electric

思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

技能と品質

2010-11-07 01:28:36 | 安全・品質
ある機器に求められる必要な品質とは、設計時に定められた性能をすべて満足し、動作保証期間において所定の性能を下回らないと判定できることである。

必要な品質は、機器が正しく組み立てられることによって実現する。よって「正しく組み立てられる」ということを、何らかの方法によって保証できれば、機器の品質を保証することに等しい。

では、どのような方法を用いれば、正しく組み立てられることを保証できるだろう。実は、これは理屈としてはさほど難しいことではない。組み立て手順の通りに、また組み立てルールの通りに組み立てればよいのである。もちろん「組み立て手順」「組み立てルール」に一切の抜かりがあってはならない。

一般的には、組み立て手順はマニュアル等の図書によって示され、組み立てルールはマニュアルの中に記述される。組み立てルールは、寸法公差やアライメント誤差など、機器の性能に関係するポイントをすべて指示するものであり、また必要な中間試験等もこれに含まれる。

しかし、いかに秀逸なマニュアルであったとしても、手順の中に、作業のコツや勘所などを含めたすべての工程を示すことはできない。(マニュアルが如何にシンプルであるかということは重要な問題であり、マニュアルの品質を決める)

これから機器を組み立てるベテランの作業者と、まだ新米の作業者を考えてみよう。ベテランはマニュアルの中身はもちろん、作業のコツなども含めてすべて知り尽くしている。新米の方は、まだ時折マニュアルを参照しつつ作業ができるという程度。さて、この二人が各々組立てる機器に品質の差が生じるかどうか。

答えは「品質に差異は生じない」である。なぜなら、両者共に正しく組立てられることを保証する「組み立て手順」「組み立てルール」の通りに作業を行ったからである。ではすべてに差がないのかといえば、そんなはずもない。両者の作業時間、つまり組立てコストには圧倒的な差が生じる。ベテランの知識としての作業のコツや要領は時間の短縮に作用するのである。

ということで、技能レベルは品質に相関するものではなく、コストに相関するファクタとして捉えなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【もぐら叩き】による品質の向上と事故低減

2010-07-02 22:43:53 | 安全・品質
品質および安全性向上のための方法として「モグラ叩きゲーム」を考えてみるのも一興である。

この時、穴から顔を出すモグラが品質不良であり怪我等の事故である。
また、モグラおよびモグラが顔を出す穴をハンマーで叩けば、モグラは出てこれないものとする。

プレーヤがまず最初にやることは、モグラが出てきそうな穴を見当を付けて、あらかじめ叩いておくことである。工場における実際の作業工程においては、不具合の発生しやすい箇所、事故が起こりやすい箇所はある程度想定することができるので、それに対しては事前に手を打つのは当然であろう。この時の手法としてリスクアセスメントなる方法を用いてもいっこうにかまわない。

さて、ゲームスタート。
あらかじめ塞いでおいた穴以外の穴から。モグラがぴょこぴょこと顔を出す。ここで、このゲームの本質を知らない人は、事前に塞いだ穴意外のところからモグラが顔を出すとは何たる不手際かと思うだろう。しかしこれは当然のことが起こっているに過ぎない。品質不良や事故は必ず想定外の所に発生するものなのだ。

そもそも、どのような作業工程であれ、そこに潜む不具合や事故のすべてを想定することは不可能である。未然に防止できたとしても、せいぜい1割程度であろう。なぜならば、根拠に基づいて想定することが極めて難しいからだ。

さて、このゲームの本質を知っているプレーヤは落ち着いたものである。まず最初に顔を出したモグラを確実に叩く。これによって、このモグラが出ることは2度とない。また、この最初に出たモグラの性質から、その他のモグラが出てきそうな穴を根拠を持って想定できるので、あらかじめその穴を叩いて潰してしまう。これはかなり確度の高い予防保全となる。

しばらくすると、また別の穴からモグラが顔を出す。これも確実に叩き潰す。あとはこれの繰返し。結果としてすべてのモグラは沈黙してしまう。これがもっとも最短時間、低コストで最大の効果を上げる品質保証、安全保障の方法である。

品質の国際基準であるISO9000がこの“再発防止”という手法が最も確実性が高いものと規定していること、また全世界の工場がやはりこの方法を持って品質保証、安全保障を行っているという事実が、方法としての妥当性を示していると言えるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変革と「再生」

