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異界の描かれ方の秘密:世界に広がるマンガ・アニメ07

2013年01月18日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
日本のマンガ・アニメの発信力の理由を以下のような5視点に注目して、これまでにアップした記事を集約、整理している。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤とし、その価値観を反映する。

④まで見てきたが、今回は①に戻りたい。①で触れておくべきだったものに気づいたからである。①は、もちろん日本文化のユニークさ8項目でいえば、(1)「漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている」に深く関係する。ところで、マンガやアニメに描かれる「異界」も、縄文以来の日本人の「あの世」観を暗黙の前提としているように思えるのだ。

マンガ・アニメの発信力:異界の描かれ方

BLEACH―ブリーチ―
涼宮ハルヒの憂鬱
DEATH NOTE デスノート
鋼の錬金術師
犬夜叉
幽・遊・白書
ヒカルの碁

これらに共通する内容上の特徴は、これらのいずれも何らかの形で、あの世、霊、異界、異次元などに深くかかわることである。もちろんそれぞれが異界を描く仕方はさまざまだ。ひとつの宗教に縛られないだけに、自由に多様な仕方で描かれている。しかし、この世界と異界が密接に結びついていたり、自由に行き来ができるところに大きな特徴があるような気がする。たとえば『デスノート』などはどちらかというとキリスト教的なにおいがする。『犬夜叉』などは純日本的である。『ブリーチ』は、日本的なイメージも強調されるが、その異界観は独特である。いずれにせよ、この世と異界との間に厳密な区別がなく、その自由な交流のなかでストーリーが展開するのが特徴だ。

こうした特徴にも、何らかの仕方で日本文化のユニークさが背景にあるのではないか。日本人の異界観や霊界観は、仏教の影響も受けているだろうが、しかしテレビ番組などでよく取り上げられる怨霊とか地縛霊とかは、もともとの仏教とは関係がないといわれる。キリスト教だったら、教義としてある程度はっきりした「死後世界」観があるだろうが、日本人はそういう「明文化」できるうような「あの世」観をもっていない。でいながら、あの世や霊界を意外と近しいものと感じている。

日本人が漠然と無意識に受け継いできた「あの世」観とはどんなものだったのか。それが現代のマンガやアニメにどのように反映しているのか。今後は、個々の作品も取り上げながら探っていきたい。

それで、この特徴を①に追加して以下のように文章を変えることも考えている。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)

縄文以来の日本人のあの世観を扱った本として、梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』がある。これを読み直して改めて思ったことは、『ブリーチ』にも縄文時代以来の日本人の「あの世」観が、かなり色濃く反映されているのではないか、ということであった。具体的な習俗やイメージの描き方としてよりは、基本的な「あの世」観としてということであるが。もちろんそこに『ブリーチ』独特の「あの世」観が重ね合わされてはいるが。

『ブリーチ』では、死神は大切な役割を担っている。この世の何かに強い未練を持ち、それに因果の鎖を絡めとられ、憑き霊や地縛霊となっているの迷える霊を、この作品では整(プラス)と呼ぶ。これらの霊は、この世に迷っているだけで基本的には無害だが、彼らを尸魂界(しこんかい:ソウル・ソサイアティ)に送るのが、死神の役割の一つだ。

死神のもう一つの大切な役割は、虚(ホロウ)の浄化だ。死神によって成仏させられなかった霊は、ある一定期間が経つと虚(ホロウ)になってしまう。虚は、現世を荒らす悪霊となり、人間の魂魄(たましい)を主食とするので、生きた人間を襲っては命を奪う。

この作品の主人公の一人は、朽木(くちき)ルキアという死神だ。虚(ホロウ)と戦っているさなかに、主人公の高校生・黒崎一護と出会う。ルキアは、霊が見え優れた霊力を持っていた一護に、死神になるきっかけを与える。出だしのストーリーである「死神代行篇」では、彼ら二人が協力しながら、さまざまな虚(ホロウ)たちと壮絶な戦いを繰り広げる展開が中心だ。

『ブリーチ』の「あの世」観は、きわめて精緻に構築されており、そこに分け入っていったら切りがない感じだ。ここでは基本の一部を押さえただけだが、これを日本人にもともと伝わってきた「あの世」観と比較してみよう。その過程で必要に応じて『ブリーチ』の、もう少し突っ込んだ「あの世」観にも触れるかもしれない。

マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)

縄文以来の日本人のあの世観の大まかな姿を、梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』を元にしてまとめ、『ブリーチ』のあの世観と比較してみたいと考えた。

梅原は、日本国家ができる以前に、沖縄、本土、北海道を含めて、一つの共通の基層文化があったと考える。そして、北においてその基層文化を色濃く残存させたのがアイヌ文化、南においてそれを残存させたのが沖縄文化だとし、アイヌ文化や沖縄文化を参考にしながら、『古事記』、『日本書紀』、さらに民俗学の研究などを照らし合わせて、縄文時代以来の古代日本人のあの世観を次のようにあぶりだしている。

1)あの世とこの世はあまり変わらない。極楽のようないいところでもなく、地獄のような苦しいところでもない。ただし、すべてがこの世と逆になっている(この考えは、現在も、弔いのとき死者の着物の合わせをあべこべに着せるなどの風習として残っている。)

2)原則的に、すべての人間があの世に行くことができ、あの世で神になる。ただし、この世で嫌われた人間は、あの世でも嫌われて受け入れてもらえない。またこの世に執着の強い霊は、なかなかあの世に行かない。

3)あの世に極楽も地獄もないから、どちらに行くべきかを決する裁判官もいない。キリスト教でいう最後の審判もなく、仏教でいう閻魔様もいない。

4)人間だけでなく、生きとし生けるものはすべてあの世へ行く。すべてが生と死の絶えざる往復をくり返す。太陽など天地自然もまた、生の世界と死の世界を往復する。

5)あの世とこの世は、それほど遠く離れておえらず、この世の裏側にすぐあの世がある。だからあの世の人たちはすぐにこの世にやってこれるのだが、年中来られてはこまるので、来れる日をお盆や正月やお彼岸に定めている。

6)お彼岸などでの短期の帰還だけでなく、もっと長い帰還がある。ある人が子どもを身ごもると、その一族の死んだ先祖たちが話し合って誰を帰すかを決める。よいことをした人は早く帰れて、悪いことをした人はなかなか帰れない。その基準で一人が選ばれると、あの世から魂が妊婦の腹にヒューッと移動して、この世への長期滞在となる。

こうして見ると、現代日本人の漠然とした最大公約数的なあの世観も、縄文時代の日本人が描いていたあの世観とそんなにずれていないのかもしれない。

そして『ブリーチ』で描かれるあの世も、大枠はこのようなあの世観の上に築かれている。尸魂界(しこんかい:ソウル・ソサエティ)と言われる霊界は、一見したところ、この世とそれほど変わらない家並みの中で、この世とそれほと変わらない生活をしているように見える。

ただし、尸魂界は、霊力を持つ貴族や死神達が住む瀞霊廷(せいれいてい)と、その周囲にある死者の魂が住む流魂街(るこんがい)に区分されていて、暮らし向きや待遇などに厳然とした差がある。この辺は、古代日本人のあの世観にはない差別待遇だが、しかし極楽と地獄、天国と地獄ほどの絶対的な違いがあるわけではない。

梅原は、極楽(天国)、地獄という区別がないのは、この世に階級とか差別がなかった社会の反映ではないかという。キリスト教や仏教のような世界宗教は、巨大国家が成立し、ひどい階級差別や奴隷制度が生じて、その差別に悩む人々を救おうとした宗教で、だからこそ、この世で富み栄えて贅沢三昧だった人々は、あの世で地獄の苦しみを味わうことが必要だったのだろうという。比較的に階級的な差が少なかった日本人には、縄文時代以来の平等なあの世観が受け入れやすいのかもしれない。

極楽(天国)と地獄の区別がないから、裁判官(閻魔)もいらない。『ブリーチ』ではないが、『幽遊白書』で閻魔様がジュニアのかわいい幼児になっているのも、そういう日本人の感覚にあっているのかもしれない。

