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ヨーロッパのテロ事件に思う

ベルギーの首都ブリュッセルでテロ事件があった。遥か遠くヨーロッパの地での事件、日本人、国民に一体どれほどの影響があるのだろうか。普段はヨーロッパのことは米国よりも報道の量は少ない。日本の経済ニュースは米国中心で熱心に報道される。それは、米国の経済動向の日本のマーケットへの影響が非常に大きいからでもある。しかし、ヨーロッパの景況感についてはうかがい知れるほどの報道量はない。
ところが、普段はそんなレベルのニュース量であったものが、この度の事件については連日トップ・ニュースとなっている。捜査の進展もあまり認められないにもかかわらず、何故かトップの扱いなのだ。この日本のマスコミの対応には異様に感じてしまう。我々はあたかもヨーロッパの住民であるかのような錯覚すら覚える、というかそう感じろと強いられているような気すらするのだ。

この現象は例によって、選挙を前にして政権に都合の悪いニュースはできるだけ避けようとしているためではないか、と勘繰るのだ。そういえば、保育所の問題はどうなったのか。国会は開催されているが、今の政権は相変わらずピンボケの答弁を繰り返しているのだろうか。安倍政権は、“女性活躍”だとか、“一億総活躍”だとか受けそうな適当なスローガンを思いついて披露はするが、その本気度は皆目ない。本気度がないので、テーマ実現に向けての戦略性は全くない。
“女性活躍”の一丁目一番地は保育所の問題だ。待機児童ゼロがその政策には必須だった。ところが、そのテーマ達成のための具体的施策は全く準備されていなかったのだ。
安倍首相の政策テーマはどれもこんな調子だ。御自身がライフ・ワークと言ってはばからない北朝鮮拉致被害者救出についても全くの戦略性が無く、周囲の各国外交の激動に翻弄されるばかりで、何も主体的に為せず、解決に向けての進展も全くない。安倍氏は実にノーテンキで、何でも口にさえすれば何とかなると思っているフシがあるのだ。
何度も言うが、安倍氏が若い時確かに北朝鮮拉致被害者救出を叫んでいたので、当時の米国の政策当局者が彼に密かに接触して、一体具体的にどのようにして実現したいのか、その戦略や具体的計画について聞きに来たという。しかし、安倍氏はその点について何ら具体的に示せなかったので米国当局者は呆れてしまった、という逸話がある。それ以来安倍氏は米国には本気で相手にされていないのだ、という。
安倍政権のアホさ加減は、消費税増税の可否について米国の経済学者にインタビューしていることにも現われている。それも公開の席上でである。国家政策を外国人に聞いて決定するというのは、決して先進国のする対応ではなく、非独立国の属国政府のすることだ。これでは、ますます米国には尊敬されることはありえない。トランプ候補の日本蔑視の主張はそのまま正直な米国人の心情なのだ。日本民族至上主義者のはずの安倍氏のやっていることは、全くその線上にあることに気付かないのだろうか。それほどのアホでマヌケなのだろうか。こんなアホな御仁の内閣についてさえ、支持率が結構あると言うのは一体どういうことなのだろうか。
その国会でのアホさ加減の詳細を伝えないために、マスコミはヨーロッパの事件を大々的に取り上げているのではないか。この待機児童の問題は選挙前の政権にとって、極めて都合が悪いのだ。考えてみれば、第一次安倍政権は年金問題に火が付いて燃え盛ったのが命取りになったのだった。さすがの安倍政権もこれを教訓にしているのだろう。

閑話休題。この度のブリュッセル・テロ事件の背景にある下層労働のための外国人移民の導入について考えてみるべきであろう。自由だ、平等だというので、祖国の悲惨を捨てて若干の希望を抱いてやってきたヨーロッパでの現実は、差別と偏見、その結果としての貧困でしかなかった。それが北アフリカや中近東からやってきた外来者の絶望であろう。その不満が テロとなって噴出しているのがこの事件の現実なのだ。“自由、平等、寛容”は思惟の上での御題目でしかなかったのがヨーロッパ社会の現実だったのだ。
このテロで31人が死亡したという。誤解を恐れず、外来ヨーロッパ住民の立場に立ってこの事件を見た時、この数倍の悲惨が彼等の祖国に欧米人が為しているのが真相なのだ。それは、象徴的には最近は米露仏によってなされる“誤爆”だ。“誤爆”といえばまだ聞こえはいいが、実態は無差別爆撃である。これによって、パリやブリュッセルのテロ事件より遥かに多い無辜の人命が失われて、シリアの町が徹底的に破壊されていることに思いを致す想像力が、求められる。シリア難民の本質がここにあることも思い知るべきだ。彼等から見ればシリアの現実を、ヨーロッパの中心地に持ち込み、ほんの数分の一を御返ししただけではないのか。
日本のマスコミは意図的にであろうかこの実態をあまり伝えていない。そして日本の政府には、この悲惨を伝えようとする勇気あるジャーナリストを徹底的に守ろうとする意志もない。数名のジャーナリストの命すら守ろうとしない現政権は、それにもかかわらず“国民の生命財産を守る”と大見得を切っているが、いざそのような事態に至った時、本気でその覚悟を示せるのだろうか。口にするのは簡単だが、実行するのには相当な覚悟が要る。安倍氏個人にとっては実行するのは自身ではなく、命令するだけだから、いわば言えば済む話なので何も考えずに実行させるかも知れないのだが・・・。

外国人との生活の現実とはどういうものか。私の住んでいる隣家にアジア系外国人が居る。時々ハングルと英語が聞こえるので韓国系米国人であろうか。子供が近くの英語系の外国人学校に通っているから英語が聞こえるのであろうか。詳細は知らない。何故ならば、挨拶すらしないからだ。当初はこちらからお辞儀をしたりしていたが、向こうは会釈すらしない内に、こっちも挨拶をしなくなった。すると最近は顔を見ても、胸を張って逆に睨み返す風である。何か敵愾心を抱いているのだろうかと勘繰ってしまう。何だか一家揃ってそんな対応なのだ。若干困ったものだが、向こうにも何か想像を超える事情があるのだろう。
これが、外国人との生活の現実なのだ。外国人皆が陽気で外交的とは限らないのだ。ブリュッセルで事件を起こした犯人らの何人かも内向的な性格で、少なからずヨーロッパ社会になじめなかったのではなかろうか。“郷に入っては、郷に従え When in Rome, do as the Romans do.”のような入り込む側の姿勢は当然のことだが、受け入れる側の社会的対応と双方に課題があるのを十分に知るべきだ。

こういう現実の下で、大量の下層労働者として海外から移民を奨励して日本の社会が健全性を保つことができるのだろうか。自民などの保守層には、世界標準の価値観を持っていない人々が大勢いる。彼らは少なくとも私より狭量なものの見方しかしていない。こういう日本社会の現実で外国人の価値観をストレートに受け入れる寛容さはあるとは思えない。ヘイトスピーチが容易に巻き起こる日本社会で海外移民を受け入れる余裕があるとは、到底考えられない。
にもかかわらず、経済評論家の多くは人口減少の対策として平気で移民を推奨するが、一体どういう感覚だろうか。価値観の異なる外国人と普通に付き合う素地のない日本社会で、多量の外国人労働者を受け入れた場合、それが激しいテロ活動の素地とはならないという保証は全くない。普通にイジメのある日本社会で、それがヨーロッパでよりも激しい恨みとなることは明らかではないか。

それよりも、日本人の人口増加のための保育所の増設と、保育士の増員が喫緊の課題ではないのだろうか。いや教育費を国で全額保障するというのも早急の政策課題ではないか。人材育成こそは、国の将来に確実な投資効果があるというにもかかわらず、目前の景気ばかりにとらわれている政権を日本人はいつまで支持し続けるのであろうか。
将来に希望が持てる政策とはここにこそあるのではないか。この政策こそが景気回復のきっかけとなるかも知れないと思えるのだが、マヌケな現政権には票数獲得にしか見えていない。ヘリコプターで札束をばらまくという政策が真剣に語られたことがあった。今は、それが商品券に変わっているらしい。そんなムダ金が少しでもあるのならば、人材育成に将来投資することが、明日の日本には有効であると考えるのだ。
マスコミも将来の日本につながる課題に焦点を当てて報道をなすべきだと考えるがいかがだろうか。とにかく戦前のように政権におもねったミス・リードだけはしないでほしいが、現状はどうだろうか。

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