浜名湖小池哲生塾

2006年10月01日 | 風の旅人日乗
10月1日 日曜日。

今から5年前にタイムスリップして、その当時のヨット専門誌の舵誌に掲載された記事から順次紹介していこうと思います。まずは、2001年5月号に掲載された、風の旅人たち、ヨットレース人生列伝-2から。
小池哲生さんのヨットレース人生列伝。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2001年5月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

ヨットレース人生列伝-2

浜名湖小池哲生塾
ある年の全国少年少女ヨット大会。
子供たちを対象にしたセーリングスクール“浜名湖ヨットシステムJFP”をその1年前に設立し、そこで自らコーチを務めていた小池哲生は場内放送で審問室に呼ばれた。
「君のところの選手が、上マークに接触したのにマークを回り直さないでそのまま行ってしまった。君は子供にたちに一体何を教えているのかね」
審判員がいきなり頭ごなしに言う。
小池はこう答えた。
「子供たちにはヨットレースのルールはちゃんと教えています。その子がマークタッチをしてないと言うのなら、彼のコーチである自分は彼を信じます」
何分かの押し問答があり、名もないフリートの人間が何を言うか、というひどい扱いを小池は受けた。
その大会から浜名湖に戻る帰り道、小池は2度とこの大会には出ないこと、子供たちがレース海面で悔しい思いをしなくてもいいように、彼らにセーリングの真の実力を身に付けさせる、という決意を自分の胸に刻んだ。子供たちには、世界の海を目指すことを自分たちの合い言葉にしよう、と提案した。それが、小池哲生とその教え子たちの、ある意味での出発点だった。
小池哲生はそれから時を経ずして、河辺 健自、東 慎二、山田 閏、寛、真の3兄弟、川西 立人、横井 健太郎、小林 正季、竹本 さやか、といった日本を代表するキラ星のようなジュニアセーラーたちを育てあげた。
彼らはミニホッパー全日本などのタイトルを次から次に奪い、IYRUユースワールドやジュニア470ワールドの日本代表選手として、浜名湖の小池塾“浜名湖ヨットシステムJFP”から8年間連続して世界の海へ羽ばたいた。

