electric

思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

二元論(風景と地図)③

2007-09-30 15:37:34 | 思索
最も大きなポイントは、”人以外の動物、また幼少の人にBタイプが認識されることはない”という箇所だと思います。僕はこの「本来の世界」への拘りがかなり強いですね。

まずこの「本来の世界」を外部の実世界と、それを人の意識に展開した写像の世界に分けて、ここでは写像の方を「本来の世界」として考えてみたいと思います。

「本来の世界」も、色んな記号や偏見を含んだ情報によって構成されている「常識的世界」も、共にAタイプの世界ですが、また共に写像でもあります。(外部の実世界は人の意識に認識されることによって初めて存在となるという論点に立ったのが、「反転する世界」で綴ったことでした。)

また、人はどうあがいても、外部の実世界を直接的に獲得できないことが、唯我論が並立し得る所以でもあるでしょう。

さて、この写像としての「本来の世界」と「常識的世界」は、「本来の世界」の方がよりリアルだと思うのです。言い換えると幼少の人の写像の方が、大人の写像よりもより正確に外部の実世界を映し出しているということですね。

「ソフィーの世界」で著者のヨースタイン・ゴルデルが非常に明解に記述していましたが、もし、ようやく歩き始めたくらいの幼児が、父親が宙に浮かびながらご飯を食べているのを見たとしたら、それは一体どう見えるのか?また、幼児の母親が同じ光景を見たとしたら、それは一体どう見えるのか?ということです。

幼児の方は、ただ「お父さんが浮かんでる」と見えるでしょう。しかし母親の方はびっくり仰天して腰を抜かすでしょうね。父親が宙に浮いているという事実を幼児は素直に受け入れ、母親の方はとても受け入れられなくて事実を拒絶してしまうのです。これは明らかに母親の既成概念によるものでしょう。この既成概念こそが”色んな記号”であり”偏見を含んだ情報”なのでしょうね。

人は成長と共に新しい概念をどんどん既成概念として身に定着させていきますが、その既成概念は、文化や生活習慣、また社会形態や宗教思想などによって全く異なる概念形態になりますね。それ故「常識的世界」は無類の世界が存在し、対して「本来の世界」は限りなく一つの世界に近い(実世界に近い)と言えるでしょう。

「本来の世界」と「常識的世界」は本質的に同一物だけれど、「本来の世界」が既成概念というペイントで様々に色づけされたものが「常識的世界」のように思えます。このようにして人は大人になると共に、感覚世界の表層しか見えなくなり真実からかなりの距離を置いてしまうことになるのでしょうね。

しかし、大人であっても自身の「常識的世界」を粉砕し、「本来の世界」への再構築を試みることができる人達がいます。そう、哲学者ですね。”哲学が必要!”という叫び、とても力強く美しく響きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ディジタルICとアナログIC

2007-09-29 21:40:02 | 電子回路
ディジタルICとアナログICは見た目も似ていますが、実は中身も同じで、どちらも多くのトランジスタ、あるいはMOS-FETで回路が構成されています。では何が違うのかというと、中身のトランジスタあるいはMOS-FETの動作の仕方が、ディジタルICとアナログICでは異なるのです。NPNトランジスタ2SC945AのIC-VCE特性を見てみましょう。

トランジスタのVceをどんどん小さくしていくと、IbによってIcを制御することができなくなります。この状態が特性図の右端に水色で示している範囲で、「飽和領域」といいます。またIb=0でもごくわずかなIcが漏れ電流として流れ、この場合もIbによってIcを制御することができません。この状態が特性図の底部に黄色で示している範囲で、「遮断領域」といいます。そしてIc電流曲線が示されている範囲、つまり飽和領域と遮断領域の間にある範囲においてトランジスタはIbによるIcの制御が可能であり、この範囲を「動作領域」といいます。

