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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

電荷と電気① 電池

2011-01-27 19:36:31 | 電子回路
「電気とは何でしょう?」この問いはかなり難しい問題です。一般的には「電圧」と「電流」、この2つのワードを持ち出せば、おおむね電気を捉えていると言えるでしょう。しかし、では電圧とは何?電流とは何?と考えを進めると、簡潔で明確な言葉がなかなかすぐには出てきません。

実は、簡潔で明確な言葉があるのです。それが「電荷」です。まず始めに電荷ありき。電圧も電流も電荷の振る舞いです。電荷はコンデンサの特性を考えるときに、なじみのある言葉として出てきますね。Q=CV のように、電荷は記号Qで表され、単位はC[クーロン]です。

電荷から電気を考えるときに、乾電池の構造と原理がそれを分かりやすく説明してくれます。図を見てください。単純化して示していますが、乾電池(マンガン)は図のように、亜鉛缶の容器に電解液を溜め、電解液に炭素棒を差し込んだ構造になっています。そして、これらの化学反応によって、亜鉛からは電子を残してプラスイオンが追い出され、それが炭素棒にいき、炭素棒から不足分の電子をもらって結合し中性(アンモニウム)になります。このようにして、亜鉛は電子が余りマイナスに帯電し、炭素棒は電子が不足してプラスに帯電します。

この亜鉛に余ったもの(相対的に増加したもの)、つまり電子が電荷、正しくは負電荷であり、炭素棒に残った電子の穴が正電荷です。この亜鉛の負電荷と炭素棒の正電荷により、亜鉛缶と炭素棒の間に電位差(電圧)が生じます。乾電池の場合は1.5Vですね。

電荷は「電気量」とも表します。つまり、あたかもバケツに溜めた水のように、電気には量としての大小があるのです。電気の量とはすなわち電荷の数であり、負電荷である電子、正電荷である電子の抜けた穴、これらの数を意味します。これは、容量の大きなコンデンサには多くの電荷が溜まることからも、概念的に理解できますね。

さて、乾電池に豆電球をつなぐと、豆電球は点灯します。これは豆電球のフィラメントに電流が流れるからです。では電流とはいったい何の流れでしょう。これは皆さんすでにご存知のように電子の流れ、つまり負電荷が流れるということです。「電流とは電荷の流れ」これが、より電気の意味に近い概念です。豆電球には2本の電線が付いています。これを、フィラメントを介した1本の電線とみなせば、電線内の電子は乾電池のプラス電極(炭素棒)の吸引力によって引込まれ、マイナス電極(亜鉛)の反発力によって押されて電線内を移動します。炭素棒に吸い込まれて不足した電子は亜鉛から瞬時に供給されて、電線内では一定量の電子の流れ、つまり電荷の流れが継続しこれが電流になるわけですね。

一方、電池の亜鉛缶と炭素棒に着目して見れば、電線に電流を流すことで亜鉛の負電荷と炭素棒の正電荷が共に減少しますが、乾電池内の化学反応によって瞬時に補われ、亜鉛缶の負電荷と炭素棒の正電荷は常に一定量に保たれます。よって、電流(電子:負電荷)が流れているときも、電圧は1.5Vに保たれるということです。

負電荷は電子が担いますが、単位:1C[クーロン]は、電子1個の電荷のことではありません。Q=CVより、端子電圧=1Vの1Fのコンデンサが溜めている電荷が1Cです。あるいは、「1C の電荷が1J の仕事をする電位差を1V と定義する」(Wikipedia)ということです。また、電線(導体)を1秒間に1Cの電荷が通過するとき、これを1Aの電流と定義します。

関連記事:
電荷と電気② コンデンサ 2011-02-01
電界と磁界の記号と単位 2011-02-14
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交流回路のまとめ①

2011-01-21 19:46:04 | 電子回路
【左の回路のベクトルVを求める】

合成インピーダンスは
Z=1/ jωC+ 2jωL /(2+jωL)

各パラメータに数値を入れる。
Z=1/ j0.5+ j8/(2+j4)

式を整える。
Z=-j2+ j4/(1+j2)

