの…お姉ちゃま…? 
ベッドの上に半身起こしてスミレが訊いた。

 「また…あの夢よ…。 これで何度目かしら…いい加減疲れちゃったわ…。 」

 よっこらしょ…。
麗香はスミレのベッドの中に潜り込んだ。
スミレは身体を移動させて麗香が転げ落ちないように場所を広げた。 

 「う~ん…久しぶり…。 スミレの寝床…スミレの匂いがするわ…。
おまえもやっぱり男ねぇ…女の匂いじゃないわね。 」

 当たり前じゃない…今更…何言ってんのよ…。
スミレは憤慨した。 私は正真正銘の男よ! 

 「分かってるわよ…。 冗談よ…。 」

麗香は可笑しそうに笑った。

 「智明…これから先…何があるか分からないから…言っておくわ…。
万が一…私にことが起きた場合には…おまえが庭田の指揮を取りなさい…。
他の誰かに譲るなんて馬鹿な真似は絶対にしてはいけない…。

 おまえが後を引き継ぐのでなければ庭田はその時点で終わりよ…。
この家は代々のばばさまが指名した者でなければ動かせない。
ばばさまの魂はその者だけに宿るのだから…。 」

 お姉ちゃまったら…縁起でもないこと言わないで…。
今は我慢の時よ…。 焦らないで…じっくりとチャンスを待つの…。
 裁定人の宗主からも紫苑を通じて内々にご忠告を頂いてるわ…。
庭田のためにも慎重に行動するようにと…。

 「紫苑は…頼れる人よ…。 宗主も義に厚いお方だわ…。
家門の垣根を越えて…きっと…おまえの力になってくれるでしょう…。 」

 もう…そんなことばっかり…。
弱気になっちゃだめなんだからね…お姉ちゃま…。

 雨脚がさらに強くなった…。
気まずさと遣る瀬無さだけがトグロを巻く…闇の中で会話が途切れた…。
 沈黙の中に降りしきる雨…。
大地を蹴り…草木を弾き…岩を穿ち…。

 生き残る方が地獄ということもある…。
夢の中のおおばばさまの言葉がやけに耳に残る…。

 思い過しよ…と呟く…。
お告げ師に…思い過しなどないものを…。



 内室方のエージェントによって再び議員や官僚の調査が行われ…タイプ別に分類されたリストが出来上がった。
それによれば…ほとんどの議員や官僚は無害化されていて問題は無かったが…有力な議員や官僚の中に数名…該当者が居た。

 最も眼をつけられていそうなのが…将来の総理大臣を嘱望され…政界の中心人物となるだろうと期待されている若手…と言ってもすでに中堅どころだが…の議員。
そして…彼を取り巻く官僚たち…。

 教育・福祉の充実・諸外国の尊敬を受けるに値する素晴らしい国家等々…夢のような未来を並べ立て雄弁に語る…耳障りのいい言葉は人々を惹きつけ…ちょっと考えれば如何に危険なことを言っているかが分かりそうなものだが…相手に熟慮する隙を与えない…。

 これまでのHISTORIANの言い方からすれば…彼はオリジナルの特徴を備えているように思われるが…信じられないことにワクチン系である。
とても…パシリ三宅と同類とは思われない…。

ちなみにオリジナル系の添田は別に世の中をひっくり返そうとは考えていないし…黙々と任務を遂行する真面目型である。

つまりは…多少の影響はあるかもしれないが…プログラムが完全に性格を左右することはないと考えられる。

HISTORIANが彼を使ってどう動くか…。
24時間体制エージェントたちの監視が始まった。

ところが…。

 監視が始まってすぐに監視する必要がなくなってしまった。
誰よりも有望だった彼があっけなく潰されてしまったのだ。

 武器の不正輸出発覚…正確には武器そのものではなく…輸出先で手を加えれば大量破壊兵器などの開発に使われる可能性があるという代物…。
それを国際的に懸念されている国へ輸出していた…。

 貨物の中で規制リスト品目に該当するものは…輸出の際に許可を取らなければならないことになっている。
しかし…規制リスト品目以外の貨物でもキャッチ・オール規制によって許可を受けなければならない品目がある。

 経済産業省からインフォームを受けた場合には必ず事前許可が必要だが…そうでなければ輸出者においてその貨物が許可を必要とするものか否かを審査する必要があり…慎重な判断を迫られる。

 一般人には想像もつかないだろうが…例えばクレーン車やダンプがミサイルに…ガラス繊維が核兵器などに使用される可能性がある…。
 輸出する相手国とその用途…それが安全か否か…。
無論…経済産業省では輸出に際しての事前相談を行っているから…その国や用途に危険性があるかどうか知りませんでした…では済まない…。

 勿論…議員自身が直接その件に関わっていたわけではない。
そこの社長個人から彼の資金管理団体が献金を受け取っていたことが明るみに出てしまった…。
 彼のイメージは大幅に崩れ…人気もガタ落ち…。
議員としては残れても…トップに立つ可能性はなくなった…。



 「動かす駒をひとつなくしてHISTORIANも痛手だな…。 」

 新聞片手にコーヒーを飲みながら滝川が面白そうに言った。
恭介…たっぷりとバターを塗ったこんがりトーストを輝の手が滝川に渡した。
お…ありがと…滝川はちょっと嬉しそうな顔で受け取った。
 
 世話焼きの輝は自分もパンを齧りながら…さっきから西沢や滝川にせっせと焼けたトーストを配っている。
ノエルのパンにまでバターを塗ってくれた…。

 「HISTORIANの目論見が外れたのはいいとして…このタイミングで誰が…タレこんだのか…そこが気になるんだよ…。
内室方のエージェントたちじゃないことは確かなんだ…。 」

バターの滴り落ちそうなトーストをどう齧ろうかと見回しながら西沢が言った。

 いつ食べているんだろう…と思うほどに輝はみんなに声をかける。
お醤油かけ過ぎよ…紫苑…。 ノエル…ほうれん草に胡麻振った方がいいわ…。
恭介…コーヒーのおかわりは…?

