305号室…玄関の扉を開け…ただいま…と声をかける。
これまではずっと…和の遺影にそう語りかけてきた。 無論…遺影は応えない…。
それでも帰るたびに…ただいま…と言う…。
最近では…輝がお帰り…と応えてくれる…。
応えがあるというのはいいものだ。
西沢のところもそうだが…滝川の部屋はもともと家族用に設計されたものなので後から部屋数が変更できるようになっている。
滝川が普段ベッドルームとして使用しているところにはふた部屋分のスペースがあり…輝に使ってない部屋を貸しても不自由はしない。
いつもは火の気のない部屋に…今夜はおいしそうな匂いが漂っている。
豚肉やソーセージをザワークラウトと煮込んだスープ…。
セロリ…にんじんなどの野菜やインゲン…大豆など豆類をたっぷり入れて…。
「いい匂いだな…。 美味そうだ…。 」
滝川が鍋を覗き込むのを輝は愉快そうに笑いながら見ていた。
「さっき…ノエルのところにも半分届けたのよ…。 寄って来なかったの?
紫苑が遅くなるみたいだから…こちらへ来て一緒に食べようって誘ったんだけど… クルトの風邪がアランにうつっちゃったみたいなのね。
ケントにもうつすといけないからって遠慮しちゃって…そんなこといいのに…。」
ノエル居たんだな…。 紫苑が泊りかも知れないって言ってたから…それなら亮くんとこへ行くだろうと思ってたもんで…。
そうか…アラン…風邪か…後で診に行ってやろう…。
何と言うこともない静かな夕餉…。
和が居た時は…もう少し賑やかだった。 話好きで明るい女だったからなぁ…。
それでもひとりの時とは違って…なんやかや話ができる。
西沢を通じての長い付き合いだから共通の話題もある。
そのせいか…このところ結構305号で過ごす時間が増えたような気がする…。
滝川が片付けをしていると…輝が絢人を連れてキッチンへやってきた。
ほら…ケント…先生にお休みなさい…また明日ねって…。
ノエルが滝川のことを先生と呼んでいるので…子どもたちにもそう言ってきかせている。
絢人はまだバイバイするのも無理だが…滝川に向かってにこっと笑う。
抱っこしてくれる…というのも分かっているみたいだ。
滝川は絢人を受け取り…ちょっと頬ずりし…お休み…と囁いた。
ノエル父さんじゃなくて…ご免な…。
片付けが終わってしまうと301号に行って…吾蘭の風邪の具合を診た。
来人の時もそうだったがちょっとした鼻風邪でたいしたことはなかった。
何かあったら呼ぶようにとノエルに言いおいて…部屋に戻った。
絢人はあっさり寝てしまったとみえて…輝は居間で雑誌を見ていた。
これ…恭介の写真じゃない…? あ…やっぱり…そうだ…。
部屋の中から外を覗く品のいい西欧系の女性…。 片手でカーテンを掴み…片手は胸に当てられている。
誰かを待っているのか…物思わしげな横顔…レースをあしらった薄手のガウンから覗く薄桃色の蕾み…福与かな乳房…。
まとめて結い上げた髪に続く白いうなじが印象的…。
まるで…物語の一シーンのようだ…。
「このモデルいいわね…。 この首を…私のアクセサリーで飾りたいわ…。
あなたって…本当に首とか喉に拘るのね…。 」
喉フェチ男…と仲間内では呼んでいる。
確かに人物を撮る時の滝川はモデルの性別に関わりなく…喉や首…うなじのラインの美しさに拘る…。
「いいだろ…僕の好みの綺麗なラインを見つけるのには苦労するんだ。
その点…紫苑は抜群…。 喉でもうなじでも何処でもOKだからな…。 」
はいはい…あなたの紫苑ちゃんは確かに素敵よ…。
彫金する私が見ても…あの喉は飾り甲斐があるものね…。
「おまえのも…悪くはないぜ…。 ちょっと手入れすれば完璧…。 」
あ…そ…何なら食べちゃってもいいわよ…。
紫苑ちゃんほど美味しくはないかもしれないけど…。
えっ…? どっちが…?
どっちって…何よ?