小池哲生は20歳の時に初めて知人のヨットで浜名湖から勇躍遠州灘に乗り出した。しかし、なんと船酔いに苦しめられ、セーリングというものが一体何が何だか分からないまま最初のクルージングを終えた。
それが悔しくて、すぐに地元のディンギー・クラブに入り、しばらくしてレーザーを買った。週末はヨットを自由に操ることができるようになることに没頭し、自分でも訳が分からないまま、セーリングに長けることに若い情熱を注ぎ込んだ。
人に教えることもセーリングが上手くなるための近道だと考えてヤマハ発動機が主宰していたヨット教室のコーチに応募して就任したが、1年後にヤマハ発動機がジュニアヨットスクールを始めると、そちらのヘッドコーチになった。学連のヨット部の学生たちもアルバイトでコーチをやっていたので、彼らとセーリングをすることも刺激になった。
週末のスクールのコーチ業だけでは到底食べていけないので、当時次から次にヨットを開発・発表していたヤマハ発動機の実験課のアルバイトとして、ウイークデイはディンギーやクルーザーの開発・耐久試験にたずさわった。
小池哲生にとってヨットの開発・耐久試験は、セーリングのメカニズムを科学的に知る場でもあり、ヤマハ発動機に所属する小松一憲などのトップセーラーたちからセーリングの技術を学ぶ場所でもあった。小池が開発・耐久試験に関わった艇種は、シーマーチン、シースパイダー、シーラーク、シーファルコン、ヤマハ21、ヤマハ30などなど数知れない。小池哲生は、ウイークデイはヤマハ発動機のテストライダーとして、週末はジュニアのヘッドコーチとして、浜名湖をセーリングで縦横無尽に走り回った。
初めてセーリングを知ってから6年後の1981年、小池哲生はシーホッパーに乗って全日本選手権、関東選手権、九州選手権の3大会で優勝をさらった。
その頃の小池は、自分自身のセーリングがうまくなること、そしてそれを通じて自分が学んだことをジュニアヨットスクールの子供たちに伝えることだけを考えて生きていた。
自分でセーリングすることそのものも楽しかったが、自分がセーリングを通じて学んだこと、感じたことを子供たちに伝えることも、小池にとって同じくらい楽しいことでもあった。
しかし、ヤマハのジュニアヨットスクールに通ってくる小学生や中学生たちは、高校受験を機にセーリングから離れていってしまうのが通例で、小池はそれをなんとももったいないことだと感じていた。そして、高校生や社会人になっても目指すことの出来る、一貫した目標を設定することができて、気軽にセーリングに出られる場所や環境があれば、子供たちは高校生になってもセーリングを続けることができるのではないか、と考え始めるようになっていた。
また、ヤマハのジュニアヨットスクールの子供たちが参加していたレースは1年に1度のジュニア・ジャンボリーだけで、その他の大会にも子供たちを連れて参加したいとも思っていた。
子供たちが高校生になってもセーリングを続けられるための環境を自分の手で作ろうと、小池哲生は思い始めていた。
ウイークデイの浜名湖で、試作艇のテストの時間を利用して、小池はそのためのベースとなるのに適した場所を、セーリングしながらくまなく探した。浜名湖では60%の確率で強い西風が吹くので、その風が直接当たらない西側の海岸を重点的に調べた。
そうして、ある企業が所有し、ほとんど使っていない保養施設を探し出した。そこは浜名湖の北西岸で、その西側を小さな湾で守られており、強風の日にも出艇できる立地条件を備えていた。
小池はすぐにその施設を所有する会社に出向いて社長に直談判し、地元の子供たちにセーリングを続けさせるための環境作りの構想を熱心に説いた。その経営者は、小池哲生の熱意にほだされた形で、いい条件でその保養所を小池のジュニアヨットスクールに貸すことに同意した。小池塾“浜名湖ヨットシステムJFP”の始動である。

小池哲生流コーチ哲学
施設を安く借りることができたものの、小池の掲げた理想が、「子供たちが気軽にセーリングに親しむ環境」だったため、会費を高く設定することは志に反する。平均して常時6~8人ぐらいの子供が通っていたが、彼らの会費から合宿所の家賃や艇の修理などの維持費を差し引くと、後には何も残らなかった。小池のコーチ料もないし、手伝いに来てくれるコーチたちもボランティアだった。
自分のセーリングスクールを開校してからも、小池はヤマハの開発・耐久試験担当セーラーとしてのアルバイトでなんとか生活費を稼いだ。しかし小池は幸せだった。
小池哲生は、ジュニアのセーリングのコーチとしてできる最良のことは、子供たちになるべく多くのチャンスを与えることだと信じている。
あるとき、自分の教え子である子供たちのセーリングを見ていた小池は、自分とまったく同じスタイルでセーリングしている子供たちがいることに気が付く。
自分以上のセーラーになるためにはそれでは不十分だと小池は考えた。
そこで小池は積極的にいろいろなコーチやセーラーを自分のセーリングスクールに招くようにした。子供たちがセーリングをあらゆる角度から知ることができるように、ある側面は自分から、別の側面を別のコーチから、また別の側面を別のセーラーから教わることができるように、という考えからだ。だから、浜名湖の小池塾に集まる様々なセーラーたちによって、自分が預かった子供たちは育てられたのだと、小池は感謝している。
子供たちにいろいろなチャンスを与えることが、ジュニアのセーリングのコーチとして目指すべき方向だと考える小池は、あらゆる局面で子供たちが自分自身の状況判断で対応できるように教えていくことが大切だと考えている。
例えば沖で風が吹きあがってきた時、
急いでハーバーに帰る
島影に避難する
通りかかった船に救助を頼む
船につかまって待つ
自分が陥った状況に応じていくつの選択肢を持つことが出来るか、そして完璧な正解などないかもしれない海の上で、どの選択肢が最も正解に近いのかを自分自身で判断すること、そんなことを小池は子供たちに注意深く教えてきたつもりだ。
そんなふうに育てられた子供たちは、いつの間にか強風を好むようになった。浜名湖特有の北西風が強く吹き始めると、それまで風待ちで勉強などをさせられていた子供たちが「ワーイ、ワーイ、風だ、風だ、」と言いながら勝手に出艇しようとし、コーチボートの準備が出来てなかった小池哲生が「ちょっと待った、待った!」と水際で必死で食い止めている光景を、ぼくは二度ほど目にしたことがある。
また、ヨットレースで勝つことにこだわる前に、つまりハイクアウトやセールトリムやタクティクスを覚えるよりも前に、ヨットに乗りながら、
あ、飛魚が飛んでる!
波の向こうに何かいたけど、なんだろう?
あ、いま風が降りてきた、
そんなことを感じる子供に育って欲しい、そう願って小池は子供たちを教えてきた。