まるでみんなのお母さんみたい…とノエルは思った。

 輝が来て合宿生活のようになったけれど…協力し合って愉快に暮らしている。
懸念された滝川とのバトルもなく…極めて仲良し…本物の夫婦みたい…。

 本来ならノエルが輝の面倒を見なければいけないのだが…ノエル自身が妊婦さんだから…滝川におんぶに抱っこで申し訳ないと思っていた。
 
 そのことを滝川に話すと…気にしなくていいぜ…結構楽しんでんだ…と笑った。
それに…このマンション内じゃ…どうやら僕が輝の子のお父さんだってことになったらしい…。
かえって…悪いな…ノエル…おまえだってお父さんになりたかったのにさ…。

 そう…それがちょっと切ないところ…。
輝さんと同時期に妊娠なんてタイミングが悪過ぎ…。
お父さんの役目も果たせないままに…お母さんで居なきゃならない…。

輝さんにも悪いや…何にもしてあげられなくて…。

 あら…いいのよ…。 ノエルには面倒をかけないって約束で作ったんだから…。
それに…紫苑も恭介も…何だか楽しそうよ。

名前考えた…名前…? 

まだなんだよ…おまえは…?

何で…僕が考えるんだよ…それ…ノエルの仕事だろ…。

えっ…僕が考えるの?

なに…寝ぼけてんの…きみがお父さんだろ…。

えぇっ…考えてなかった…。

頼りねぇの…。

 寄せ集めのような家族に…間もなく新しい仲間が増える…。
問題はあっても身近な者の祝福を以って迎えられる命…。

 僕が生まれた時には…誰かひとりでも喜んでくれたのだろうか…?
ふたりめということもあって少しは気持ちの余裕も出てきた西沢の胸に…実母から要らない子と言われた自分の姿が浮かんだ。

 こんな思いは決して…きみたちにはさせない…。
だから…安心して生まれておいで…。

まだ見ぬ子らに…そう語りかけた…。










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続・現世太極伝(第七十話 叩いてはだめ!)

2006-09-06 17:43:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 別に意図したわけじゃないわ…と輝は空惚けた顔をして笑った。
身体は細身なのにノエルとは違って御腹が目立つ。
輝はどう見ても妊婦さん…。

 西沢も身重の女に難癖つけるほど大人気ないまねをする気はない。
まして未練がましい素振りなど…微塵も見せてはやらない。
落ち込んだ僕を期待しているなら…お気の毒さま…はずれだね。

 「それより…紫苑…この近くに手頃なマンションかアパート知らない…?
今は工房に住んでるけど…ここからちょっと離れてるじゃない…。
 この子が産まれてもなかなかノエルに会わせてあげられないから…いっそ住居だけこちらへ移そうかと思うのよ。 」

 マンションかアパートねぇ…。 
西沢は首を傾げた。これといって近くにいい物件は思いあたらなかった。
何しろ意識して見てないので…。

 「このマンションなら持って来いだけど…今…満室だしなぁ…。
駅前に不動産屋があるからあたって見たら…?

 僕も西沢本家からの独立を決めた時にそこへ行ったぜ…。
部屋決めた途端に…養父に連れ戻されたけどな…。 」

結局はその不動産屋から買い取ったこの部屋に閉じ込められたってわけだが…。

 「何なら…僕の部屋…305号室…半分使ってもいいぜ…。
仕事場はスタジオだし…休みの日はほとんどこっちで過ごしてるんだし…寝に帰るだけだから…。
 寝るのもこっちって時もあるし…。
寝室と機材入れるクローゼットさえ残しといてくれれば…さ。

 居間とキッチン…トイレと浴室は共同になっちゃうけど…それでもよければ後のふた部屋使っていいよ。
但し…ここよりは狭い。 
紫苑の仕事部屋はふた部屋分を繫げたものだけど…僕のところは普通にひと部屋だからね…。」

 恭介の…部屋ぁ…?  マジで…か? 
滝川の不意の申し出に西沢もノエルも瞬時固まった。
犬猿の仲と自他共に認めている…このふたりが同棲するのぉ…?

 まあ…天敵か…と言われるほど相性の悪いふたりだが…逆に相性が良過ぎてぶつかってるってこともないわけじゃないし…御腹大きいんだから…ひとりでいるよりは何かって時に安心だろうしな…。

 それも案外…いいかも知れない…と思い直した。
だめならだめで…産まれてから…また考えりゃいいし…。

輝はしばらく考え込んでいたが…悪くはないわね…と言い出した。

 「恭介と同棲するなんて思ってもみなかったけど…。
だけど恭介…子どもが産まれたら…あんたがお父さんと間違えられるわよ…。 」

独身なのにお父さんよ…お父さん…平気なの…?

 「僕は独り身だもん…誰に何言われようと構ったもんじゃないけど…おまえが他所から子連れで紫苑の部屋に通ったら…紫苑の子と間違えられるだろ…?
その方がややこしいじゃん…。 
僕の部屋から出掛ける分にはママ同士のお付き合いとしか思われないよ…。 」

 あっ…そうかぁ…ノエルは世間的にはお母さんだもんねぇ…。
疑いは紫苑に向けられるかぁ…。
なるほど…と納得したように輝は頷いた。

 そんなこと一向に構わないけどさ…ノエルの子は僕の子みたいなもんだし…。
西沢がそう言うと…輝はふふんと鼻先で笑った。
何だよ…その笑い…。

 「そんなら…恭介…お言葉に甘えさせて貰うわ…。
ちゃんと家賃払うからね…。 」

いいよ…そんなもん…どうせ使ってない部屋なんだから…。


 
 出産予定日にあまり近付くと引越しも大変なので…輝は早々に滝川の部屋へ移ってきた。
引越とはいっても家具などは工房にある部屋に置いたままだから…正に身ひとつ。
いくつかのスーツケースに着替えと日用品を詰めたりしただけ…。
必要なものはこちらで買うつもりだった。

 「ここ…なかなか快適ね…。 
作り付けの棚や箪笥が結構あるし…余分な買い物しないで済みそうだわ…。 」

 毎週…掃除のおばさんが来ることになってる…。
おまえが気にならなきゃ…それ以上やる必要はないよ…。
食器も調理器も好きに使って貰っていいし…エアコンも付けといたから…。
そう言って…滝川は合鍵を渡した。

