electric

思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

共時性

2007-12-30 12:02:28 | 思索
Diaryの方は、まだ2月分以前が読めていないのですが、「合鍵」に新しい記述がDiaryからピックアップされましたね。

心理学と密接な係わり合いを持つ大脳生理学に、AIさんが関心を持たない筈がないと思っていましたが、私が自分の視点をWordsに書き写す以前に、一見ほぼ同じような観点から既にAIさんが記述されていたということにとても驚きました。また少し以前にも私が言葉にした「麻○彰晃」「イラク戦争」をそのままの単語で、Diaryの過去の文章に見つけた時も驚きでした。あたかもChildhoodに記述されていた、ユングの『共時性』に誘導されているかのような不思議な感覚ですね。

「あまりオーバー:ワークにならないように、気をつけてください。」

ありがとうございます。私もこの言葉をそのままAIさんにお送りしましょう。無理は禁物ですぞ。ほんの少しの余力を残しておくことが、継続への助けになってくれるのだと思います。と言いながら、私はまた今日も会社で仕事なのですが。(笑)
でも、好きなこと楽しいことは、いくらやっても疲れるということは少ないですね。

「今、私は、自分のSiteを少しでも、ちゃんとしたものにしようと、自分なりに懸命で、ゆとりがあまりないんですが……。」

はい、それでいいのですよ。まずは自分が取り組んでいること、いま目的としてイメージしているワークに対して、自分なりの納得を得るところまで達することが何よりも優先されるべきですね。ほかの事はそれを越えてからでも決して遅くは無いと思いますよ。

たった一つの石ころでも、見方によればとても興味深いですね。この石を二つに割れば二つの石に分かれ、さらに割って、またさらに割ってと、どんどん繰り返していくと最後は何になるのか、という問いから分子、原子の存在を想定した少年時代の湯川秀樹の逸話は有名ですね。いわんや、人の語る言葉など、それがどんなものであれ、興味深く無いはずがありませんね。

AIさんが今のワークに一つの纏まりをつけられ、また新たな活動へと広げられていく日が、とても楽しみです。
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無常観

2007-12-27 21:25:35 | 思索
少し訳ありで今は窓際に座っていますが、実戦の感覚が薄れていくある種の恐れがあるものも、この席も慣れてくれば、何かと都合よくもありWeb巡りなどもできるわけです。

「これまで、恋愛体験で、苦労してきたとか??」

ぎっく~~~ぅ!!
さ、さすが鋭い!(笑)

恋愛はもちろんのこと、人と人との係わり合いは”何故”とも思えるほど苦労することが多いですね。これは誰も同じでしょう。特に私の場合は、神経症やうつ病を経ているので、一般よりもやや多くの苦労をしてきているかも知れません。その多くが取り越し苦労だったりするのですが、その渦中にあるときは、結構必死になっていますね。自己との戦いは今でも時々やりますけど、勝ち目が無いのが分かっていますので、かわすのが上手になったようです。

日記を読ませていただきました。このページの歴史を少し遡ることができて、ふむふむ、そうかなるほど、と面白く、納得しながら読んでいました。

感想を少し。まず「無常観(感)」。
これは日常、しょっちゅうではありませんが、フトした折に思うことがありますね。それこそ膨張する宇宙を想像する時や、子供の成長の早さに驚かされた時などに感じるかな?それとやはり「死」に直面したときですね。

それから、宮崎勤や酒鬼薔薇少年の異次元的空間から生まれたかのような事件。その奇妙さはもとより、それを一般社会の次元から捉えようとする奇妙さ。しかしまたそれを認識しつつ、対象の解明と再発防止に挑もうとする少数果敢な人々。色々と考えさせられました。

恐らく思想史に死に向かう概念は無いと思いますので彼らは思想家というよりも、見方によれば教祖たりえる人々なのかも知れませんね。
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トン・コープマン

2007-12-24 18:14:24 | 音楽・映画
トン・コープマンの「レクイエム」聴きましたよお。(^^)
いやはや、最初に聴いた時はニコラさんが言うようにすっ飛んでいってしまいましたが、2度3度と聴いているうちになんとか聴けるようになりました。

これは、言わば別物だね。一般的な「レクイエム」とは同じ土俵では比較できないな。

でも、これはこれで楽しむこともできると思うよ。その昔、寺内タケシというギター弾きが「レッツゴー運命」と題して、ベートーヴェンの「運命」をエレキギターで弾いたんだけど、とても楽しい演奏だった。これと同じだね。