「紫苑より美味しくないのは…おまえなのか…僕なのか…って…? 」
輝は苦笑した…。
馬鹿ね…そんなこと真面目に考えてないで…試してご覧なさいよ…。
すぐに分かることじゃないの…。
それは…まあ…そうなんだけど…。
何にもなくて…ケントのお父さんを続けるつもり…?
そこんとこ申し訳なくて…気になるっていうか…嫌なのよね…。
輝がそっと滝川に触れた。
滝川は身を強張らせた。
責任とって…とか…結婚しよう…なんて言わないわよ…恭介。
みんな同じ…紫苑も…ノエルも…友達でいいわ…。
そうやって生きてきたんだから…そうやって生きていきましょうよ…。
輝…。
滝川は輝を抱き寄せ…うなじにキスをした。
地上最悪の天敵同士…が…お互いに共存を認め合った瞬間だった…。
西沢のための夕食を冷蔵庫に入れて…寝室へ引き揚げる前にもう一度子ども部屋を覗いた。
吾蘭も来人もよく眠っていた。
西沢が居ないので風邪気味の吾蘭が少しむずかるかな…と思っていたが…特に機嫌の悪い様子はなかった。
疲れたぁ…。
寝室へ戻ったノエルはベッドの上にどさっと身を投げ出した。
今日一日仕事をしながらずっとふたりの面倒を見ていた…。
いつもは西沢の手があるが…まるっきりひとりで…となると勝手が違う。
他所のお母さんはすごいなぁ…何人もの子どもを毎日毎日ひとりで面倒看てるんだからなぁ…。
僕は一日でぜいぜい言っちゃうよ…輝さんに晩御飯まで作って貰ったのにね…。
紫苑さんも…すごい…。
仕事しながらアランの世話をして愚痴ひとつ言わないんだもの…。
僕なんか店ではみんなの手を借りちゃってるのに…。
ぼんやり天井を見た。 さっきスミレちゃんからメールの返事が届いた。
大丈夫よ…何とか頑張ってるからね…と言っていた…。
薔薇のお姉さん…死んじゃったんだもんね…。
スミレちゃんもだけど…きっと紫苑さんも大ショックなんだろうなぁ…。
そんなことを考えていると…西沢が戻ってきたらしく鍵を開ける音がした。
いろんな音が聞こえてきた。
扉の音…シャワーの音…湯船に浸かる音…。
歯を磨きながら子ども部屋を覗く音…。
冷蔵庫を開ける音…水を飲む音…。
生きていると人はいろいろな音を立てる…。
音にはその人独特の特徴があり…その人の存在する証でもある…。
突然…その音が日常から消えてしまったらと思うと…何か怖いような気がする…。
以前にそれに近い経験をしているから…余計にそう思う…。
あの時…西沢の生命の火が消えていたら…そう考えただけで今でも涙が溢れる…。
ただいま…と寝室に入ってきた西沢はひどく浮かない顔をしていた。
可哀想に…やっぱりショックだよねぇ…とノエルは考えた。
美咲が死んだ時…僕もつらかったもん…。
う~胃が痛い…。
西沢は倒れこむようにベッドに突っ伏した。
「どうしたの…紫苑さん…? 先生呼ぼうか…? 」
ノエルは飛び起きて西沢の背中を擦った。
「何でもないよ…。 神経的なものなんだ…。 嫌なことが続いたから…。 」
すぐ治まる…。 西沢は痛みに顔を顰めながらもそう言って軽く笑った。
ノエルの心配そうな顔を見て…そっと頬を撫でた。
「疲れた顔して…。 ずっとお母さんで居るのはつらいだろう…?