2009-12-14 18:41:21 | 安全・品質
旧来より脈々と続く文化と風土。自らもその中で育ち、その文化風土が存在基盤であったにもかかわらず、現社長は「間違いであった」、社会的存在意識としてはもはや「非常識」と明確に認め、「再生」の決意を広く内外に言い切った。その勇気、潔さは見事としかいいようがない。

私もこの先そう長くここに居るわけではないが、現社長の思いや具体的活動に対して、個人としてできる最大限の協力をしたいと思う。

個人ができることは、基本的には非常にシンプルかつ簡単である。現在を含め今までを「間違い」とし、これを払拭し「再生」する、つまり現社長と同じ決意と意志を持てばいいのだ。社員および従業員全員が、タイミングを合わせてこう思えば、「再生」は一瞬にして達成される。

しかしこれは、実際にはあり得ない。誰がそう簡単に自己否定などできよう。ほんの些細なことでも、長く信じていたものが覆ればただならぬ不安に襲われる。それが今回は根幹部についての自己否定を求められるのだ。ここはまだ多くの信者が全体を占めている。信仰とは理由無く信じることだから、教祖が急に「間違っていた」と身を翻したところで、強烈なショックは受けても、そう安々と信仰を捨てることはできるものではない。

だから世代交代も想定して、本当に「再生」が実現するのは20~30年を要するだろう。その「再生」への道のりにおいて、現社長の理念がしっかりと継承されていくことを祈りたい。

関連記事:「グラスノスチ」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グラスノスチ

2009-12-10 22:31:25 | 安全・品質
【2chから検索ワードをたどってきた方々への補足】

旧ソ連のゴルバチョフがやった「グラスノスチ」という情報公開政策をご存知ですか?
情報公開とは「物事を秘密にせず公に開示する」「国などの公の機関が業務上の情報を一般に開示する」ということです。

以下に、グラスノスチについての 『ウィキペディア(Wikipedia)』の記述を貼り付けます。

1986年4月に起こったチェルノブイリ原発事故をきっかけに、種々の社会問題を解決するために言論・思想・集会・出版・報道などの自由化・民主化が行われた。1986年末までには一部のテレビ・新聞がソ連社会の問題点を率直に批判するようになった。

1987年頃より、ブレジネフ時代に上映を禁止されていた映画が次々と公開された。党の統制下に置かれない市民団体の結成などもみられた。歴史学においてもネップ(新経済政策)の再評価、1930年代の大飢饉の考察など、それまでタブー視されていたテーマが扱われ始めた。

それまで西側にとって秘密のヴェールにつつまれていた軍事面の情報も徐々に公にされるようになり、1988年にはイギリスの国際航空ショーに出展、更に翌年にはSu-27、Su-25、Mi-28など最新鋭の軍用機がパリ航空ショーに出品披露されるなど、積極的な公開が進んだ。

(以上)

そして、結果として世界は(破滅に至る)冷戦の危機から開放されるに至ったのです。そしてもはや完全に機能麻痺に陥っていたソ連は、その主要部がロシアとして蘇えりました。ベルリンの壁もなくなりドイツも一つになりましたね。

まあ、ここまで大げさな話しではないにしても、例えば企業の公開掲示板なども基本は同じだと思います。ある程度、規模が大きくなった組織というものは、可能な限り最大限の情報公開をしなければ、いずれ死ぬのです。公開される情報の中には組織にとって耳の痛い話しも、まったく事実に反するものも当然あるでしょう。しかしそれ故に客観性が保たれ、多くの情報の中から物事を正確に判断することが可能になります。組織が有機的な自己修正作用を活性化させて、健全な状態を継続していくためには、情報公開は不可欠なのです。

変革と「再生」2009-12-11
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人はなぜ働くのか

2009-12-03 21:11:12 | 安全・品質
人はなぜ働くのか。仕事の原動力とは何か。この問いに対する最も分かりやすい回答は「金のため」である。これの説得力は絶大であり、誰もが否応なく納得させられる。換算できる価値はすべて金と置き換わるからだ。金は価値を具体化したものだから、労働が価値を生みだせば、理屈としてその価値に相当する金という実体に置き換わる。