古来の日本人のあの世観の2)、とくに後半の「この世に執着の強い霊は、なかなかあの世に行かない」という特徴は、『ブリーチ』の中でも重要な意味を持つ。この世の何かに強い未練を持ち、それに因果の鎖を絡めとられ、憑き霊や地縛霊となっている迷える霊を尸魂界(ソウル・ソサイアティ)に送るのが、死神の大切な役割の一つだからだ。成仏できなかった霊が、虚(ホロウ)になるというのは作者の創作だろうが、それもこのような日本人のあの世観を基礎にしてのことだ。

興味深いのは、日本の代表的な芸術のひとつである能も、霊についての同じような考え方を反映させているということだ。能の主人公シテは、多くの場合、怨霊であるという。つまり、この世に強い執着を抱いているために、あの世になかなか行けない霊なのである。そこにワキ(多くは旅の僧)が出てきて、シテの霊を慰めることによって恨みがゆるみ、無事あの世に行けるという筋たてが中心になることが多いのである。

こうして見ると、『ブリーチ』という作品も縄文時代以来の日本人のあの世観を下敷きにしていることは明らかである。

マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(3)

先に紹介した梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』と内容はかなりダブるのだが、もう少し本格的な研究書になっている本に同著者の『日本人の「あの世」観 (中公文庫)』がある。その中で著者は次のようにいう。

著者があぶりだしたような日本人の原「あの世」観が、キリスト教、仏教、イスラム教、古代シュメールやエジプトの宗教など世界の多くの宗教のあの世観と比し、どのような位置づけになるかは、本格的な研究を待たなければならない。ただ、著者の推測では、日本人の原「あの世」観は、人間の「あの世」観のごく原初的な形態をとどめており、おそらく旧石器時代に形成されたものなのではないかという。

日本人のあの世観に人類の原初的なあの世観の名残りを見るのは、そこに都市文明の成立以後に発展した世界宗教とは違う姿が見られるからである。日本人のあの世観には、天国と地獄、極楽と地獄の区別も、死後審判の思想も、因果応報の思想も認められない。現世の階級差の激しい社会で虐げられた人々の、願望の投影が見られない。とすれば、日本人の原「あの世」観は、階級や階層が生まれない旧石器時代の人類に共通な原初的な「あの世」観の姿をかなりとどめているのではないか。

この原日本的なあの世観は、決して日本だけのものではなく、かつては普遍的なものであったが、農耕牧畜文明の出現、それに伴って生まれた都市文明の発達によって失われてしまったあの世観だった。ところが日本列島では、世界の文明の流れとは合流せずに、高度に発達した漁撈採集文明が1万数千年も続いた(縄文時代)。しかも水稲農業文明を受け入れたのちも、旧石器時代や縄文時代の心性をそのまま残し、言葉も受け継がれていったため、旧石器時代以来のあの世観も存続していったのではないか。

旧石器時代や縄文時代に息づいていたであろうアニミズムや自然崇拝、生きとし生けるものとの同根・共生の心性は、もちろんあの世観とも一体となって存在していた。縄文遺跡から発掘される土偶は、縄文人たちの生への願望や死への恐れ、畏敬、祈りといった感情が強く反映されている。それらが全体として私たち、現代の日本人の心の深層にも受け継がれている。

そして現代のマンガやアニメ、『ブリーチ』にも、『犬夜叉』にも、『幽・遊・白書』にも、原日本的なあの世観、世界観が反映している。それらは、もしかしたら期せずして世界に、農耕文明以前の人間と自然、人間とその生死とのかかわり方を思い起こさせる役割を果たしているのかもしれない。

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1 コメント

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Unknown (HEう)
2013-01-19 02:04:17
最近あまりレスしておりませんが小まめにチェックしておりますHEうです

大変興味深い話ですが、対応する「海外のコミックにおける異界の描かれ方」も
一応は押さえていたほうが、より公正さが増すかと。

おすすめは米ダークホースコミックの「スポーン」です。
なぜかと言えば古本屋で今なら安く買えるから(w ではなくて、
話の基本構造がほぼ「仮面ライダー」そのままな上に
ショッカー相当な敵が本当の地獄からやってくる、という
比較対照としてはこの上ない作品だからです。

おまけ:
縄文時代からの風習で現代にも受け継がれているのが
「門松」
であると、最近ネットで見ました(オイ
年始の挨拶に代えて< (_ _)>
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