我慢しないで…時々は男の子に戻って遊んでおいで…。
僕の仕事が終わった後なら…ふたりを置いて行っても大丈夫だから…。 」
西沢がそう勧めてくれても…有り難いとは思うが…はいそうですかと遊びに行く気にはなれなかった。
西沢の外出はほとんどがお役目か仕事…健康の為に時々スポーツ・ジムで汗を流す以外には遊びに行くことなど滅多にない。
それでさえ…最近は忙しくてなかなか…。
吾蘭や来人の為に多くの時間を割き…家事までこなしながら仕事をしている。
いくら女で居ることが不本意でも…その西沢にこれ以上負担はかけられない…。
「有難う…でも…もうちょっと待つよ…。
アランやクルトが幼稚園に入れば少しは楽になるだろうから…。
先生に任せっぱなしのケントのこともあるし…。 」
それが切なかった…。
吾蘭と来人の母親であるノエルは…絢人の父親としての役目を思うようには果たせない…。
もともと輝はノエルに父親であることなど期待してはいないので…このまま行けば絢人は滝川の子どもとして育つことになる…。
「亮の…木之内の…お父さんの気持ちが何となく分かる気がする…。
紫苑さんを手放さなきゃならなかった時のお父さんの気持ちが…。 」
心なしかノエルの声が震えた。
それは…そんなに遠くない未来のように思えた。
ノエル…。心配しなくていいよ…。
恭介はちゃんと…きみの立場を考えてくれるよ…。 きみがケントのお父さんで居られるように…手放すなんてことしなくていいように…さ。
「恭介は…西沢の養父とは違う…。 ケントを独占して閉じ込めるようなことはしない…。
その点は…安心していいよ…。 」
硬い表情で西沢が呟いた。
やなこと思い出させちゃった…。
ご免ね…紫苑さん…。
…なんでこんな話になっちゃったんだろ…?
紫苑さんの胃痛の話をしていたはずなのに…。
「そうだった…。 さっき胃薬買って飲んじゃった…。
胃薬なんて何年ぶりのことか…。 僕はわりに丈夫な方なんで…。 」
胃の辺りを擦りながら西沢は言った。
やっぱ…齢なんじゃない…? そろそろ中年だし…。
はぁ…? 何だって…?
恭介といい…きみといい…人を親父扱いかい…?
冗談だよん…とノエルは笑った。
胃痛の原因は分かってはいるけれど…どうしようもないからなぁ…。
物思いに耽ってぼんやりしだした西沢にノエルがそっと身を寄せてきた。
寄り添いながらそっと胃の辺りを擦ってくれる。
こういうところは…女なんだけど…ねぇ…。
華奢な手を引き寄せて抱きしめる…。
やがて…西沢の腕の中で…ノエルが安らいだように寝息を立て始めた。
その穏やかな寝顔を眺めているうちに…痛みも薄れ…西沢も引き込まれるように眠りに落ちた。
次回へ
これまではずっと…和の遺影にそう語りかけてきた。 無論…遺影は応えない…。
それでも帰るたびに…ただいま…と言う…。
最近では…輝がお帰り…と応えてくれる…。
応えがあるというのはいいものだ。
西沢のところもそうだが…滝川の部屋はもともと家族用に設計されたものなので後から部屋数が変更できるようになっている。
滝川が普段ベッドルームとして使用しているところにはふた部屋分のスペースがあり…輝に使ってない部屋を貸しても不自由はしない。
いつもは火の気のない部屋に…今夜はおいしそうな匂いが漂っている。
豚肉やソーセージをザワークラウトと煮込んだスープ…。
セロリ…にんじんなどの野菜やインゲン…大豆など豆類をたっぷり入れて…。
「いい匂いだな…。 美味そうだ…。 」
滝川が鍋を覗き込むのを輝は愉快そうに笑いながら見ていた。
「さっき…ノエルのところにも半分届けたのよ…。 寄って来なかったの?
紫苑が遅くなるみたいだから…こちらへ来て一緒に食べようって誘ったんだけど… クルトの風邪がアランにうつっちゃったみたいなのね。
ケントにもうつすといけないからって遠慮しちゃって…そんなこといいのに…。」
ノエル居たんだな…。 紫苑が泊りかも知れないって言ってたから…それなら亮くんとこへ行くだろうと思ってたもんで…。
そうか…アラン…風邪か…後で診に行ってやろう…。
何と言うこともない静かな夕餉…。
和が居た時は…もう少し賑やかだった。 話好きで明るい女だったからなぁ…。
それでもひとりの時とは違って…なんやかや話ができる。
西沢を通じての長い付き合いだから共通の話題もある。
そのせいか…このところ結構305号で過ごす時間が増えたような気がする…。
滝川が片付けをしていると…輝が絢人を連れてキッチンへやってきた。
ほら…ケント…先生にお休みなさい…また明日ねって…。
ノエルが滝川のことを先生と呼んでいるので…子どもたちにもそう言ってきかせている。
絢人はまだバイバイするのも無理だが…滝川に向かってにこっと笑う。
抱っこしてくれる…というのも分かっているみたいだ。
滝川は絢人を受け取り…ちょっと頬ずりし…お休み…と囁いた。
ノエル父さんじゃなくて…ご免な…。
片付けが終わってしまうと301号に行って…吾蘭の風邪の具合を診た。
来人の時もそうだったがちょっとした鼻風邪でたいしたことはなかった。
何かあったら呼ぶようにとノエルに言いおいて…部屋に戻った。
絢人はあっさり寝てしまったとみえて…輝は居間で雑誌を見ていた。
これ…恭介の写真じゃない…? あ…やっぱり…そうだ…。
部屋の中から外を覗く品のいい西欧系の女性…。 片手でカーテンを掴み…片手は胸に当てられている。
誰かを待っているのか…物思わしげな横顔…レースをあしらった薄手のガウンから覗く薄桃色の蕾み…福与かな乳房…。
まとめて結い上げた髪に続く白いうなじが印象的…。
まるで…物語の一シーンのようだ…。
「このモデルいいわね…。 この首を…私のアクセサリーで飾りたいわ…。
あなたって…本当に首とか喉に拘るのね…。 」
喉フェチ男…と仲間内では呼んでいる。
確かに人物を撮る時の滝川はモデルの性別に関わりなく…喉や首…うなじのラインの美しさに拘る…。
「いいだろ…僕の好みの綺麗なラインを見つけるのには苦労するんだ。
その点…紫苑は抜群…。 喉でもうなじでも何処でもOKだからな…。 」
はいはい…あなたの紫苑ちゃんは確かに素敵よ…。
彫金する私が見ても…あの喉は飾り甲斐があるものね…。
「おまえのも…悪くはないぜ…。 ちょっと手入れすれば完璧…。 」
あ…そ…何なら食べちゃってもいいわよ…。
紫苑ちゃんほど美味しくはないかもしれないけど…。
えっ…? どっちが…?
どっちって…何よ?
「紫苑より美味しくないのは…おまえなのか…僕なのか…って…? 」
輝は苦笑した…。
馬鹿ね…そんなこと真面目に考えてないで…試してご覧なさいよ…。
すぐに分かることじゃないの…。
それは…まあ…そうなんだけど…。
何にもなくて…ケントのお父さんを続けるつもり…?
そこんとこ申し訳なくて…気になるっていうか…嫌なのよね…。
輝がそっと滝川に触れた。
滝川は身を強張らせた。
責任とって…とか…結婚しよう…なんて言わないわよ…恭介。
みんな同じ…紫苑も…ノエルも…友達でいいわ…。
そうやって生きてきたんだから…そうやって生きていきましょうよ…。
輝…。
滝川は輝を抱き寄せ…うなじにキスをした。
地上最悪の天敵同士…が…お互いに共存を認め合った瞬間だった…。
西沢のための夕食を冷蔵庫に入れて…寝室へ引き揚げる前にもう一度子ども部屋を覗いた。
吾蘭も来人もよく眠っていた。
西沢が居ないので風邪気味の吾蘭が少しむずかるかな…と思っていたが…特に機嫌の悪い様子はなかった。
疲れたぁ…。
寝室へ戻ったノエルはベッドの上にどさっと身を投げ出した。
今日一日仕事をしながらずっとふたりの面倒を見ていた…。
いつもは西沢の手があるが…まるっきりひとりで…となると勝手が違う。
他所のお母さんはすごいなぁ…何人もの子どもを毎日毎日ひとりで面倒看てるんだからなぁ…。
僕は一日でぜいぜい言っちゃうよ…輝さんに晩御飯まで作って貰ったのにね…。
紫苑さんも…すごい…。
仕事しながらアランの世話をして愚痴ひとつ言わないんだもの…。