集積回路(IC)はトランジスタを集積したものですが、そのトランジスタが動作領域で機能するものがオペアンプなどのアナログICであり、飽和領域と遮断領域で動作するものがディジタルICなのです。トランジスタの動作が飽和領域にあるときにH(ハイ)、遮断領域にあるときにL(ロー)と考えればいいでしょう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

sinθの微分はcosθ

2007-09-27 22:02:37 | 電子回路
sinθを微分するとcosθ、 cosθを積分するとsinθ。これに嘘はありません。作図をして確認してみましょう。

関数を微分するというのは変化する関数の、ある時点での変化の大きさを求めるということです。この変化の大きさは図のように接線の傾きとして表すことができます。

この接線の傾きの大きさを下のグラフにプロットしてみます。ほら、見事にcosθの波形になりました。cosθがsinθよりも位相が90°進んでいることも図から分かりますね。

関連記事:微分と積分は逆演算 2007-10-11
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

構想するヴィジュアル

2007-09-27 01:58:17 | 思索
アーサー・ケストラー 著「ホロン革命」より

1945年、ジャーク・アダマールはアメリカの数学者にアンケートを出し、彼らの研究方法を調査したが、その結果は驚くべきものであった。ほとんど全員(例外は2名)が、言語を使ったり、あるいは代数記号をつかったりして問題に取り組んでいなかった。かれらは漠としたヴィジュアル・イメージに頼っていたのである。アインシュタインもそのひとりであった。かれはこう書いている。

「話し言葉も書き言葉も、私の思考メカニズムにおいては何の役割も果たしていない。・・・・・私の思考法は明確なヴィジュアル・イメージに頼っている・・・・・いわゆる全意識とは、意識そのものが狭量なものであるから、けっして達成しえない極限状態であるように、 わたしには思える。」

物ごとを明確に考えるために、言葉から離れなければならないことがよくある。言葉をつかった推論は精神ヒエラルキーのきわめて高いレベルとかかわっているが、まかりまちがえば堅いペダンティックなものになり、それがリアリティと推論者のあいだに壁をうちたてる。創造性はしばしば言語が姿を消したところに-つまり前言語的、前理性的な精神活動のレベルまで退行することによって-生まれてくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

返事

2007-09-27 01:24:53 | 思索
手紙ありがとう。

手紙って、手紙だからこそ話せるって場合があるね。いつもの口での会話では話さないことも書いたりできることもある。アキちゃんがくれた「超超一番の友達だよ!」も、その一つかな。

でも、今回の手紙は、ほとんど口で語るように書いてくれているね。だから、いつもの語り合いと同じ君がこの手紙の中にもいるような気がするよ。

君が自分で気が付いているように、またお父さんがいつも解説してるように、身体も心も急激に成長する年頃に君はいるね。鏡の中の自分を見てもそれに気づくし、また友達とのやりとり、お父さんやお母さんとのやりとり、それ以外の人や、社会や、草花や虫とのやりとりなど、周りのすべての見え方が以前と違うことに気づいて、びっくりすることもあるだろうね。

この変化に対して、受け入れることができるものも、受け入れたくないものもあるね。その受け入れたくないものに対して、君は「変わりたくない!」って言ってるんじゃないかな?確かに、成長と共に失っていくものもたくさんある。これは寂しいことだね。
例えば「子供の心」、これはお父さんにはもうほとんど無い。お父さんも自分の子供の頃を思い出すと、懐かしくて、憧れてしまうようなこともあるな。あの頃は何にでも感動していたからね。

でもね、成長にともなって新しく開かれる扉もたくさんあるんだよ。まるでダンジョンの中のトラップを解いて、扉がパッと開くようにね。そんな未来に期待してみるのも悪くないんじゃないかな?そして君がもっと大きくなったら、君より年下の思春期の子供達に色々なことを教えてあげることもできる。そこのトラップは、右のハンドルを2回、左のハンドルを3回、回すんだよってね。

さて、「好きなもの」と「嫌いなもの」を明確に教えてくれてありがとう。うんうんなるほど、とうなづきながら読んだよ。君が好きなものも、嫌いなものも、とてもよく分かるよ。嫌いなもので、おや?っと気が付いたのは、「先生とか、偉い人たちに、悪口やぞんざいな口をきくこと」という部分かな。

