恵比寿から山手線で巣鴨に来た。
地蔵通商店街は一度は来なければと思っていた場所。
巣鴨のユルキャラ「すがもん」のお尻です。
もちろんしつこくなでて来ました。
ここは杖を付いたおばあちゃんがいっぱい。
そして煎餅とか
大福とか
飴の店が並ぶ。渋いなあ。
洒落た「スイーツ」の店がないのが小気味よい。
「スイーツ」なる言葉を自分は認めていないんだ。
巣鴨のメインスポット、とげぬき地蔵。
このお寺、正式には曹洞宗萬頂山高岩寺という。
慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ、約60年後下谷屏風坂に移り巣鴨には明治24年(1891年)に移転してきた。
ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩。
とげぬきの由来
正徳3年(1713年)5月のこと、江戸小石川に住む田付という人の妻は、常に地蔵尊を信仰していた。
一人の男の子を出産して後重い病に見舞われ床に臥し、手足は「細き竹のごとく」にやせ細ってしまった。
諸々の医者が手を尽くしたが、一向によくならず、遂に婦人は臨終を覚悟し、「私の家には怨霊があって、女はみな25歳までしか生きられないと父母から聞いております。姉も25歳で亡くなりました。」といいだす始末であった。
田付氏は悲歎にくれつつも、この上は妻が日頃信仰する地蔵尊におすがりするほかないと、毎日一心に病気平癒の祈願を続けた。
ある日、田付氏は不思議な夢をみた。黒衣に袈裟をかけた一人の僧が現われ、「私の像(かたち)を一寸三分に彫刻して川に浮かべよ」という。
田付氏は、それは急には成し難いことを答えると、「ではあなたに印像を与えよう」といわれ、夢からさめた。
不思議な夢と、ふと枕元をみると、何か木のふしのようなものが置いてあった。
よくみるとそれは「彫ったものでも書いたものでもない」不思議な地蔵菩薩の御影なのだった。
田付氏は命の通り、これを印肉にせしめて、宝号を唱えつつ一万体の御影をつくり、両国橋へ行き、一心に祈願しながらこれを河水に浮かべた。
さて、その翌朝、田付氏は病床の夫人の呼ぶ声に急いで行ってみると、夫人は「今、枕元に死魔が現われましたが、錫杖をもった黒衣のお坊さんが、錫杖を使って外にドンと突き出してしまわれるのを見ました」と告げた。
田付氏は霊験にわれを忘れていたが、あれほど重かった夫人の病は日一日と快方に向かい、その年の11月には床を離れることが出来、以後夫人は無病になった。
田付氏がこの霊験の話を山高という人の家でしていると、一座の中に毛利家に出入りする西順という僧がいて、ぜひその御影を頂戴したいといった。
田付氏は持っていた2枚を与えた。
正徳5年のある日、この毛利家の女中の一人が、あやまって口にくわえた針を飲み込んでしまった。女は苦しみもがくが医者も手の施しようがなかった。
そこに西順が来たり、「ここに地蔵尊の尊影がある。頂戴しなさい」といって、一枚を水で飲ませました。
すると、間もなく女中は腹の中のものを吐き、きれいな水で洗っていると、その中に飲み込んだ針が、地蔵尊の御影を貫いてでてきたという。
とげぬき地蔵尊御影
とげぬき地蔵尊御影↑
縦4センチ横1.5センチの和紙の中央に尊像が描かれている。
「南無地蔵願王尊(なむじぞうがんのうそん)」と何回かずつ唱えながら、治したい部分にあてて軽くなで、唱え終わったら水で飲み込むのだそうです。
江戸時代、針を誤飲したら一生取れなかっただろう。
一生チクチクする、どころか針が消化管を損傷して出血、化膿し、命にもかかわった。
南方仁先生でもX線と内視鏡がなければ取り出すことは無理だったろう。