トン・コープマンの「レクイエム」は、確かに声楽がとても綺麗だね。でも何となく人工的な美しさのようにも聞こえる。比べて、ベーム版を聴くと、声楽がいかにも肉声という感じでずっとリアリティがある。それとコープマンのはオケが伴奏に徹していてつまらないね。ベーム盤では声楽とオケが一緒に歌ってるんだよ。

まあ最初に言ったように、比べるべくも無いんだけど、あえて、例えば「怒りの日:ディエス・イレ」と「涙の日:ラクリモサ」をベーム盤と比べて聴いたら、月とスッポンであることがよく分かるよ。

でも、このコープマンも、僕にとっては新しく楽しい貴重な一枚だけどね。
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小さな一歩

2007-12-22 21:28:36 | 思索
「やっとのやっとで、バイトが出来るようになりました!」

ブラボー!素晴らしい。アームストロング船長の言葉のごとくに、”その小さな一歩は大きな飛躍”です。

でも、その一歩はあくまでも小さくいきましょう。一歩を大きく取り過ぎないことが、飛躍へのポイントになるでしょう。

いずれ消し去ることはできるとは言え、今現在は幾つかのハンディを背負っての歩みだしです。まだ本来の持てる力が十分出ないのは当然のことでしょう。だから、小さなものから大きなものまで色んな壁には出会うでしょうが、慌てずにゆっくりと登れば越えていけます。

何より、初給料が大きな元気をくれますね。(^^)そこまで行けば、もう手放しで自分を褒めてやりましょうね。そしてまた次の一歩が踏み出せます。

「中には、この人とは合わないなあと思う人もたくさんいますけどね^^;」

それは当然のことですね。僕の周りにもたくさんいます。気にすることはありません。極端に言えば、そういう人は自分の圏外に追いやってしまってもいいくらいですね。考えすぎることなく、今できる範囲のことをしっかりとやりましょうね。

相手の気持ちや心情が分かるというのは、同じ経験を持つ人でなければ難しいですね。というかほとんど不可能でしょう。マンジュウの味は食べた人にしか分からないように、ウツの苦しさがどれほどのものかが、分かるのは、やはりそれを体感した人ですね。だからそんな人との出会いは救われたような気持ちにしてくれますよね。少なくとも自分は一人ではないことが分かりますね。出合った友人も同じように感じてくれていると思いますよ。

-追伸-
急がずとも、最良のパートナーは見つかりますよ。(^^)
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赤毛のアン

2007-12-20 22:16:50 | 思索
さて、「赤毛のアン」ですが、ありがとうは僕のほうです。紹介していただいたおかげで、この本を読むことができました。一言で言って、おもしろい、またとても興味深いもので、ラストも感動的でした。レビューでも少し触れましたが、物語としての展開の技巧云々などについては、いろんな議論ができるでしょうが、これは大した問題ではありませんね。非常に魅力的な普遍的価値を持っていると思います。

このアンの世界が、「心の座標軸」の一つというのもとてもよく分かります。現代を広く大きく一つの病理と考えれば、対照的な世界をアボンリーの村は示していますね。それは人々の心だけではなく、虫や木や草や水や土に至るまで生き生きとした生命として見て取ることができます。

描かれる人は、極端に気が小さく終生自分に閉じこもりがちだったマシューや、強すぎる固定観念に拘束されていたマリラが、アンによって心の目をしだいに開き、はじめて愛情というものを知る、というように個々の心の病理としても読めないことはありませんが、「真の健康な心」という問に対し、現代との対照として「赤毛のアン」はかなり回答に接近しているものだと思います。

ポジティブ・シンキングは一つのワザに過ぎませんね。時折、便宜上それを使って苦境を回避することは悪くないとは思いますが、常にポジティブ・シンキングなどというのは、これも一つの病でしょう。

真に健康な心も、喜び、悲しみ、怒り、悩み、などの人の感情を正常に有しているはずですね。健康な心は、健康に悲しみ、健康に悩むのです。それを、アンは端的に示して見せてくれましたね。
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ゴールドベルク

2007-12-18 22:03:55 | 思索
人は誰しも、誰とかかわるにせよ、本当は深いかかわり合いを求めているものだと思います。ただ、実際にはそれはなかなか実現しないもので、合い呼び合う人とそうでない人とでは、深さに大きな差ができるでしょうし、Catさんが言うように、それを望まない、というより、怖れる人たちも少なくないですね。怖れる理由も、やはり、Catさんが言うとおりなのだと思います。別の言い方をすれば、どういう形にしろ起こり得る、別れが怖いのかも知れませんね。心を通わせる喜び、それが断ち切れる悲しみ、それが常に意識に共存しているのではないでしょうか。これも多かれ少なかれ、誰しも同じでしょう。例えば、Catさんも、私もね。

言葉は、それを発した人の意図を反映していますが、放たれた瞬間に独立し、あとは聞き手の解釈にゆだねることになりますね。そこに時として誤解が生まれ、それによるダメージを聞き手が受けてしまう場合が確かにありますね。それが、深いかかわり合いの中で生じたことなら、ダメージはなおさらのことでしょう。このことを例のお二人の方が理解されていて、心に幾らかの余裕をお持ちであれば、退会されることはなかったのでしょうね。Catさんの次の言葉を待たれたはずだと思います。自分に偽りの無い言葉が、相手にダメージを与えることを意図したものであるはずがないですものね。

Catさんが私を傷つける場合については、その逆の場合もまったく同じ分量である、と思います。また、Catさんにとって相手が私でない場合も、私にとって相手が、Catさんでない場合も、その分量は同じだけあるでしょう。これについては、全ての人同士はまったく対等であると、私は思っています。

少し風が穏やかになってきました。
今は、バレンポイムのピアノによるバッハ「ゴールドベルク変奏曲」を聴いています。

それではまた。
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煌くグレー

2007-12-15 11:46:13 | 思索
さきほど手元に届いた「クリムゾン・キングの宮殿」を聴きながら指先はKBに戯れ、ハートは液晶パネルの文字に触れています。

さっきまで、紹介くださった隷書体のBBSを探索し、かなり堀下がったのですが、とうとう根負けして帰ってきました。

さて。

モノ・コトを 知らない
  知らな過ぎる存在

これは、古くはソクラテスに始まり、全ての知識人が異口同音に言われるところのものですね。しかしこれもまた確かな真理だと思います。新しい一つのことを知れば、新しい知らないことが二つ現れ、更に知ればその2倍知らないことが現れるかのごとくで、知れば知るほど、知らないことを思い知らされてしまいますね。

もしかしたら、白を埋めていくのは黒ではなく、白と黒の境目に漂い散らばるものかも知れませんね。黒の記号にまとわりつき生命を持つかのようなもの。

叙事と叙情、形而下と形而上、その他諸々の両極からのアプローチも同一の到達点に限りなく近づいていくような気がしています。

例の「資料集〈手引篇〉」を少し説明いただいて、益々興味が煽られてしまいました。カミュ、ヘッセ、サルトル?マルクス?...。一体どんな授業に用いられた資料集なのでしょう。ともかくも人の世に密接するものとして緻密に充実した資料集なのでしょうね。

内なる秩序の構築は生涯ものですよね。時として起こるレボリューションはやはり怖いものでしょうが、その中に稀に見る心地よきものは、いつも大歓迎です。

さて、「クリムゾンキングの宮殿」が2回目の再生に入りました。CDを交換するとしましょう。
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感覚遮断

2007-12-12 16:31:00 | 思索
URLの紹介ありがとうございました。早速行ってきました。AZ宇宙にはこんな惑星もあったんですね。きっと何処かに道標があったのでしょうが、自力ではたどり着けずにいました。

どちらも含蓄に満ちた言葉の宝庫でした。その中で一つだけ切り取った一説は、稲垣佳世子の次のものでした。

 何も変化がない環境下に
 何もすることなしに長時間おかれることは
 苦痛でさえある

 カナダのマギル大学で行われた
 有名な感覚遮断の実験はそれを見事に示している

 高給を約束されていたにもかかわらず
 視覚的 聴覚的 触覚的情報を遮断された部屋で
 一日中何もしないでブラブラ過ごすことは
 非常に苦痛で、この実験に参加したほとんどの人は
 すぐにこの「アルバイト」をやめてしまったのである
 (Heron 1957)

これは、まったく僕の私的な思いによる感応で、3年間、窓際に放置され、いまなを窓際に座り続けている、わが身につまされるものがあった故のことでしょう。
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MOS-FETの構造

2007-12-07 21:19:04 | 電子回路
MOS-FETの構造は、まあ概ねこんな感じです。G(ゲート)はシリコン酸化皮膜で絶縁され、N型P型半導体に導通することはありません。ですからゲートから他の端子へは電流はまったく流れません。ただし酸化皮膜は非常に薄く作られているため、静電気等の高電圧がG-S間G-D間に加わると簡単に絶縁破壊を起こして壊れてしまいます。