「偉い人たち」って、いったいどんな人たちなのか?これは難しい問題だね。お父さんもハッキリとした答えは出せないな。歴史上の「偉い人」と言われている人たちが、”ある部分について”偉かったのは間違いないだろうけどね。「先生だからって、偉い人とは限らない」とお父さんは何度か話したね。たぶん君が言っているのは、偉い人というよりも、目上の人ということだろうね。これはお父さんも大事なことだと思う。

最後は、「これからもまだ色々なことがある、気を引きしめねば!」と結んでくれたね。もちろん、気を引きしめることも時には大切だね。でも、気持ちを開放することも、やはり時には大切なんだよ。(^^)

ピッチの絵は、とても懐かしくて嬉しかった。ありがとう。

04/08/21
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二元論(風景と地図)②

2007-09-25 21:04:42 | 思索
風景は心そのもので、世界そのもの。地図は言語で構築された言語世界。言語による複写世界。

心の活動は、日常活動(挨拶言葉)から真理への接近へと果てしない奥行きを往来する。

新しい事実や真理に近接した場所では、もはや言語は意味をなさない。既成の言語は役に立たないとも言えよう。科学者や思想家や宗教家が言語を捨てるのは、この真理への接触の時ではないだろうか?しかしそれも、そう頻繁にあることではない。

人の暮らしは日常生活が大半を占める。科学者や思想家も生きるがために働きもし、買い物をし、飯を食う。日常生活を送るとき、風景を基準にすると、相応する活動は著しく奇妙なものとなるだろう。道にも迷い、脱輪もするだろう。だって、その時は心は日常にあるんだから地図を頼りにしなければ1mも歩けないよね。

さて、社会人としての雑事を終えて、人が人たる活動を開始して視線の先に真理を見定めんと、心の奥底に降りていく時、そう、もはや地図は役目をなさない。手がかりは風景一つだけ。そんな短い時をも人は暮らしの中に持つ。

(文学はこの奥行きの中間点から地図よりに、
詩は、中間点から風景よりに生まれるんじゃないだろうか?)

しかし、この心の往来が、つまり地図と風景への往来が、生き生きとして潤いを帯びた生をもたらすことを知らず、地図に日常に、のみへばりついて生き、喉の渇きに喘いでいる人々の何と多きことか。心に手を漬けさえすれば、そこには風景の手がかりがあるというのに。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二元論(風景と地図)①

2007-09-24 23:20:30 | 思索
いま目に見えている路地や山、耳に聞こえる街の音、肌に感じる風、それらは自分の外に在るかのような気がしているが、実はそれこそが心であり、自分の内部の中心に在る。

事実は、AIさんのいう、この言葉に尽きると思います。

確かにここには見事な意識反転がありますね。風景は外に置けば”地図”となり、内に置けば”心”となる。個人にとって重要なのは、客観存在よりも主観存在であることは当然だと思います。

さて、ここでもちょっとホロン流整理を試みてみますね。これによって表れるのは僕の心象風景の一つですから、AIさんの心象風景と異なる部分はたぶんに想定できますね。間違い=異なる部分があれば指摘してくださいね。この指摘と話し合いにより修正がかかり、合意の了解が得られる可能性があるのも大変興味深いことです。これは紛れも無く”地図化”によって成り立つのでしょう。

では、まず言葉の定義からいきます。

心(精神)
意識と無意識の総体。

心象風景
①視覚や聴覚などの感覚器官に捉えたれた物理情報を心が解釈したもの。
②精神的現象(精神的存在)。
③一次的リアリティ。
④人の数だけ異なって存在し、お互い相容れない複数リアリティ。