しかしながら、人は物質的満足と精神的満足の二者を求める生き物で、これが人の人たる所以でもある。多くの場合、前者が後者に関連してはいるが、まったく換金不可能な精神的満足も少なからずある。人特有の精神的要求の中でも、実は本題である「働くこと」こそが、この精神的満足をもたらす大項目の一つなのである。よって、仕事は物質的満足と精神満足の両者を満たし得る「大変美味しいもの」と言える。

しかしながら広く世を眺め見ると、仕事の原動力は金のみだと明言する人も少なくない。これはたぶん、その場に留まらざるを得ない「諦め」を表しているのだろう。だから、そんな人達には決まって寂しさが付きまとっている、あるいは人らしい生気が消滅しているかのように感じられる。

「人はなぜ仕事をするのか?」この問いに改めて答えるならば、「仕事がおもしろいからだ」というのが最も端的かつ的確であろう。「人は仕事をしたいからだ」でもいい。もちろん現存するすべての仕事がおもしろいとは言わない。つまらない仕事に従事せざるを得ない人達は「労働は金のため」と即答するだろう。

しかしやはり、そもそも仕事はおもしろいのだ。そのおもしろさといったらテレビゲームなどの比ではない。構想した目的に対し汗水を流し、苦悩し、努力の果てに目的に到達したときの満足感は筆舌に尽くし難いものがある。仕事はリセットの効かない真剣勝負のゲームだからだ。

おもしろいから仕事をする。成された仕事はおのずと価値を生む。価値はそのまま金に置き換わる。結果として人生を生きることができる。これが人と世の中の基本的メカニズムなのだと思う。しかるに、この基本メカニズムが通常機能していない「仕事場」も確かにある。そのような場では、仕事の原動力は「金のみ」だと明言する人も多い。すべてがルーチンワーク化されている仕事に、基本的なおもしろさが存在し得る可能性が少ないのは、致し方ないと言わざるを得ない。

願わくばこの先のいつの日にか、そのような「場」にも本物志向と創造的力学が働くような構造変化が生まれ、仕事に従事する人たちに本当のおもしろさを存分に味わって欲しいものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サブルーチンも間違える

2009-10-08 15:01:32 | 安全・品質
(09/09/26付記事「人は何故ミスをするのか」を参照してください)

冷たい缶コーヒーが飲みたかったのに、自販機のボタンを押して出てきたスチール缶を握った瞬間にショックを受けたり、家を出る前にいつも通り持つべきものを用意したはずなのに、電車に乗ってからケータイを忘れたことに気づいて家に取りに戻ったり、というようなことは多くの方が何度か経験しているのではないでしょうか。また、疲れていたり風邪で熱があるような場合、いつも普通にやったり考えたりしていることが面倒になり、無理にやろうとして何度も間違えるようなことも、よくあることでしょう。それから私事で恐縮ですが、車を運転していて交差点を通過してから信号が赤だったことに気づいたことが、実は過去2回あります。

これらはサブルーチンの対象パターンが変わったわけではなく、サブルーチンの中で発生するミスであり、これが一般的によく言われる典型的な「ミス」の一つでしょう。この理由としてサブルーチンの錯覚や疲労が考えられますが、一般化すると、サブルーチンの情報処理能力は時々の状況や感情に左右されるということです。機能低下により情報が正しく処理されなければ、ミスが発生するのは当然ですね。

しかし、人が「サブルーチンのジレンマ」から逃れられないように、サブルーチンも自らの問題をかかえています。サブルーチンを簡単に言うと「慣れ」であり、慣れの側面は「慢性化」です。つまり「サブルーチン⇔慢性化」と書けるわけです。ミスはサブルーチンが慢性化することにより、サブルーチンを構成しているブロックピースのいくつかが欠落して起こるのでしょう。認識の瞬間、あるいは認識から動作に至る過程において、必要な情報の一部を失えば動作はおのずと不正確なものになります。
 
具体的現象を眺めてみましょう。私も外出時にケータイをよく持忘れ、たびたび不自由な思いをしました。また現在進行形です。そこで対策として、玄関ドアの内側に大きく「ケータイ忘れるな」という文字を書いた紙を貼付けてみました。結果として、この張紙は多大な効果を発揮してくれました。出がけに目に映る風景が毎日見慣れたものと異なっているため一瞬立ち止まるのです。しかしながら、この効果も長くは続かず、ほどなくドアの貼紙は出がけの見慣れた風景と化してしまったのです。そこで次に紙の色を変えて貼り替えてみると、効果が復活し、やがてまた見慣れた風景に埋もれました。