第2項に共役複素数を掛ける。
Z=-j2+{j4(1-j2)}/(1+4)
Z=-j2+(j4+8)/5
Z=-j2+j4/5+8/5
Z=8/5+j4/5-j10/5
Z=8/5-j6/5    (これが本回路の合成インピーダンスである)

回路電流ベクトルIはI=5(A)∠0だから、求めるべきベクトルVは、
V=5(8/5-j6/5)
V=8-j6  (絶対値と偏角は 10∠atan-6/8 =∠-π/4.88[rad]) 


[交流の電力]
次に、本回路の消費電力を求める。
VI=5×(8-j6)
VI=40-j30

よって、有効電力P=40[W]、無効電力Q=30[var]である。
皮相電力Sは
VI=50[VA] {=√(402+302)}


【右の回路のベクトルIを求める】

負荷の複素インピーダンス(ベクトルインピーダンス)は
Z=8/5-j6/5

だから、回路電流ベクトルIは
I=8/(8/5-j6/5)
I=40/(8-j6)

分母分子に共役複素数:8+j6 をかけて
I=40(8+j6)/(64+36)
I=320/100+j(240/100)

よって
I=3.2+j2.4  (絶対値と偏角は 4∠atan 2.4/3.2 =∠π/4.88[rad])

関連記事:
複素インピーダンス(jωLと1/jωC) 2010-12-22
ベクトルと複素数 2010-12-18
交流回路のまとめ② 2011-02-21
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魚釣りは楽しいな

2011-01-18 19:32:47 | 思索
たとえそれが魚であっても、生きている状態から切り身になるまでの工程は凄惨だ。最初は生命を絶つこと。つまり魚をシメる。一般的には刃物で魚の急所を切断するが、私はもっぱら氷シメにすることが多い(大型魚の場合は刃物を使わざるを得ないが)。釣れた魚はクーラーの中の氷水に放り込み、クーラーのふたをする。それは魚が絶命する過程を見たくないからだ。(これは卑怯であろう)。次の段階はシメた魚を捌くこと。頭を落として腹を開き内臓を取出す。出てくるものはあまり見たいものではない。この作業も慣れてなければ相当な覚悟が必要になる。これが終わって魚はやっと切り身になる。スーパーに陳列してあるサケやブリの切り身と同じ。ここまでくれば誰もが屈託なく扱える。本当は、シメて、捌いた人にのみ魚を食う権利があるのだと思う。それが生命を絶つ罪過を背負うことに対する報酬だ。魚ならまだしも、牛や豚の場合は想像を絶する。私はステーキも、すき焼きも、豚カツも好きだが、ト殺して捌く勇気はとても無い。いったい誰が精肉になるまでの工程を担っているのか。そんなことは誰も知らない。ブラックボックスにしておくのだ。でなければ食えなくなるだろう。集団的無思考を考えるとき、誰もが一度は自らの手で魚を捌いてそれを食うという経験が必要なのではないかと、漠然と思う。
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テブナンの定理 と 重ね合わせの理 ②

2011-01-13 22:50:53 | 電子回路
(キルヒホッフにて i1=0.53  i2=0.55  i3=1.08 )

【重ね合わせの理】
テブナンの定理を使うことで電気回路の計算がずいぶん楽になりましたが、もうひとつ「重ね合わせの理」という妙手があります。やってみましょう。

左上の図が元回路です。これを中の図、下の図のように片方の電源を短絡して各電流を求めてみます。

8Vの電源から流れる電流は
i1a=8/(9+15/8) =0.74
i2a=0.74×3/8 =0.28 → -0.28(i2に対して逆)
i3a=0.74-0.28 =0.46

6Vの電源から流れる電流は
i2b=6/(5+27/12) =0.83
i1b=0.83×3/12 =0.21 → -0.21(i1に対して逆)
i3b=0.83-0.21 =0.62


そして、電流aと電流bを足します。この重ねあわせに“理”があります。
i1=i1a+i1b =0.74-0.21 =0.53
i2=i2a+i2b =-0.28+0.83 =0.55
i3=i3a+i3b =0.46+0.62 =1.08