(補足)
無意識の深さにおいて、レベル0(ゼロ)から9までの段階を有する。レベルゼロの心象風景は”地図”に相当する。

地図
①心象風景から抽出し一般化した”概念”。
それは自然科学、人文科学等、科学一般によって示され、取り扱われる。
②物理的現象(に代表される存在)。
③二次的リアリティ。
④万人に同一物として共通認識される、唯一リアリティ。
      
(補足)これもまた唯一リアリティとして心に解釈される。つまり心象風景の一つであり、万人に了解されることを特徴とする心象風景。ただしこれは意識レベルゼロにおける心象風景である。また、この”地図”の存在故に他者とのコミュニケーションが成り立つ。

物理的現象と精神的現象の相関関係は”色”が分かりやすい。物理的現象としては異なる波長の光の合成という存在形態であるが、精神的現象としては”色”という存在形態である。

”音楽”も同様である。物理的現象としては異なる波長の音の合成であるが、精神的現象としては”音楽”である。これは芸術一般において全て言えることである。

だから、空が青いのは屈折率の高い青の波長が大気の層で拡散するという物理的現象の事実であり、また同様のことが精神的現象では青色として出現する。これも事実である。両者の事実は異なる次元の上に立っており、互いに場所を取り合うものではない。言い換えれば、物理学は精神的存在を問うことはできない。

さて、諸々の間を飛ばして、ここでまとめに入ります。

”地図”が無ければ、人は如何なる社会生活も営むことはできない。しかし、観点を入れ替えると、人は生活や活動において”地図”のみを基準とすることが多く、その源泉である幾層もの階層で構成されている”心”を忘れてしまいがちである。真理を探究しようとする時、”心”の目を開かず、”地図”ばかりをいくら眺めても、本質は一切見えてこないのである。

「無意識の深さと、この風景としての世界の深さは、一致している!」
諸手を上げて賛成です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マザリング

2007-09-21 22:58:01 | 思索
「分かりやすい無意識の一例:マザリング」

親はどうして子供がこんなに可愛いのだろう?子供はどうして、こんなに親が好きなのだろう?

猿を観察した結果のマザリング説は、このことが本能ではないことを説明している。母猿に育てられて成長したメス猿は、自分が出産した小猿を抱き、乳を飲ませ、体毛を繕い、可愛がる。この行為がマザリング(マザーリング)である。

しかし、何らかの事情で母猿を失い、人の手によって育てられたメス猿は、たとえ出産したとしてもその小猿を自ら育てようとはしない。まず自分の出産に驚き、へその緒が付いたままの小猿を引きずり回し、意味の無い奇行を繰り返す。

このことは子供への愛情が、生まれてすぐに始まるマザリングによって養われるのであろうことを物語っている。子供への愛、親への愛、これは意識ではなく無意識にあることは明らかであり、このようにして無意識の中に形成されるのであろう。

さて、男はどうして女が好きなのだろう?女はどうして男が好きなのだろう?
これは未だに謎である。(^^)
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指数関数とダイオード

2007-09-21 20:25:50 | 電子回路
一般にPN接合型シリコンダイオードの電圧電流(VF-IF)特性は指数関数であると言われます。指数関数は関数Yと変数Xとの関係において、Y=A・e^BX (eは自然対数の底)の式で表されます。これをダイオードに当てはめると、if=A・e^Bvf となりますが、純粋に指数関数の特性をしているのでしょうか?それとも補正を加えなければならないのでしょうか?エクセルで指数関数をグラフ化してダイオードの特性と比較してみました。

* eは約2.718の定数

カット&トライを繰り返し、A=0.1E-6 B=18とした場合に得られた特性を図に示します。左がIF=0~100mA 中央がIF=0~1A 右がIF=0~10A まで示しています。まあ、まずまずシリコンダイオードの特性を近似しているようです。

ということで、VF-IF特性は純粋な指数関数であると言えそうですね。

関連記事:ツェナダイオードの特性 2007-09-04
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信じるというパワー