僕なんか店ではみんなの手を借りちゃってるのに…。
ぼんやり天井を見た。 さっきスミレちゃんからメールの返事が届いた。
大丈夫よ…何とか頑張ってるからね…と言っていた…。
薔薇のお姉さん…死んじゃったんだもんね…。
スミレちゃんもだけど…きっと紫苑さんも大ショックなんだろうなぁ…。
そんなことを考えていると…西沢が戻ってきたらしく鍵を開ける音がした。
いろんな音が聞こえてきた。
扉の音…シャワーの音…湯船に浸かる音…。
歯を磨きながら子ども部屋を覗く音…。
冷蔵庫を開ける音…水を飲む音…。
生きていると人はいろいろな音を立てる…。
音にはその人独特の特徴があり…その人の存在する証でもある…。
突然…その音が日常から消えてしまったらと思うと…何か怖いような気がする…。
以前にそれに近い経験をしているから…余計にそう思う…。
あの時…西沢の生命の火が消えていたら…そう考えただけで今でも涙が溢れる…。
ただいま…と寝室に入ってきた西沢はひどく浮かない顔をしていた。
可哀想に…やっぱりショックだよねぇ…とノエルは考えた。
美咲が死んだ時…僕もつらかったもん…。
う~胃が痛い…。
西沢は倒れこむようにベッドに突っ伏した。
「どうしたの…紫苑さん…? 先生呼ぼうか…? 」
ノエルは飛び起きて西沢の背中を擦った。
「何でもないよ…。 神経的なものなんだ…。 嫌なことが続いたから…。 」
すぐ治まる…。 西沢は痛みに顔を顰めながらもそう言って軽く笑った。
ノエルの心配そうな顔を見て…そっと頬を撫でた。
「疲れた顔して…。 ずっとお母さんで居るのはつらいだろう…?
我慢しないで…時々は男の子に戻って遊んでおいで…。
僕の仕事が終わった後なら…ふたりを置いて行っても大丈夫だから…。 」
西沢がそう勧めてくれても…有り難いとは思うが…はいそうですかと遊びに行く気にはなれなかった。
西沢の外出はほとんどがお役目か仕事…健康の為に時々スポーツ・ジムで汗を流す以外には遊びに行くことなど滅多にない。
それでさえ…最近は忙しくてなかなか…。
吾蘭や来人の為に多くの時間を割き…家事までこなしながら仕事をしている。
いくら女で居ることが不本意でも…その西沢にこれ以上負担はかけられない…。
「有難う…でも…もうちょっと待つよ…。
アランやクルトが幼稚園に入れば少しは楽になるだろうから…。
先生に任せっぱなしのケントのこともあるし…。 」
それが切なかった…。
吾蘭と来人の母親であるノエルは…絢人の父親としての役目を思うようには果たせない…。
もともと輝はノエルに父親であることなど期待してはいないので…このまま行けば絢人は滝川の子どもとして育つことになる…。
「亮の…木之内の…お父さんの気持ちが何となく分かる気がする…。
紫苑さんを手放さなきゃならなかった時のお父さんの気持ちが…。 」
心なしかノエルの声が震えた。
それは…そんなに遠くない未来のように思えた。
ノエル…。心配しなくていいよ…。
恭介はちゃんと…きみの立場を考えてくれるよ…。 きみがケントのお父さんで居られるように…手放すなんてことしなくていいように…さ。
「恭介は…西沢の養父とは違う…。 ケントを独占して閉じ込めるようなことはしない…。
その点は…安心していいよ…。 」
硬い表情で西沢が呟いた。
やなこと思い出させちゃった…。
ご免ね…紫苑さん…。
…なんでこんな話になっちゃったんだろ…?
紫苑さんの胃痛の話をしていたはずなのに…。
「そうだった…。 さっき胃薬買って飲んじゃった…。
胃薬なんて何年ぶりのことか…。 僕はわりに丈夫な方なんで…。 」
胃の辺りを擦りながら西沢は言った。
やっぱ…齢なんじゃない…? そろそろ中年だし…。
はぁ…? 何だって…?
恭介といい…きみといい…人を親父扱いかい…?
冗談だよん…とノエルは笑った。
胃痛の原因は分かってはいるけれど…どうしようもないからなぁ…。
物思いに耽ってぼんやりしだした西沢にノエルがそっと身を寄せてきた。
寄り添いながらそっと胃の辺りを擦ってくれる。
こういうところは…女なんだけど…ねぇ…。
華奢な手を引き寄せて抱きしめる…。
やがて…西沢の腕の中で…ノエルが安らいだように寝息を立て始めた。
その穏やかな寝顔を眺めているうちに…痛みも薄れ…西沢も引き込まれるように眠りに落ちた。
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