 今まで恋人として西沢の部屋へ出入りしていた輝の御腹が…しばらく見ないうちに大きくなったと思ったら…突如…滝川と同棲を始めた…。

 管理人の花蓮おばさんは…昼ドラ紛いのこの出来事に興味津々…。
ワイドショーより面白いらしく…ことあるごとに顔を出した。

 少し煩わしくはあったけれど…このおばさんはたいそう世話好きで話好き…。
有名人ということで浮いてしまいそうな西沢と滝川がマンションの住民たちとトラブルもなく穏やかに過ごせるのも…このおばさんの口八丁の賜物だ。
こちらが愛想よくしておけば万事上手くことを運んでくれる。

 「いいのよぉ…滝川さんのだと思っとけば…。
そりゃあんた…西沢さんのかも知れないけど…そんなことどっちだっていいわ。
 いちいち面倒くさいこと考えんでも…ひょっとして他のかも知れないんだし…。
ここでは滝川さんがお父さんってことにしちゃえばいいの! 」

 花蓮おばさんがそう宣言すれば…このマンションではそういうことになり…輝も誰に何を詮索されることもなく静かに暮らせる。
 顔を合わせない形式のマンションではあっても人の眼と口は案外うるさいから、最初にズバッと言い切って後で有無を言わせないのもひとつの手。
敵にまわすと厄介だが…味方につけておけばまあまあ便利な人である。

 取り敢えず…お父さんは滝川…で話がついたらしい。
滝川にとっては濡れ衣…迷惑な話だが…マンション内はそれで…丸く収まった。
 
 定休日…ノエルは吾蘭をベビーカーに乗せて買い物に出かけた。
西沢が外の仕事に出ているので今日はひとり…。
吾蘭も重くなってきているけれど…御腹も重い…。
 時々貧血は起きるけれど今回は悪阻があまりひどくなかったから吾蘭の時よりは体力があるはずなのに…それでも結構しんどい…。

 今日要るものだけ買っとこ…。
後は紫苑さんの居る時に買えばいいや…。

 外に出られるので吾蘭は上機嫌である。
すぐ傍の駅前のスーパーへ行くだけでも吾蘭にとっては情報収集の場…。
触りたいものがいっぱい…行きたい場所がいっぱい…。
 
 「ノエル! 」

 スーパーの前で悦子が声をかけた。
久しぶりぃ…アランくん…お元気ぃ…?
 綺麗なお姉さんに声をかけられて吾蘭ご機嫌倍増…さすが紫苑の息子。
めいっぱい愛想を振りまく。

 悦子はこの春…修行先のブランカから実家の喫茶店に戻ったが、場所が近いので買い出しは相変わらずこのスーパー…。
御腹の重いノエルの代わりにベビーカーを運んでくれた。

 キャ~かわいい~! 
通りすがりの女の子たちが西沢似の西洋人形のような吾蘭を見て声をかけたり頭を撫でたりしてくれる。
 ご満悦の吾蘭…ア~とかウ~とか言ってちゃんとお姉さまたちと会話をする。
こいつ…相当な女好き…ノエルの笑顔が引きつった。

 買い物を終えて店に戻る悦子とスーパーを出たところで別れた直後…ノエルはまた誰かに声をかけられた気がした。

 「高木くん…お久しぶり! 」

スーツ姿の三宅が立っていた。

 「三宅…! おまえ…元気してんの? なに…仕事? 」

 まあまあ元気…。
この近くに住んでいる書家の所へ頼んであった原稿を受け取りに来たという。
ベビーカーを押すノエルの姿を見ても驚かないということは…ノエルの秘密に気付いたか…。

 「あ…この子がアランくんだよね…西沢さんとこの赤ちゃん…。 」

西沢さんとこの…? あ…気付いてねぇな…助かり…。 けど…すげぇ鈍感…。

三宅が膝を曲げて覗き込んだ途端…吾蘭の表情が強張り…火がついたように泣き出した。

 わ…泣かせちゃった…どうしよう…。
さっきまでの上機嫌は何処へやら…大泣きする吾蘭…まるで怖いものに襲われでもしたみたいに…。
赤ん坊を扱った経験のない三宅は当惑した。

 「ああ…大丈夫…多分もう眠いんだ…。 
さっきまで大興奮してはしゃいでたから疲れたんだよ。 」

 ノエルがそう言うと三宅は安心したように頷いた。
何か言いたげだったが…吾蘭が泣き止まないので話にもならない。
 それじゃあ仕事の途中だから…また…西沢さんたちによろしくね…。
三宅は軽く手を振って立ち去った。

 ぴたっと吾蘭が泣き止んだ。 信じられないほどのタイミングで…。
また…にこにこと愛想を振りまいている。
ワクチン・プログラムの完全体に…反応したんだろうか…?
ノエルの脳裏を不安が過ぎった。

 マンションに戻ってからも吾蘭は機嫌がよかった。
管理人室から顔を覗かせた花蓮おばさんにもちゃんと笑顔を見せた。

 玄関先からはいはいしてベビーサークルの所まで行く。
ノエルは吾蘭の手を拭いてやり…サークルの中に入れてから果汁の入った哺乳瓶を渡した。

 買い物の片付けをしている間…吾蘭はひとりで果汁を飲み…ノエルが戻ってきてオムツを替える頃にはごろんごろんを始めた。
 あっちへごろん…こっちへごろん…。
よっこらしょ…とノエルがすぐ脇で横になると慌ててそちらへ転がってきた。
 普段仕事で一緒に居られない分…甘えたいのか…しがみつくようにぴったりとくっつく。
ノエルの手が優しく背中をとんとんと叩くと…やがて…ゆっくり夢の世界へと飛んでいった。

 西沢が戻ってきた時…ノエルはまだ眠っていて…吾蘭の方が先に目覚めていた。
居間に入って最初に見た光景は…吾蘭の振り上げた両手がノエルの御腹を直撃するところだった。

 痛っ! ノエルが顔を顰めて眼を覚ました。
両平手だし…赤ん坊のすることだからさほど響きはしなかったが…結構痛かった。

西沢が急いでノエルを叩いた吾蘭の手を取った。 

 「アラン…だめだよ! 悪いおててだ! ノエルの御腹が痛い痛いだろう!
こんどパンしたらお父さんがアランのお尻をパンするよ! 」

 小さな赤ん坊に何処まで理解できるか…それは疑問だが悪いことは悪いと伝えなければならない。
吾蘭はきょとんとしていたが…叱られたのは分かったようだ。

 繰り返し教えていくしかない…。
叩いてはだめ…ということが理解できるようになるまで…。

 なぜ…御腹を狙ったのか…母親を起こすなら…普通…顔を狙うよな…。
まさか御腹の胎児を…攻撃したとか…?
いや…赤ん坊のすることだから…意味はないのかも知れない…。