となって、キルヒホッフで求めた各電流と一致しましたね。
何か狐につままれたような感じですが、これが「重ね合わせの理」です。
すごいっすね。(^^)


[テブナンの定理の補足]
右列の図を見てください。テブナンの定理を使って、9Ωに流れる電流i1を求めてみましょう。

ルールに沿って9Ωを取払い、まずa-b間電圧を求めます。これは8Vが直列に入るので少しややこしいですが、a-G間電を求めて8Vを引けばa-b間電圧になりますね。OKですか?(^^)

V(a-b)=6×(3/8)-8
V(a-b)=2.25-8 =-5.75 

端子a-bから見た回路インピーダンスは5Ωと3Ωの並列ですから、
Ri=15/8 =1.88Ω

よって、元の回路は等価回路1に置き換えられます。
 
故に、 i1=-5.75/(1.88+9) よって
i1=-0.53 

マイナスが付いているのは、電流がb→aに流れているということです。よって
i1=0.53 となります。はい目出度し。

しかし、この場合は電圧計算が少しややこしくなるので、もう少し大胆にいきましょう。
9Ωのみを取払うのではなく、8Vの電源ごと取払ってしまえば、実にシンプルに考えることができます。この場合は等価回路2になります。結果はもちろん同じです。

こっちのほうがエレガントですね。テブナンの定理は柔軟に扱うのが肝要かと。

関連記事:テブナンの定理 と 重ね合わせの理 ① 2011-01-08
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テブナンの定理 と 重ね合わせの理 ①

2011-01-08 19:09:13 | 電子回路
左上の回路で抵抗に流れる電流i1~i3を求める場合、オームの法則では解けないので、一般にキルヒホッフの法則を使います。やってみましょう。(i2の方向は実際には逆かも知れませんが、とりあえず、この方向で考えます。実際の方向は最後にわかります)

[i3=i1+i2]
9 i1+3(i1+i2)=8
5 i2+3(i1+i2)=6

この連立方程式を解きます。
12 i1+3 i2=8 -----------①
3 i1+8 i2=6 =12 i1+32 i2=24 -----------②

②-①は
32 i2-3 i2=24-8
29 i2=16
i2=0.55
(数値がプラスということは、i2の向きは図の通りということです)

これを①に代入して
12 i1+1.65=8
12 i1=6.35
i1=0.53

i3=i1+i2 だから
i3=1.08
とでましたが、まあ結構じゃまくさいですよね。そこで、「テブナンの定理」の登場となります。

【テブナンの定理】
中断の図の、3Ωに流れる電流iを求めます。
まず3Ωを取り払い、端子電圧vを定めて、次の2つの作業をします。

<1> vの値を求める。
<2> vから見た回路インピーダンス(Ri)を求める。

<1>は
v=5(8-6)/(9+5)+6 (回路電流を求めて、5Ωの電圧降下を6Vの電源に加算)
v=6.71(V)

<2>は、電源のインピーダンスはゼロだから1本の電線と考えると、9Ωと5Ωの並列合成抵抗がRiになります。よって
Ri=(9×5)/(9+5)
Ri=3.21(Ω)

<1>と<2>より元の回路は、下図のように、内部インピーダンスがRiの電源vに負荷抵抗R(3Ω)が接続された回路と等価になります。OKですか?

ということは、3Ωに流れる電流iは
i=v/(Ri+R)
i=6.71/(3.21+3)
i=1.08

となって、さっきキルヒホッフの法則で求めたi3と一致しましたね。あとはオームの法則ですべて解けます。
実に簡単に解けるでしょ?(^^)

【おまけ】
練習のための[おまけ]を付けます。暇つぶしにどうぞ。
右図の回路をキルヒホッフの法則で解くのは大変です。こんなときこそテブナンの定理です。センターの3Ωを取払って、端子電圧a、bを求めます。

<1>電圧aは10×4/5=8 電圧bは10×3/5=6
よってa-b間電圧vは8-6=2(v=2)