2007-09-20 20:28:19 | 思索
こんにちは、しばらくのご無沙汰でした。

>「信じる」という想念のパワーが物事を動かす原動力の源になっていると思います。

そうですね。人の「信じる」というパワーがどれほど巨大であるかは、歴史上の事柄にも、正に現在の事柄にも、数え切れないほどの数で見て取ることができますね。重要な視点は、特に素朴な人達に多く言えるのでしょうが、なぜこのように、人は簡単に信じてしまうのだろう、ということでもあると思います。強大な力を持つだけに、「信じる」ということを悪用すれば恐ろしいことになりますね。

未熟な僕は、こんなことなら信じない方がまだマシと、多くのことを懐疑的にも見てしまう習性がついているようです。良いことなのか、悪いことなのか(笑)。特にマスコミ報道の表層などについては極めて懐疑的ですね。人々の「信じる」というパワーは、是非、人々自身のために使ってもらいたいものですね。

>勝利も敗北もなく、いかに「唯一の解」=「真実」を見つけだすか・・それが問われているんじゃないでしょうか。

はい。「唯一」かどうかは定かじゃないけど、「真実」を見つけ出すことと言い換えることもできますね。少し言葉が足りなかったけど、この場合の敗北の意味は、人間が自らの手で、人間を絶滅させてしまうということなんです。そのような絶滅の危機を、きっと人間は見つけて回避していくだろうと、つまり勝利するだろうと、僕は信じてるってことなんですよね。

恐竜は2億年ほど生きて絶滅したけど、人は人らしい生活を始めてまだ2万年ほど。ここで絶滅しちゃったら、地球史からみたら、取るに足らない存在だったということになっちゃいますね。

>「勝つ」というのは、信じる道を自然体で楽しみながら幸せに生きて行くことなのかも知れませんね。

はい。個人レベルでは、まったくその通りだと僕も思います。一人一人は、誰もがこのようにして生きていって欲しいと思いますね。
縦糸を忘れることなく、人生の横糸を織り込んでいきたいですね。

草々
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生は後半戦が面白い

2007-09-19 20:54:09 | 思索
「人生は、後半戦が面白い!」
これは、健康・生きがい開発財団が2003年に主催した、生きがい発見シンポジウムのタイトルらしい。そのシンポジウムの中身はともかくとして、正に折り返し点を回って人生の後半でもがいている僕にしてみれば、このキャッチコピーそのものにニヤリと微笑まされるものがあった。

思えば人生の前半では定型化されたものや、幾つかの必然的で公的な戦いを余儀なくされるものだが、またこれは何も人に限ったことではなく多くの生物が同様に通過せざるを得ない試練でもあるが、人生も後半になれば目に見えたもの(戦い)はその数においては急激に少なくなる。

そもそも戦いなど無くてすむならそれに越したことは無いが、この世はそれをシステムの一部に組み込んで作り上げられてしまっているらしい。つまり戦いという一本の柱を取り去ると、現世は本質的に成り立ち得ないのだ。

さて人生の後半戦であるが、これは戦いよりも闘いの方が言葉としてふさわしいだろう。それは誰の目にも見えるものではなく、個人の内部で深く静かに展開されることが多い。全ての人は苦悩し、その苦悩の中心にあるものは闘いである。

しかし少し視点を変えて見ると、その苦悩も幾らか心地よくも見ることができる。それは苦悩の多くは生みの苦しみであるからである。生まれ出るのは未知であった新しい世界だろう。それはあらゆる形態を取り得るが、誕生はいつもその時に幸福を呼ぶ。

大人になることは確かに何かを諦めることなのかも知れない。でも大人であり、しかも後半であるが故に与えられる生みの力もあるはずだ。僕に言わせれば「人生の後半戦が面白くないはずがない!」である。

ホロン(^^)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガラスのうさぎ

2007-09-19 19:14:02 | 思索
高木敏子 著 金の星社

いかなる理由も戦争を正当化することはできない。またいかなる理由も殺人を正当化することはできない。戦争とは”合法的”という偽りの衣に包まれた国家による殺人である。合法的?これほど卑怯な弁明はない。戦争を決定する権限を持つ者は合法的と宣言するのではなく、これは最悪の犯罪であり自分はこの罪により地獄に落ちると宣言し、自ら武器を持ち最前線に立つべきなのである。