 ついつい神経質にすべてを深く考えてしまう。
あまり良くないことだとは分かっているんだが…。

 吾蘭の成長に伴って少しずつ表面化してくる心配の種…。
西沢もノエルも不安を隠せない…。
杞憂であってくれればいいが…と心から願った…。

 
 






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続・現世太極伝(第六十九話 和らぐ…痛み。)

2006-09-04 23:22:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 スミレと連絡がついたのはそれから数日後のことだった。
忙しく飛び回っていたらしく…夕べようよう帰ってきたのよ…と笑っていた。
宗主の依頼とは言え…今更…西沢個人としては直に麗香を訪ねるわけにも行かないから…スミレと会う約束をした。

 スミレは庭田の本家から離れたところにマンションを持っている。
そこは…スミレの実母が暮らしていた部屋で…今は誰も住んでいない。
時折スミレが使うので日用品は揃えてあるし…手入れもきちんとさせているけれど…人気のない部屋はどこか寂しい。

 ここは唯一…スミレが庭田智明で居られる場所…。
誰にも気を使うことなく…素のままの自分で居られるところ…。

 先代の天爵ばばさまの実の孫ではあるが…智明は麗香とは異腹の弟…その母はあまり良い家の出ではなかった。
能力的には勝る智明だが出自の事情から麗香には遠慮があり…何かにつけて姉を立てるように気を使っていた。

 心が草臥れてくると…ひとりこの部屋でぼんやりと過ごす。
ほんの数時間…ほんの数分のこともあるけれど…少しだけほっとできる。
むせかえるような薔薇の香りから逃れて…。

 姉が嫌いなわけではない…むしろ慕っている。
姉のために身を粉にして働いて…それを厭わないほどに…。
けれど…時々は無性に…自分のための時間が欲しくなる。

 今日は…紫苑が来てくれる…。 ここへ来るのは何年ぶり…?
場所を覚えているだろうか…。
遊びに来るわけじゃないとは分かっていてもなんとなくそわそわしてしまう。

紫苑と自分のためにコーヒーを淹れる…。

 お姉ちゃまはお茶が好きだけれど…紫苑はいつもコーヒーだった。
お茶でも文句は言わないけれど…僕はちゃんとコーヒーを淹れてあげてた…。

チャイムが鳴る…。

覚えてたんだ…。 
何だか…ほっとしたような嬉しいような…。
いそいそと玄関へ向かう…。

 「お帰り…紫苑…。 」

 眼の前に優しい笑顔…あの頃と少しも変わらない。
お父さんになったって言うのに…ふたりめができたって言うのに…相変わらず…。

カッコいい~!

 西沢が花模様の小さな包みを智明に手渡した。
取り立てて甘党というわけではないがチョコレートだけは別物…昔から目がない。
 紫苑…ちゃんと覚えててくれたんだね…。
チョコレートよりも…その心遣いが嬉しかった。

 「ノエルちゃんの調子はどう…? 」

まあまあ…だね。 今回も予定よりは早くなりそうだけど…。

 「そっか…。 大事にしてね…。 」

 居間のテーブルにカップを並べ…コーヒーを注ぐ。
独り身だから…智明もそんなに変わっていない。
けれども…その表情には癒されないままの疲れが見て取れた。

 西沢は…宗主から内々に言付かった忠告を伝えた。
庭田自身の立場を護るためにも今は焦る気持ちを抑えて、来るべき時を待つようにとの内容だった。

智明はひと言ひと言頷きながら素直に聞いていた。

 「有り難いこと…他家の宗主がそれほどに庭田を思ってくださるとは…。
同じように古い歴史を持つ家柄とは言え…これまでそれほどの付き合いはなかったのに…。」

そう言いつつも…悲しげに溜息を吐いた。

 「僕もね…紫苑…。 何度も言ったんだ…。 焦っちゃいけないって…。
でも…今のお姉ちゃまには何を言っても無駄…。
 最早…お姉ちゃまですらない…。
完全におばばさまになってしまって…耳を貸そうともしない…。 」

 智明にしてみれば長い年月をかけて姉の信頼を得たはずの自分が、あっけなく蚊帳の外に置かれてしまったみたいで、ショックを隠しきれない様子だった。

 「おばばさまには何か考えがあるのだろうが…スミレちゃんにも内緒で…というのは非常に危険だね…。
何事かあった場合に庭田の内部で分裂を招く可能性がある。 」

 分かってる…。 でも…お姉ちゃまが何も話してくれない以上…僕としてはどうしようもないもの…。
三宅だって命令で動いているだけで事情を聞かされているわけじゃない。
 他の者もみんな…そう…。
誰も…お姉ちゃまの真意を知らないんだ…。

 智明は再び大きく溜息を吐いた。
働いて働いて…尽くして尽くして…やっと…ここまできたのになぁ…。
やっぱり…弟とは…認めて貰えなかったんだろうか…。

 「考え過ぎだよ…。 スミレちゃん…。 
ばばさまは誰よりも…きみを頼りにしてるじゃないか…。 」

 西沢のその言葉に智明は寂しげに微笑んだ。
たまには…僕も頼ってみたいよ…紫苑。 
 あなたが同族ならよかったのに…。
胸の中で呟いた。

 「あ…そうそう…ノエルちゃんにお土産よ…。 ほら…確かバターサンド好きでしょう…?
私も結構好きだから…多めに取り寄せたの…。 持ってくるわね…。 」

智明の胸の内を隠すかのようにスミレが顔を覗かせた。

スミレちゃん…。

居た堪れずにその場を立とうとする智明に西沢は声をかけた。

 「ここに居て…吐き出して…きみが胸に抱えていること…。
家門の違う僕は…きみの傍に居てあげられない…。
こんなにも疲れ切ってる…きみを支えてあげられない…。

 けど…きみの心が少しでも軽くなるなら…話せるだけ話して…。
受け止めるから…。 
裁きの一族の木之内紫苑としてではなく…西沢紫苑として…受け入れるから…。」

 受け入れるって…紫苑…何を…私を…?
あなたって…本当に馬鹿が付くくらいのお人好し…。
昔からそうだった…。 

 スミレはぽろぽろと子どものように涙をこぼした。
家門の大事に触れることは言わなかったが…積年に亘って胸に痞える様々な想いをぽつりぽつり打ち明けた。

 西沢の腕がスミレの肩を抱き寄せた…。
はるか昔に…ほんのひと時だけ耳にして聞き覚えた胸の鼓動が伝わる中で…幾つもの想いを口にした。
 話して…泣いて…話して…泣いて…何年分もの胸の痛みが和らいでいく…。
責任と重圧に押し潰されて凝り固まった身体が溶けていく…。
苦悩の涙は…やがて…悦びの涙に変わる…。

 

 お帰りなさい…と玄関先に迎えに出たノエルの鼻先にあの薔薇の香りが再び漂った。 
気付かない振りをして笑顔を向ける。
ベビー・サークルの中から吾蘭が手を伸ばして抱っこを強請る。

 「アラン…ただいまぁ…。 」

 勿論…抱っこ…ゲット!  
僕もゲットしたいんだけど…とノエルは心の中で口を尖らせる。
どうも…子どもが御腹にできると毎度…嫉妬心が湧いてきて…自分でも不思議…。

 「紫苑さん…晩御飯は…? 僕…さっき先生と食べたけど…。 」

まだ…なんだ…。 恭介は…? 
 
 「305号…夜中から撮影に出かけるんだって…。 明日の昼には帰ってくるって言ってたよ…。 」

 お知らせ音がチンッと鳴った。
はい…肉じゃができました…。 温めただけで~す。

 「ノエルにお土産…だって…。 バターサンド…。 」

 きゃ~好きなんだぁ…けど相手が悪い…。 
薔薇の君のお土産じゃあねぇ…。

 「スミレちゃんから…ね。 」

えっ…スミレちゃん…? 

 「今日の浮気の相手って…スミレちゃんなのぉ? 」

 浮気…って…露骨に言うね…。
信用ないなぁ…まったく…。

 「誰だと思ってたの…? 」

薔薇のお姉さん…。

ないない…それは有り得ません…。
 
 うふふ~安~心! ノエルはバターサンドの箱を開けた。 
ノエルが口にするのを吾蘭がしっかり見ている。

ンマンマ…ンマママママ…。
 
 「どうしよう…これって洋酒入ってるよね…? 」
 
 ビスケットのところは大丈夫じゃないかぁ…?
肉じゃがをパクつきながら西沢が言った。 

 ノエルはできるだけバターのところを避けてビスケットを小さく割った。
欠片を吾蘭に渡すと吾蘭は満足げに口に運んだ。

アランの居るところじゃ…お菓子もうっかり食べられないや…。

 「ノエル…。 スミレちゃんだったら気にならないわけ…?  」

可笑しそうに西沢が訊いた。

 「個人的に…気に入ってんだ…あの人…。 明るいし…面白いし…。 」

 スミレちゃん…本当は寂しがりやなのに…忙し過ぎて友達が少ないんだよ。
周りに手助けしてくれるような人も…相談できる相手も居ないしね。
ひとりでずっとがんばっている人なんだ…。
あんなに明るくて楽しい人だけど…大変なこといっぱい背負ってる…。

 僕は幸せだとつくづく思うよ…。
僕の周りには仲間や友だちや家族が大勢居て…みんなで僕を支えてくれてるんだからね…。


 
 薔薇屋敷に戻ってからも、さっきあの部屋で起きたことが現実のものとは思えなくて、スミレは何時になく自分の部屋でぼんやりと過ごしていた。
 もう二度とは起こり得ない奇跡のようなものだけれど…これは長いこと頑張ったご褒美かもね…。

 お蔭で…また…頑張れそうだよ…紫苑…。
あなたは本当にいい友達…。

 不意に…ポケットの携帯が震えてメールが届いたことが分かった。
あら…ま。 送信者名を見てスミレは思わずドキッとした。
怒らせちゃったかしら…ね。

 『スミレちゃん…バターサンド有難うございました…。 好きなんだぁこれ…。
この前のクッションもそうだけど…スミレちゃん…よく僕の好きなもの分かるね。
僕にはあまりそういう能力がないから羨ましいな。

 僕ね…紫苑さんみたいにいろんな知識がないから面白い話はできないけど…あほな失敗談はいっぱいある。
馬鹿話聞きたい時にはメールください…洗いざらい告白します…。 
きっと笑えるよ…。 』

 眼をぱちくりさせた。
これ一応は…お礼のメールよね…。

瞬時…思いを巡らせて…スミレはクスッと笑った。

メル友ができちゃったわ…。
 
今日はとてもいい日…。
素敵なご褒美と可愛いメル友さん…。

 問題は山積みだけれど…何ひとつ解決もしていないけれど…今日はいい日だった…。
スミレは久々に穏やかな気持ちで一日を終えた…。



 







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続・現世太極伝(第六十八話 真の狙いは…?)

2006-09-03 17:00:00 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 そのひと言で会議室の空気は一瞬…氷のように固まった。
誰もが言葉を失った。

HISTORIANは組み込まれたプログラムを操作できるかもしれない…。

 そのプログラムはいまやすべての人間の中に存在すると言われている…。
どちらか一方だったり…両方だったり…大方は…長い年月の間に淘汰されてしまってまったく役に立たなくなっているから…その場合はまず発症することはないし、操作自体が無駄なので安心していい。

 しかし…これまでの経過にあるように、不完全でも何かのきっかけで発症するだけの情報が残されている場合がある。
もし…残された情報を操作することが可能なら…彼等が敵と見做すオリジナル系のプログラムを破壊することも…ワクチン・プログラムの完全体を際限なく作り出すこともできるはずだ…もともと人為的なものなんだから…。

 但し…この人為的操作が…プログラムが最初に作られてから万の時を経過した人体に及ぼす影響は予測できない。
できない…が…おそらくHISTORIANの組織員はほとんどすべて意識的にプログラムを操作されたワクチン系だろう…。

 どの段階で操作されたかは不明だが…まるで…そのために生まれてきたかのようにオリジナル系を倒すことに執念を燃やしている。
傍から見ていると…まるで洗脳された軍団のようだ。