<2>a-b間の回路インピーダンスRiは、電源を1本の電線として、(1Ωと4Ωの並列)と(2Ωと3Ωの並列)の直列だから、
Ri=4/5+6/5 =2

vとRiの値から等価回路は下図のようになります。よって
i=2/(2+3) =0.4

[ついでに]元の回路の4Ωに流れる電流を求めます。4Ωを取払ったときの回路電流Iは、
I=10/{(4×2)/(4+2)+3} =2.3(A)

よってa点を流れる電流Iaは、
Ia=2.3×2/6 =0.77(A)
よって、このときのa点の電圧は
a=10-1×0.77 =9.23(V)

次にa点から見た回路インピーダンスは、{(2Ωと3Ωの並列との3Ωの直列)と1Ωとの並列}だから、
Ri={6/(2+3)+3}/[{6/(2+3)+3}+1]=0.81

よって
i=9.23/(0.81+4) =1.92(A)

よって、元の回路のa点の電圧は
Va=1.92×4 =7.68(V)

はい。これですべてが求まりますね。(^^)

関連記事:テブナンの定理 と 重ね合わせの理 ② 2011-01-13
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テレビゲームとは何か

2011-01-04 00:59:11 | 思索
ザッツ、エンターテインメント。
人はエンターテインメントを好む。それは、おもしろい、楽しい、心地よい、からであろう。わくわくする、興奮する、これも心地よさに通じるものとして、エンターテインメントが人に提供するものである。エンターテインメントとは具体的に何か。これは人が趣味とするもの、余暇に行うものすべてであり、非常に多種多様である。一般的なものを幾つか上げると、音楽、映画、小説、スポーツ等、細かく数えると切がない。本稿の主題であるテレビゲーム、これも近年、若者を中心に圧倒的支持を得ている堂々たるエンターテインメントである。古来より脈々と続くエンターテインメントの中でも、いま特にテレビゲームに注目するのは、これは古来よりではなく、近年突然に現れて急激に進化、普及し、圧倒的にエンターテインメントの世界を席巻したという現実への戸惑いがひとつにはある。この現実の有様を見ると、テレビゲームはもしかしたら遊びを好む人の本能、特に若年層の本能にアピールする最強のエンターテインメントなのかも知れないとも思えてくる。

しかしテレビゲームが登場した当初から、また全世界に広まった現在においてはなお、テレビゲームのある種の有害性について言及する声が少なくない。しかしそれは論理に基づくものというより、多くが感性に反応する類のものとしてである。実際、テレビゲームが何故悪いのか?という問いに対する明確な回答は今のところないだろう。少なからぬ遊びに存在する中毒性についてはテレビゲームも当てはまるように直感するが、テレビゲームを良からぬものとする見方は、特に中毒性を強調するものではない。もっとほかに、もっと本質的で重大なものがあるように感じられる。それはいったい何なのか。無心にゲームに興じる子供を見て、言うにいえぬ親の怖れはどこから来るのか。

テレビゲームを取り巻く周囲の客観的事実から押さえていこう。ゲーム好きの子供たちは非常に多くの時間をゲームに費やしている。もしゲームをしていないなら、その時間をほかの事に割り当てることになる。これが大人であれば、時間があるなら好きなことをすればよいと多くの人は納得するだろう。しかし、成長過程の子供にとっては不可欠な必要な時間が他にあるのではないだろうか、テレビゲームはその時間を阻害しているのではないだろうか、という感覚が漠然とあるものと思われる。少なくとも私自身にはある。

ある程度の年齢を経た大人の多くは、それぞれに「一人前の大人」についての観念、あるいは理想像を持っている。それは細部に個人差はあっても、多くの部分でオーバーラップするはずだ。子供がその一人前の大人に成長するためには、成長の過程においてどのようなものを吸収しなければならないのか。これについては人それぞれに、名作と言われる本をたくさん読むとか、武芸をたしなむとか、多くの自然に触れるとか、色々それらしきことを思いつくだろうが、はたしてそれが不可欠なものかどうかの断定は難しい。

次に、個々のエンターテインメントの奥深さについて考える。一例として映画を上げたが、すべての映画をエンターテインメントと定めるのは妥当ではない。「スターウォーズ」や「マトリックス」はエンターテインメントの代表的傑作であるが、「ディーパ」や「ピアノレッスン」は、これも共に名作ではあるが、これらをエンターテインメントと呼ぶのはふさわしくないだろう。