この物語は、戦争という事象が12歳の少女に引き起こした個人的事実が綴られたものである。少女の視点で語られる数々の出来事の悲惨さは、読む以前にもたやすく予想できることではあるが、その心構えをもってしても、いたいけな少女の思いに激しく胸が揺すぶられ打ちひしがれてしまう。この物語は過去の歴史ではなく、正に今現在の瞬間を語っていると言える。そして日本国憲法第9条が、いかに崇高で尊いものであるかを再認識させてくれるものである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2007-09-18 21:32:15 | 思索
今日は新しく設計した工業用の蛍光灯インバータ回路が無事に動作してくれて、気持ちよく会社の門を退出。帰りの電車に揺られながら、何気なく中吊りに目をやると「現代絵画の巨匠展」何チャラという広告がぶら下がっていました。その昔、国際美術館がまだ万博公園にあった頃、タタミ一畳ほどの真っ白なキャンバスに、線が一本、2箇所折れ曲がって引いてあるだけの現代絵画?を見て、何やら無性に腹が立ったのを思い出しました。消しゴムの消しカスが少し残っていたのも忘れられません。

現代芸術では、作者が芸術だと言えば、それは芸術だ。と言われるようですが、う~ん、いかがなものでしょう...。数年前、20世紀の芸術に最もインパクトを与えた作品として、マルセル・デュシャンの「泉」が一位であったと報じられていましたが、僕は例によって「なんでやねん!」とやや立腹気味でした。「泉」はご存知の方も多いと思いますが、大量生産の小便器にデュシャンのサインを記入しただけのものですね。まあ、優れた作品ではなく、インパクトを与えた作品ですから、それもありなのかなあ、とボンヤリとは思っています。

人間の精神に認識されないものは存在しない(意味が無い)という量子物理学者達ですが、精神こそが真実というのは、芸術の世界にも如何なく発揮されているようですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論理記号と論理回路

2007-09-18 20:11:20 | 電子回路
論理演算(論理回路)に用いられる論理記号は上段の3つです。NAND回路とNOR回路はAND回路とOR回路の出力にNOT回路を接続したもので、論理回路設計時には非常に頻繁に使用される論理記号です。この2つの論理回路さえあれば、組み合わせを工夫することにより、規模の大小を問わずすべての論理回路を設計することが可能です。それぞれの論理を正負変換すると、下段の等号が成り立ちます。この論理変換はド・モルガンの定理ともいいますが、論理回路あるいはディジタル回路のツボです。これを会得したらもう論理回路は終わり!(^^)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんとか会社を変えてやろう  

2007-09-17 22:28:46 | その他レビュー
柴田昌浩 著 日経ビジネス人文庫

問題点とは何か。これを余りにも的確に言い表しているので、随所で頷き、また、”そう!そう言いたかったんだ”という思いを代弁して、どんどん言ってくれる、その点では痛快無比、読んでいて胸のすく思いだ。例えば、「問題のある組織」を、”なるべく波風は立てたくない”という感覚が支配している状態、と一言で表しているが、正にその通りだと思う。また、「マネジメントに関する感度の悪い人」を、形式主義、権威主義、管理主義といった”型”を重んじるタイプの人、と言っており、これにも大いに賛成できる。更に、こんな問題ある組織であって、経営者がマネジメント感度の悪い人の場合、解決の方法はほとんどないので、できるだけ早く辞めて逃げ出した方がいい、と言い放たれており、思わず深い溜息をついてしまう。しかし、事実はその通りなのだ。

さて、この問題ある組織を変革し、健全な活力ある組織に改善していくことが、文化及び風土改革であり、その一つの手法が詳細に記述されているのであるが、この肝心な部分に可能性としての実感が湧いてこないのは、私の所属する組織が、もう処置無しの状態にあるからなのかも知れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする