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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

純粋な目

2008-03-29 23:55:06 | 思索
「物ごとを明確に考えるために、言葉から離れなければならないことがよくある。」言葉をつかった推論は精神ヒエラルキーのきわめて高いレベルとかかわっているが、まかりまちがえば堅いペダンティックなものになり、それがリアリティと推論者のあいだに壁をうちたてる。創造性はしばしば言語が姿を消したところに-つまり前言語的、前理性的な精神活動のレベルまで退行することによって-生まれてくる。その精神活動の状態はある点で夢にたとえることもできるだろうが、おそらく睡眠と完全な覚醒との間にある一時的な状態の方がそれに近いだろう。

そして精神は、堅苦しい、あまりにも厳密な図式的論理から、あるいは生来の偏見から、一時的に解放される。さらにまた、精神は知識を捨て、かわりに新しい純粋な目と柔軟な思考を獲得し、それによって隠れたる類似を発見したり、いつもならとても受け入れるはずもない無謀な思考の組み合わせを考え出したりする。偉大な科学者の伝記にはこうした話はいくらでもある。かれらは異口同音に自然発生的な直感や未知の力を強調するが、それは、芸術だけでなく精密科学においても、創造的なプロセスにはつねに多くの不合理が深くかかわっていることを示唆している。
「ホロン革命」
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LC共振シミュレーション

2008-03-27 00:43:03 | 電子回路
式③を用いて、LC共振の電流を求めてみよう。
V=1500V、L=50μH、C=29μFとする。
図にシミュレーションによる共振波形を示す。

sinθ の最大値は =1であるから、式③を変形し、
(i=V/L)(1/ω) または i=V/ωL

つまり、定電圧に対する電流値 (i=V/L)tのtに、
時定数1/ω=√(LC)を代入することにより求められる。

ω=1/√(50e-6×29e-6)=26.26e3であるから、
i=1500/(26.26e3×50e-6)=1142.4(A)

最大電流値1142.4(A)はシミュレーション結果とよく合っている。

関連記事:LCR回路の過渡特性 2009-05-11
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時定数における電流値(T=CR)

2008-03-27 00:37:17 | 電子回路
式②を用いて、CR回路の過渡電流を求めてみよう。
V=10V、C=1μF、R=200kΩとして、時定数T=CR(200mSec)における電流値を計算する。

 各パラメータを、式②に代入し、
 i=(10/200e3)×e^-(1/200e-3)200e-3
 i=18.4μ(A)

Cの端子電圧VCは、
VC=10-200e3×18.4e-6
VC=6.32(V)となり、電源電圧の63.2%に合致している。

関連記事:
2009/05/25「時定数後は63%」
2009/05/25「時定数の別解」
2009/05/11「LCR回路の過渡特性」
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レスポンス

2008-03-25 21:37:05 | 思索
こんばんは、ホロンです。

”Words”の僕の拙い記述にコメントくださってありがとう。このページをアップして以来、何人もの人と言葉を交わしてきましたが、このような形で直接コメントをいただいたのは、ほぼ初めてで嬉しいです。また率直に語ってくださったこともとても嬉しいですね。

さて、対論や合論などは必ずしも必要ではないのではないでしょうか。ある論議に対する対論は議論に否定や修正を加えながら一致点を目指すものだと思うのですが、価値観や世界観が人の数だけ合ってそれぞれに異なるように、全てを一致させようとすること自体に無理があるように思います。「人は何故生きるか」などは、それこそ模範的回答が幾つもあるわけですよね。

以前、ある方と少し哲学的なやりとりをしたのですが、その方曰く、「必ずしも合意など得られる必要は無いのではないか、異なる観点からの考え方を、自分の世界の構築の参考にすればよい。」と仰ってられましたが、これは僕も全面的に賛成しています。ただ誤解はできるだけ避けた方がいいでしょうから、確認は十分やってある観点からの議論に対する正しい理解はしたいですね。

「倫理判断の正当性と強制力」ですが、これは法学になるのでしょうか、それともやはり哲学かな?別の言葉で、「善悪の判断と悪に対する罪と罰」と表現しても大きなズレは無いでしょうか?これらはとても難しい問題ですね。絶対的な回答を人が得ることはこの先も永久に無いのではないかとさえ思えます。例えば社会形態や生活風習の違いで、同一の事柄も善と悪が正反対に入れ替わったりしますものね。
僕としては、判断基準は常に自分の中に持ち、それを信じてよい、と常々思っています。
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生きる意味

2008-03-07 21:39:17 | 思索
ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばりぬく意味も失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。「生きていることにもうなんの期待ももてない」こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。

ここで必要なのは、生きる意味への問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。(P129)

強制収容所にいるわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。(P131)「夜と霧」
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定電圧電源はオペアンプ

2008-03-07 21:29:44 | 電子回路
実は私たちは今までに、そうとは意識することなく何度もオペアンプの内部回路に触れてきているのです。それが定電圧電源です。回路を再度確認してみましょう。

図は、もうすっかり見慣れた定電圧電源回路ですが、これは構造も動作もオペアンプそのものといえます。構造としては、左のC1815のベースが+入力端、右のC1815のベースが-入力端、VOUTが出力です。そしてR1、R2がフィードバック抵抗で、+入力端に信号電圧を入力した時のゲインは1+R2/R1となります。いま+入力端に5.1Vが入力されていますので、もしR1=R2であれば出力は10.5Vとなります。これはオペアンプでいうところの非反転増幅回路ですね。では次に+入力端の入力電圧を変化させてみましょう。

下図のように+入力端の電圧を振れば、VOUTは計算通りのゲイン倍(1+R2/R1)の振幅を出力します。つまり、定電圧電源回路は片電源のオペアンプと等価といえます。

関連記事:
定電圧電源を作ろう①ツェナ 2009-12-14
オペアンプとは何か? 2007-09-02
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愛と青春

2008-03-01 18:08:49 | 音楽・映画
ピアノ・レッスン
監督 ジェーン・カンピオン

私の中では「セックスと嘘とビデオテープ」に次ぐ、或いは双璧のラブストーリー。もちろん両者は全く異なるものであるが、映像と音楽の美しさは「ピアノレッスン」をひときわ引立たせている。主人公のエイダは農夫の夫と見合結婚のためにニュージーランド南端の島にやって来る。エイダは、顔にマオリ族の入れ墨をした無愛想な隣人ベインズにピアノを教えることになり、ここから物語りは展開する。一見奇妙な状況の中で、エイダがベインズに心を奪われていく様子、ベインズのエイダに対する愛情の深さなどに素直に納得させられるリアリティがある。描写のみならず内容を包括して、息を呑むほどの美しい映画。


ブラザー・サン シスター・ムーン
監督 フランコ・ゼフィレッリ

フランチェスコは裕福な商人の息子で、頭のいい快活な青年。そのフランチェスコが友人と共に十字軍として遠征し、戦闘半ばにして夢遊病者のように町に戻り帰る。意識を回復したフランチェスコはもはや別人となっていた。否もはや人ではなかった。魂を失ってしまっていたのである。心に強い印象として残るシーンと言葉の数々。物悲しい音楽と薄暗い映像で始まるが、見始めるとラストまでの時間を感じさせない。映像と音楽もしだいに明るく清らかな美しさを見せ始める。終了の後もまだまだもっとずっと見ていたいと思わせる第一級品の映画。またドノバンの音楽を抜きにしてもこの映画は語れないだろう。
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