つまり、奥深さに大きな幅があるのである。小説も同様だが、例えて言えば流行小説と純文学と言われるものはやはり別物だろう。最近ではライトノベル(ex.アニメ感覚の読み物)というジャンルが現れ若者たちの間で流行しているが、これはエンターテインメントの意味を端的に説明していると思う。

さて、ここまできて少し自分なりの答えが見えてきたような気がする。人の理想像の一端を担うものとして、広い視野と深い洞察と豊かな感性が求められるであろう。これは世の有様やメカニズムをより正しく理解するためには欠くことができない。これらはどのようにして培われるのか。これはたぶん、リアルである現実に密接する表層部分と、人の心の奥深くにある深層部分との、生き生きとした還流によって形成され保たれるのではないだろうか。知覚された表層部の現象は、少しの時間を掛けて深層部で咀しゃくされなければならない。この還流はバランスを保って繰り返されることが好ましい。

テレビゲームは視覚に基づいて愉快や楽しさを提供するその属性として、表層部分に集中せざるを得ない。思考よりも感覚や本能にアプローチする。そしてそれはリアルである現実と、それを解釈する心との間に割って入りリアルとの接触を遮断する。表層部に展開するというこの特性故に、ゲームはしばしば疑似リアルと呼ばれるのであろう。この点については、エンターテインメントである映画や小説も近接する。

テレビゲームの麻薬的心地よさは、人を熱中させ長時間プレーヤを拘束する。そして麻薬的中毒性を持つ。人と外界との接点にあるべきものはクリエイトされた世界より、現実世界の割合が多い方が好ましいことは間違いないだろう。このバランスの問題において、エンターテインメントすべてを否定するものではない。人にとっての他の存在とは、人が必要としている対象である、と言い換えることができよう。

たまたまテレビで観たXBOXのCMには驚愕した。産まれ出た赤ん坊がビューンと空を飛んで行き、飛行しながら急速に成長して、最後には老人となり墓場の中に着地する。ここでキャッチコピー。「人生は短い。だから遊ぼう!」

関連記事:教育について 2010-12-31
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政治主導とは?

2011-01-04 00:07:38 | 思索
日本国の属性に限定して考えると、国家権力を有し、国民を支配する者は官僚である。政権交代時の民主党は、この官僚の権力を解体し、国民を主権者とすることを目指したが、官僚の成り振り構わぬ反撃に遭い、10ヶ月と持たず、前政権にも勝る官僚の傀儡政権へと変質した。

そもそも、一般国民は適度な暮らしと、適度な自由が得られていれば、政治などに関心はない。自分もまた、できれば政治のことなど考えたくもない。平均的暮らしをしつつ、政治に関心を持つ国民はよほどの物好きなのだ。

しかも、国民から吸い上げて得た官僚の収入が国民平均の10倍以上であると知ってもなお、多くの国民は不平を言わない。というより、やはり政治に関心がない。驚くべきことは、生活に困窮する者、明日の生活をも知れぬ者が、とりわけ政治に無関心であり、むしろ自らを卑下する傾向にあることだ。

これに対し、政治に非常に関心を持ち、中には積極的に政治に加わろうとする国民層がある。富裕層である。もちろん官僚もこれに含まれる。彼らは自らの富める暮らしや財を更に肥やすために、権力を増強し、平民や貧乏人から吸い上げる方法を考えることに余念がない。このような国民全体の意識構造に基づき、現在の官僚支配は、あるべくして在る。

小沢一郎が報われないのは、いくら官僚支配を解体して、国民主権を実現しようと努力しようとも、この国民全体の意識構造故に支持する者の絶対数が少な過ぎることだ。小沢一郎がもし神のような力を持つのであれば、政治に関心を持たない大多数の国民は、早晩、権力に対して怒りを持ち始めるだろう。さもなくば、小沢一郎の夢は夢に終わる。

「小沢一郎の夢」
私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意見を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。
(2010年9月 民主党代表選 投票前演説より)

小沢一郎街頭演説2010/9/4新宿駅西口
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