たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

ノーベル賞おめでとう

2012年10月10日 | 日記

山中伸弥先生のノーベル賞受賞おめでとうございます。最近領土問題で中国・韓国との紛争が続き明るい話題が少なかったので、スカッとしました。山中先生ありがとうございます。
各氏のお祝いメッセージを新聞で読みました。2000年にノーベル化学賞を受賞された白川英樹・筑波大名誉教授(76)からも「私の時もそうでしたがノーベル賞は20年から30年経たないと受賞対象に選ばれないのに、山中先生は立派だ」とのお祝いコメントでした。今日は白川博士の話題です。

私の小学校の級友の女性二人は同窓会などで「白川君とか英樹君」などと言います。つまり白川さんと彼女達は同級生でクラスも一緒だった仲だそうです。昭和30年岐阜県立高山高校普通科卒業生の一員なのですね。農業科に1人、林業科の3人も級友のようです。

私は白川先生の後輩、昭和33年の高山高校卒業です。少し解説が要りますが私は貧乏で高校に行けず中学を卒業し就職、2年後夜間高校へ進学しました。その高校は飛騨高山市の斐太(ひだ)高校夜間部でした。3年学んで両方の校舎が放火で同時に焼ける事件があって、学校編成替えがあり4年生の1年間だけ、高山高校へ変わったわけです。
従って小学校の級友とは3年遅れの卒業で、昭和33年定時制普通科25名の卒業生の1人です。
また、白川先生のお父さまは、高山市のお医者さんでしたので、就職後風邪をひいて扁桃腺を腫らす度、診てもらっていました。私のホームDrでした。
10年間高山市で働き昭和37年に岐阜へ転勤し、昭和53年16年振りに晴れて課長職で、妻子を連れでふるさと勤務の転勤となり、やはり白川医院へ風邪で診てもらいに行きました。

お久し振りの初太郎先生が「あなたの勤める会社に○○という人がいますが知っていますか?」と聞かれました。「お名前だけはよく存知上げています。筑波のNTTの研究所の所長さんでしょう」と、申し上げますと「彼は私の娘婿なの、東大の土木工学を出て本当は国鉄の技術研究所へ行きたかったらしいが、NTTに入社した」と言われました。健康保険証が会社の共済組合証だったから、同じ会社と分ったのです。

世間は狭いですね。英樹博士のお父上であることも受賞され初めて新聞で知りました。
博士のお父上は明治34年(1901)東京生まれ、8歳の時母上と死別、8人の異母弟妹があったが、早くに家を出て、篤志家の援助で千葉医大を卒業、東大から陸軍に軍医として入隊、インパール作戦で部隊長(軍医大佐)として敗走中に終戦、タイ捕虜収容所へと転々とした。
1944年(昭和19年)英樹博士の母、富有野さんの故郷高山市に引っ越し、高校卒業まで過ごしたと、当時の新聞の切り抜きにあります。お父上は終戦後妻子の疎開先へ帰還し高山市で開業されたのでしょうね。
お父上は元軍医という印象より患者に優しくいい先生でした。医者のかたわら俳句や、音楽、チェロを弾く文人肌の人だったとあります。

オリンピック・マラソンの高橋尚子さんとは遠い親戚だそうです。英樹博士と尚子さんの母滋子さんは、はとこ同士、高山市在住の滋子さんの母、いね子さんは高山市立南小学校の教員時代に、英樹さんの担任だったそうです。2000年のノーベル賞とシドニー五輪優勝は同じ年でした。ははァ~出来すぎですね。
尚子さんの父は岐阜市の元中学校長で母も多分教員だったのでしょう。私の住む近くにご夫妻はお住まいのようです。
尚子さんの後援会副会長だった初寿司にはいまでも「尚ちゃん定食」があります。(新聞紹介の系図です:クリックして、さらにもう一度拡大して下さい)