 「先に生まれたアランがオリジナル・プログラムの完全体だということは皆さんもご存知のとおりですが…実は今年…もうひとり生まれます。 」

 特使の報告に会議場が沸いた。拍手と祝福の言葉が飛び交った。
西沢は軽く礼をしてそれに答えたが、すぐに話を続けた。

 「素直に喜びたいところですが…どうやらこちらはワクチン・プログラムの完全体である可能性が高いのです。 」

瞬時…しんとあたりが静まり返った。

 「これが奇跡的に偶然起きたことなら…すごいのひと言で済ませられるのですが…ノエルは過去二度に亘ってHISTORIANに襲われ…そのたびに何らかの細工をされています。
その影響が多分にあるのでは…と懸念しているのです。

 細工時間が瞬間的とも言えるくらい短かったことと…ノエル自身がもともとワクチン系の不完全体だということが幸いしたのか…精神的な洗脳は受けてはいませんが…。 」

 おそらく…被害を受けたのは特使の嫁さんだけじゃなかろう…。
奴等…オリジナルの完全体を探しているんだから…それに近いプログラムの持ち主はみんな狙われてたかもしれないぜ。

あちらこちらでぼそぼそと声が上がった。

 まあ…オリジナル系だからと言って…普通の人間にひとりひとり細工をして歩くほど暇じゃなかろうが…それでも奴等にとって何らかの価値を持つ何人かに対しては…やった可能性があるな…。

 「もし…HISTORIANの細工が原因であるならば…それがどの程度であるかは分かりませんが…彼等は多少なりとプログラムを操作できる力を持っていると言わざるを得ません。

 国内にも国外にもまだ無害化されていないプログラムの保持者は大勢居るわけですから…そうした動かしやすいプログラムを操作することによって自分たち側に取り込んでいく可能性も考えられるのです。 

 万が一…その対象となるのが国の中枢部を掌る人たちであるとすれば…これは忌々しき事態だと思われます。 」

 御使者たちの身体に悪寒が走った。
中枢部を取り込んで…国を操る組織となる…それが真の狙いなのか…?。
凍りついた空気が溶けるまでにしばし時間がかかった。

 「オリジナル完全体のアランとワクチン系のママとの母子関係は大丈夫なの?」

沈黙を破って…女性の代表格が心配そうに訊ねた。

 「ええ…それは不思議なことに…今のところは何の問題もありません…。 
赤ん坊の本能はプログラムにも勝るみたいで…親から離れては生きられない…という自然の掟はきちんと護られているようです。 」

周りの緊張を解すように西沢は笑みを浮かべた。

 「本当の狙いは何なのか…HISTORIANの動きには今まで以上に厳しく眼を光らせておく必要があるな…。
庭田の言い草じゃないが…知らないうちに外から来た者に支配されている…なんて状況に陥らないようにしなければ…。 」

年配の代表格が呟いた。

そういうことなら…本気で庭田との協力を考えるべきかも知れん…。

HISTORIANのことも重要だが…プログラム自体をどうにかできないか…?

それも考える必要があるな…。

 「ふたつのプログラムの抗争に対処することは…人類全体の恒久的な課題とも言えるが…今は取り敢えず治まっている。
例の呪文は解かれてすでに効果がないわけだし…亀さんはお伽さまがなだめてお休み頂いている…他にきっかけがなければ発症しないはずだろう…?
完全体同士が出逢ったからと言って…それだけでぶつかり合うだろうか…? 」

何しろ…前例のない事件だからなぁ…。
どこの何がどう影響するかも分からんし…。

 「特使のところのふたりめがワクチン完全体かどうか…を確認できないうちは何とも言えないね…。
ふたりめがワクチンの完全体と分かったら…オリジナルのアランとの関係がどうなるかを観察していく…。
気の長い話のようだが…ふたりの行動を追うことでプログラムによるトラブル解決の糸口が掴めるかも知れない。 」

 

 イラストボードの上で花の精の如く舞うお伽さまの姿を…今一度思い浮かべてみる。 
幾枚か描いた中でこれというものを二作選んできちんと装丁した。
僕の腕では…ここまでがやっと…足らぬ力量はお許し願おう…。

 先日、会議の開催日程を知らされた折に、会議の後で本家に立ち寄るようにと相庭を通じて宗主からも内々の連絡を受けていた。
丁度、去年からずっと手がけていたお伽さまの絵が何枚か出来上がっていたので、この機会に…と思い持参したのだった。

 「懐妊と聞いたぞ…めでたいことだな…紫苑。
太極の化身は…あの身体で…三度の奇跡を起こしたと言うわけだ。 
孫がひとり増える…楽しみだ…。 」

 応接間に現れるなり…宗主は機嫌よく言った。
宗主には西沢を含め七人の子どもが居る。
 そのうち実際に内室が産んだのは三人...後の四人は登録家族だ。
実子と言われているうちのひとりはお伽さまの子だという噂もある。

西沢が型どおりに挨拶をしようとすると…ここはプライベートな場所…堅苦しいことはなし…と笑った。

 本家の母屋から少し離れたこの洋風の館は宗主が休息するために使われていると言う。
つまり…西沢を呼びつけた用事とは私事に過ぎないということだ…。

 西沢は持参した作品を…拙いものではございますが…と宗主に差し出した。
宗主は包みから取り出したふたつの絵を代わる代わるじっと見つめていたが…気に入ったのか満足げに何度も頷いた。
 西沢の絵は見る人の心を絵の中の世界に誘う…と言われている。
今…宗主は確かにお伽さまの舞姿を目の当たりにした…。

 「お伽そのもの…だな…。 今にも動き出しそうだ…いや…実際…動いたかも知れん。
いいものを貰った…。 どこに置こう…かな…。 いつでも会えるところ…。 」

 まるで宝物を手にした子どものように楽しげに…飾る場所を考えた。
御齢四十にはなっているはずだろうに無邪気な笑顔…。

 ま…それは後で考えるとして…。
少しばかり真面目な面持ちで宗主は西沢を見つめた。

 「天爵ばばさまのことなんだが…。 このところ少し暴走気味でな…。
単独の能力者にやたら声をかけて協力を要請している。

 まあ…引き手の居ない牛車のような族長会議を思えば…その気持ちも分からないではないんだが…気をつけないとHISTORIANだけでなく…他の家門からの反発を招くことになる。

