かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠309(トルコ)

2016年05月21日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子旅の歌42(11年8月)【キャラバンサライにて】『飛種』(1996年刊)P139
    参加者:N・I、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部慧子
    司会とまとめ:鹿取 未放


309 瘤の水さへかすかさびしきけはひする秋の駱駝はすでに発ちしか

     (まとめ)
 はろはろとした秋のただなかに立って、駱駝が瘤に抱いている水さえ寂しい気配がするととらえている。旅行者である作者の前に、現実の、たとえば観光用の駱駝は立っていたかもしれないが、作者が見ているのはもはや非在の、遙か昔の隊商の駱駝である。「秋の駱駝はすでに発ちしか」と強い已然形止めになっている。作者の空想の中で隊商の駱駝は東洋の絹を積んでもう出立してしまったのである。かつて鑑賞した「オリエント急行今日発車なし」と似たような手法である。
 余談だが、隊商達は沙漠でいよいよとなった時には駱駝の血を飲んで生き延びるのだと何かの本で読んだことがある。瘤の中の水は飲めるのであろうか。(鹿取)


      (レポート)
 初句から3句までが「秋の駱駝」にかかっているが、くどさがないのは「瘤の水」一点に絞られた具体と、そこから序のようにことばが続いているからであろう。実態のない「かすかさびしきけはひする」といういひらがなでの措辞は「既に発ちしか」とひとつに溶け合って歌の空間と意味を広くしている。その広がりの中で人間とその文明と共に過ぎてきた「駱駝」への情を読者に手渡している。そして秋の駱駝の出立いかんに限らず、命あるもの、非在、不在ということが思われる。世にあるもろもろがやがて「既に発ちしか」に収斂されてゆく。そんなことをしきりに思う。(慧子)


    (当日意見)
★秋の駱駝は、かわいそうな動物として歌われている。(崎尾)
★(崎尾さんの意見に対して)そうではなく抒情の中の駱駝である。(藤本)
★駱駝によって秋の寂しさを感じている。(曽我)
★下の句は具体的でなくてよい。(N・I)
★下の句は劇的な仕立てになっている。(鹿取)