小池哲生が主宰する“浜名湖ヨットシステムJFP”は、現在休業状態だ。子供たちが海で遊ばなくなり、浜名湖でセーリングをやろうとする少年少女が激減してしまったのが原因だ。
それでも小池は今でもその施設を借り続けている。年3回、山形県のべにばなセーリングチームが小池を頼ってそこで合宿をするためにやってくる。小池哲生は山形べにばな国体の時にコーチ兼選手として山形県人になったことがあり、その縁が今でも続いているのだ。
ヨーロッパ級でセーリングを覚えたばかりの頃の、高知県の名倉 海子も小池を訪ねて浜名湖にやってきて、海外遠征前にここで合宿を組んだ。
昨年の470全日本で念願の優勝を果たしたヤマハ発動機の高木克也も、スランプに陥るとここにやってきて小池から個人レッスンを受け、そういった努力をついに結果に結びつけた。

小池は現在ヤマハ発動機の嘱託として、新艇の耐久テストや実験に取り組んでいる。もっとも、今やヤマハ発動機はヨット造りから手を引いてしまい、小池が担当しているのは、もっぱら釣りの人たちに人気のある小型パワーボートのテストだ。この分野でも経験が豊富で勉強熱心な小池は全力でこの仕事に立ち向かっている。
確かに多少型破りのアウトローとして生きてはきたが、子供たちにセーリングの面白さを伝える伝道師として、これほど実績があり、また結果を出してきたコーチが、その本来の能力を発揮する場所がないことに、僕個人は非常な違和感を持っている。
小池哲生は、自分自身の小池塾で、いつの日かまた子供たちに海やセーリングを伝えたいと考えている。

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4 コメント

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Unknown (T@MORI)
2006-10-03 09:52:27
感動しました、涙が出てきました。

セーリング益々好きになりました。
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Unknown (卒業生)
2007-08-08 18:46:47
ヤマハジュニヤヨットスクールの卒業生です。子供が小学生になり子供にもヨットをやらせたくて調べているうちにたどり着きました。小池コーチすごく懐かしいです。海では厳しかったコーチが、強風で海に出られないとき、山に入ってアケビをとってくれたあの味懐かしいです。(でかいアケビを見つけてキ○タマだ、キ○タマだと叫んでいたあの笑顔も!)
僕は海を離れて久しいですがまた海に出たくなりました。
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Unknown (kn)
2007-08-16 13:06:36
卒業生 様
そうですか、卒業生ですか。
あの合宿所も懐かしいことと思います。
9月に、淡路島で、子供たちにセーリング体験をしてもらう仕事を小池コーチと一緒にする予定です。
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Unknown (Unknown)
2012-05-07 05:25:00
事後報告で申し訳ありませんが、私のブログに記事のリンクを貼らせていただきました。問題があるようでしたら削除いたしますのでお知らせください。
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