 僕が直接忠告したんでは…庭田に対する信頼を失わせるようなものなので…元カレのおまえの口から…私事として忠告してやってくれないか…。 」

 なるほど…宗主が表立って動けば…庭田は宗主の不興を買ったことになり、他の家門の不審を招くことになってしまう。
西沢が特使ではなく個人的に動く分にはそれほどの問題にはならない。

 確か…三宅が須藤先生を訪ねて族長会議について話していたとカオリおばさんが言ってたな…。
宗主の話から…田辺が連絡してくれた三宅の様子を思い浮かべた。

 分かりました…と西沢は答えた。
あくまで…紫苑の一存として…。

 お呼びでございますか…と静かな声がしてお伽さまが姿を現した。
何処からか帰宅したばかりらしく…微かに香を焚き染めた上品な和服姿だった。
若竹のような清々しい雰囲気の中にもほんのり匂い立つものを感じさせた。

 「おや…これは…紫苑ではないか…。 久しいこと…お元気でしたか…? 」

 お伽さまは懐かしげに微笑んだ。 
西沢が持参した二枚の絵を大事そうに宗主が差し出すと、驚いたように西沢の顔を見つめた。

 「なんと…瞬時に眼にした所作を記憶しておられたのか…?
恐るべき観察力…驚きました…。
このように絵に描きとめて忘れずにいてくださったとは嬉しいこと…。 」
 
心から嬉しそうに西沢と宗主の顔を交互に見た。

 「お伽…紫苑にはまた子が授かったそうだ…。
おまえがノエルの心意気に感動して豊穣の舞を御大親に捧げたお蔭かも知れん。」

 宗主の言葉にお伽さまはさらに相好を崩して頷いた。
安心なさい…御大親によって授かったお子は無事に育ちますよ…。
そんなことを西沢に告げた。

 お伽さまの言う通りに…無事に生まれ…無事に育ったとして…生まれながらに背負ったものを乗り越えていけるかどうか…。
 まだ立ち上がることもできないアランと…授かったばかりの胎児…。
このふたつの命に投影されるプログラムの未来…。

 ま…考えても仕方がない…なるようになれ…だ。
不安はあるけど…進むしかないもんな…。
僕は僕にできること…なすべきことをするだけ…さ。

時は逆行しないんだから…。









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続・現世太極伝(第六十七話 僕の女…。)

2006-09-01 10:30:40 | 夢の中のお話 『続・現世太極伝』
 ノエルも今度ばかりは行動が早かった。
ぐずぐずしていたらいつ西沢の気が変わるかもしれない…。
西沢の言葉を信用していないわけじゃないけど…また…ノエルの本当の幸せを考えたら…なんて言い出しかねないから…。

 翌日にはカンナ本人に…ノエルの知らないうちにもうひとり子どもができていたことを告げた。
勿論…自分が産むとは言わなかったが…責任があるからやっぱり前の人と別れられないなどと尤もらしい理由をつけて付き合いを解消した。

 カンナは残念そうだったけど…男の責任と言う言葉に納得してくれた。
ご免な…カンナ…ホントは母の責任なんだけどね…。

 言い訳するようだけど…カンナとはまだそこまで行ってないから…つうか…今となっちゃ行かなかったのがラッキーだった。
でも…気持ち傷つけちゃたのは事実だもん…ほんとご免な…。

 「父さん…悪いんだけどさ…実は…あの話…断っちゃった…。
話持ってきてくれたおばちゃんに謝っといてよ…。 」

出勤するや否や…智哉にも先制攻撃…。

ええっ…もったいねぇなぁ…いい子なのに…と智哉。
気に入らんかったか…あの子…?

 「じゃなくて…できちゃったんだ…ふたりめ…。 
カンナと付き合ってからは…紫苑さんとは…ずっとなかったんだけどさ…その前にできてたみたいで…。 」

 おおっ…! そりゃおまえ…なんだ…その…?
驚きのあまり…しどろもどろ…。

 「先生も紫苑さんも…カンナと付き合うなら早く始末した方がいいって言ってくれたんだけど…そんなの可哀想で…できないし…。 
だって…紫苑さんの赤ちゃん…なんだもん…紫苑さんの…。 」

 何だか分からないけど…わけもなく…やたら泣けてきた…。
この親父の前で泣くなんて…ありえんし…。

 「ノエル…わかっとる…ようわかっとる。 
紫苑さんの大事な赤ちゃんだからな…そりゃ切なかろうが…。
 泣かんでいい…泣かんでいいぞ…。
俺が紫苑さんにちゃんとお願いしてやるから…な。 」

 何をだよ…。
まるで失意の娘を気遣う父親のよう…薄っ気味悪いぞ…親父…って泣いてる俺自身が気味悪い…どうなってんの…?
しっかりしろよ…俺!



 いつもと違う自分に戸惑ったノエルは内緒で滝川に訊いてみた。
何かやたら涙脆くなって困ってるんだけど…と。
 
 「ああ…それは妊娠のせいでホルモンのバランスが崩れたんだな…。
妊娠初期にはよくあることさ…心配ない。
紫苑にいい子いい子して貰えばすぐに治るぜ…。 」

 滝川はそう言って笑った。
ノエルがお母さんを続けることに決めたので滝川はいつにも増して機嫌がいい。
そ…紫苑が幸せなら文句はないんだ…。

 笑い事じゃないのは西沢…少し気になることがある。
吾蘭が時々じっとノエルの御腹辺りを見ている。
それも赤ん坊とは思えない妙な視線を向けている。

生まれて七ヶ月弱…そんな時期に親の妊娠なんて分かるわけもなく…ノエルの御腹はまだ全然変わっていない…。

 さすがの西沢も赤ん坊や胎児の意識までは完全には読み取ることができない。
ここはやはりお義父さんにご登場願うか…。

う~気が重い…約束破っちまったしなぁ…。



 次の定休日…何やら山のように手土産を抱えて智哉はマンションに飛んできた。
西沢が…自分の不始末で約束どおりにノエルを手放せなくなって申し訳ない…と頭を下げると智哉はかえって恐縮した。