ですから電子機器基板を導電性袋に入れたり、半導体デバイスを扱うときに帯電防止のリストバンドをするのはこのためです。もしトランジスタやJ-FETのみで構成されている半導体デバイス(オペアンプ、TTL等)であれば、静電気はまったく気にする必要はありません。
MOS-FETの名前の由来は、Metal(Gの材質)Oxide(酸化皮膜)Semiconductor(半導体)の頭文字を取ったものです。

さてMOS-FETはどのように動作するのでしょう。理屈は簡単です。
まず、G-S間の電圧が0V(G-Sショート)の場合はNPが逆バイアスになり、D-Sに電圧を印加しても電流は流れません。しかし右の図のようにG-S間にプラス電圧を加えれば、P型半導体の中の電子がゲートに吸寄せ集められ、ドレインのN型とソースのN型が導通し電流が流れるのです。J-FETの場合はVGSをマイナス電圧としましたが、MOS-FETの場合はVGSをプラス電圧としている点に注目してください。

関連記事:「FETの話①」2009-12-07
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この心地よさ

2007-12-06 21:47:29 | 思索
いま、真っ青な空に浮かぶ白い雲を見ながら、屋上でタバコを一本吸ってきました。ちなみに僕の愛用はマイルドセブンのスーパーライトです。

さて、kegani文書ですが、う~ん、やっぱり心地いい。詩も散文も、僕にはとても心地いいです。まるで、秋の穏やかな風に吹かれながら、タバコを吸うかのごとくです。

日記(詩)の心地よさは、クッキリと描き出され、シームレスに流れる風景の優しさ、だと思うのですが、投稿記事(散文)の心地よさは、そこに説明される「意味」にあります。その意味は僕が大切に握っている石の一つでもあるからです。

”誰もが握っているかけがえのない宝石”の解釈。

「お互いに個人の価値感を認めい尊重するべきであり、その上で一緒に何か創り上げていこうよ!」

正しく、これだ!と思うのです。それこそ永遠にも思えるようなパワーゲームの継続を、極々僅かな可能性ではあっても、もし止めることができるのなら、それはこの理念以外の他には無いのではないかと思います。

パワーゲームについては、確かに僕は少し舌足らずでしたね。世の中の誰もが好き好んでパワーゲームをやっている筈はありませんね。しかし世のシステムとしてパワーゲームが構成されていて、望むと望まざるに関わらず、我々はその上に乗っている。そこから降りることもできるけど、みんなが降りてしまえば、一体どういうことになるのか。決して好ましい結果には至らないでしょう。そして、パワーゲームの目指す方向は、陽炎のように揺らいで見えるゲームの終了であるはずです。

結果として、
「まず 行ける所まで行かなきゃ 話にならない。行ってから 考えよ。」
ということになるのではないかと思っています。
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分岐点

2007-12-04 22:22:42 | 思索
「人生とこの世界は、意味があるようでいて、意味が無い。意味が無いようでいて、実は意味がある……。どうして神様は、こんな風に、ややこしく、この世界を創ったのだ?」

そう、核心部分だね。いま先端部の分岐点を眺めてるんだと思うよ。ここから先は、恐らく道は二つに分かれているんだろうね。何食わぬ顔をして右へ左へと流れていく人の背中を、呆然と見送りながら、真理に謙虚な人はこの分岐点に佇んでいるしかない。
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愛する者は常に敗者(マン)

2007-12-02 22:05:11 | 思索
「もてる女と。。。もてあそばれる女。。。同じ”もて”がついているけど、大違い。似て非なるもの……。」

トーマス・マン流に行くと、
”最も多く愛するものは、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ。”

ってことらしいけど、これに沿うと、「もてる女」は勝者であり、その相方の男は敗者、「もてあそばれる女」は敗者であり、その相方の男は勝者となるのかな?と同時に「もてる男」と「もてあそばれる男」が並ぶわけだね。うん?「もてあそばれる男」は少し絵にならないか。「からかわれる男」かな?

「だからこそ、自己愛が不足している人間と、つきあうのは、ある意味、むずかしいんだよ。」

ふむふむ。これと、

「だって、多かれ少なかれ、すべての女はナルシストであり、むしろナルシストであるということが、心理学的な意味での、「女」の定義なんだから……。この自己愛が、無いと女はやっていけないんだ。」

この部分が対立して相関しそうだね。対立して同時に同地点に在るもの。で、僕は何が言いたいのだろう?よく分からん。(笑)

良好な恋愛関係において、互いの自己愛も十分だろう、というのは、うむ、同感ですね。
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