 「申しわけないのはこっちだよ…西沢さん。
俺が要らんことに縁談なんか持ち込んだものだから…かえってきみにつらい思いさせちまって悪かった。 
 アランも居るのに…分別のないことだった…。
堪忍してくださいよ…。 」

 俺も…もう…男だ女だには拘らねぇ…。
ノエルが幸せなら親父になろうとお袋になろうとどっちでもいいんだ…。
生まれてくるのは可愛い孫だし…な。

智哉はアランの方に眼をやった。
アランはみんなが相手をしてくれないので傍にいた滝川の方に手を伸ばした。
まるで抱けと言うようにウ~ウ~と声をあげた。

実は…さ…。 そのこと…なんだけど…。 

ノエルが少し躊躇いがちに西沢と智哉を代わる代わる見ながら言った。

 「この子と同じ頃に…もうひとり産まれるんだよね…。
今朝…連絡があったばかりなんだけど…輝さんが…できちゃったって…。 」

できちゃった…って…?
西沢と智哉の怪訝そうな視線がぶつかった。

えぇぇ~っ! できちゃったぁ~?

ぷっ…とアランを抱いてあやしていた滝川が噴き出した。

だって…約束したんだ…アランが無事生まれたら…輝さんに協力するって…。

 「あほか! おまえは…なんちゅう考えの無いことを…。 
片っ方じゃお母さんでもう片っ方じゃお父さんなんて…ややこしいことすな! 
このお調子もんが! 」

申しわけねぇ…西沢さん…。 智哉が困り果てたように項垂れた。

 あ…いや…別に…と引きつった笑顔で西沢は答えた。
輝のやつ…やってくれたな…。
お返しよ…紫苑…と意地悪くにんまりと笑う輝の声が聞こえたような気がした。

 「まあ…そのことは置いといて…。
実は…お義父さん…。 アランのことなんですが…どうも様子が妙なんです。
 しきりにノエルの御腹の方を見つめるんですよ。
僕には赤ん坊や胎児の意識をはっきり読むことができないので…お義父さんにお願いしようと思いまして…。 」

ふうん…前に調べたアランはともかく…御腹の子の方を調べてみようか…。

 智哉はノエルにソファに寝転がるように言った。
ノエルの御腹の子宮の辺りに眼を向け胎内の様子を調べた。

 おお…居た居た…可愛いおちびさん…。
お祖父ちゃんがちょっとねんねの邪魔をするよ。

丁寧にゆっくりと…智哉は胎児の意識を探っていった。 

 「西沢さん…これは…ちょっと厄介なことになるかも分からん。
こっちの子は…ワクチンの完全体…の可能性がある。
オリジナル完全体のアランは幼いなりにそれを感じ取っているのかも知れん…。」

兄弟で…敵同士だと…?

敵と見做すかどうかはまだ分からんが…。

 まさか…HISTORIANがノエルに細工したせいじゃないだろうな…?
あの時…アランはすでに胎児になっていたから影響を受けなかったが…この子はその後でできた子だから…。

 滝川の腕の中のアランに眼を向けた…。
何を思っているのかは謎だが…じっとノエルの御腹を見ている。
西沢たちは背筋に冷たいものを感じた。



 結局…どうしたかったんだ…きみは…?
西沢は胸の内で輝に問うた。
 僕とは結婚も出産も拒否したくせに…他の男の子供を産む…。
僕がノエルを選んだ仕返しに…ノエルの子を宿す…。 
 
 「怒ってる…? 」

 ベッドに入ってから身動ぎもせず、ずっと天井を睨みつけている西沢に、恐る恐るノエルが訊ねた。 
別に…と投げやりな答えが戻ってきた。

 「輝さん…本当は紫苑さんの赤ちゃんが欲しかったんだ…。
けど…家同士の複雑な事情があってそれはできないからって…。 」

 それも…確かにあったさ…。
けど…どうにかして乗り越えられないほどのものでもなかった…。
…そう思ってたのは僕だけか…。
 止めよう…今更考えてどうなる話でもない…。
もう…終わったことだ…。

 隣に横たわっているノエルの身体を抱き寄せた。
不安げな眼で西沢を見ている。
 不思議なノエル…絶対産めそうにない身体で…ふたりめの子どもを産む…。
この身体で…輝にひとりめの子を産ませる…。
意地悪な輝…僕の中の嫉妬心に火をつけた。

 愚かな紫苑…ノエルに嫉妬してる…。
男であるノエルの自尊心をギタギタにしてやりたくなる…。
 どう料理してやろうか…?
残酷なほど荒々しい動き…本能的に御腹を庇って逃れようとする…。

 「紫苑さん…。 」

 悲鳴にも聞こえる…。 乱暴な愛撫に怯えた眼を向ける…。
僕は天使じゃない…悪魔にはなれるけど…。
 力ずくで再び抱き寄せる…。
きみは僕のオ・ン・ナ…。 ノエルが一番傷つく言葉…。

 なのに…今のノエルには刺激でしかない…媚薬でさえある…。
紫苑に愛されている…としか思っていないんだろう…。
御腹に赤ちゃんが居るからか…受け取り方が極めて女性的…。

 軟弱な紫苑…だめ…虐め抜けない…。
だって…どうしたって…ノエル…可愛いし…。 
こんな幸せそうな顔されたら…何だって許しちゃうぜ…。
 
 「紫苑さん…? 」

 溜息を吐きながら身体を離した西沢にノエルは問いかけるような視線を向けた。
西沢はそっとノエルの御腹を撫でた。

 「あんまり乱暴なことすると危ないよな…。
大事にしなきゃ…まだ安定期に入ってもいないし…さ。 」

 ノエルは微笑みながら頷いた。 ちょっと残念だけど…なんて思いながら。
西沢から嫉妬されていたなんてつゆ知らず…。

 西沢の心はすでに嫉妬から別の次元へ移っていた。
敵同士かもしれない兄弟…。
 ここのところ奴等が嫌がらせを止めたと思ったら…こういうことか…。
お互いに抑制し合って自滅しろとでも言いたいのか…。

 見てろよ…HISTORIAN…。 
僕の可愛い息子たちに…兄弟で殺し合いなんかさせてたまるか…。
人を育てるのは人…プログラムなんかじゃないってことをお前等に思い知らせてやるからな!





 

  




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