このことはサブルーチンの慢性化とその要点を教えてくれています。サブルーチンの中のショートカットされやすい(忘れてしまいがちな)工程に「一瞬立ち止まらせる気づき」を促す何かを設けることが有効な対策の一つであること。しかしこれは、時間とともに効果が薄れていくということですね。

これに似たことが、クレヨンしんちゃんの「みさえ」と「ひろし」の会話にもあります。
(^^)
朝、出勤の準備をすませて家を出ようとする、ひろしに、みさえが声をかけます。「忘れものは?」「ない!」。これは、みさえの声が、ひろしを一瞬立ち止まらせる効果があった頃には有効だったでしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は何故ミスをするのか

2009-09-26 05:16:08 | 安全・品質
標題の問いに対して、「人の定義は“間違える”ということだ」という普遍的「解」があります。つまり「人」の概念から「間違える」という要素を取り除いたとき、もはやそれを人と見なすことはできなくなるのです。一般的に、これに異論を唱える人はいないでしょう。

(しかるに今なお、夢想を追うかのように「ミスをゼロにしよう」「ミスはゼロにできる」と本気で考え、それに労力を費やそうとする、あるいは費やしている人、集団が存在します。これは彼らの信念と考えられますが、つじつまの合わない信念はもはや妄想あるいは信仰ですから、訂正は不可能です。よって不可能なことはほどほどにして、ただ一言「人がミスをすることは問題ではない。事故を起こさないことが問題だ」とだけ言っておきましょう。)

さて、人が人である故のミスですが、それにしてもこれは何故なのでしょう?ここからは、人が「必ずミスをする」メカニズムについて考えてみます。

まず、09/06/10付の記事「練習しよう」を転記します。

「練習というのは非常に大きな意味があります。脳の中にはCPUに相当するプロッセッシングユニットがありますが、すべての思考をCPUがやってるわけではありません。CPUの周囲には、論理ブロック、計算ブロック、運動ブロックなど、非常に多くのサブルーチンが存在します。ある計算をするとき、CPUは必要な計算ブロックを呼び出すだけなので、非常に速く回答が得られるのです。だから何度も経験したことのある計算(思考)および運動はスムーズに運ぶわけです。10年以上の自動車運転歴をお持ちの皆様、一度”運転サブルーチン”を呼び出さずにCPUを使って運転してみてください。とてもギクシャクすると思いますよ。”自意識過剰のムカデの苦悩”もこれと同じ話です。練習する、あるいは稽古するという行為は、頭の中に必要なサブルーチンを作るということなのですね。」

この記事は人が何故ミスをするかについて逆説的に説明しています。つまり私たちが普段スムーズに物を考え行動しているのは、サブルーチンをコールするだけで済むからですが、このメカニズムにこそ人がミスをする根源が裏腹のように存在するのです。

かなり昔の話ですが、旅行でグァムに行った折にレンタカーを借りて各所を回りましたが、当地はアメリカなので自動車は右側通行です。走り始めは何度となく左側を走ってしまい怖い目にあいました。何故このようなことが起こったのでしょう。つまり私の「車を運転する」サブルーチンには左側通行が書かれていたわけです。これも1日目、2日目、3日目と次第に間違えることは少なくなりました。つまり役に立たないサブルーチンの1部を削除して新しいサブルーチンを作ったということですね。

また、数学であれ何であれ、ある問題が解けるということは多くの場合、以前にその問題を解いたことがあるということです。しかし問題に少し仕掛けを入れられると、簡単に引っ掛かって間違えてしまう。もっと端的な例は、トリックやマジックに人は驚き、あたかもそれが事実であるかのように錯覚しますね。(余談ですが、3~4才くらいの幼児がマジックを見ても、さほど驚かないというのは面白いと思いませんか?)

これらのことを要約すると、慣れている行動や思考パターンの対象が一部変化するとミスが容易に発生するということです。サブルーチンは基本的に無意識に行われます。パターンの変化に対しては意識(頭の中枢部)が対応しようとしますが、無意識は意識よりも遥かに強力ですから変化に十分対応することはできません。また逆にここで意識を過剰にし過ぎるとサブルーチンそのものを止めてしまうことになります。つまり動けなくなるということですね。

人は慣れや練習を重ねてサブルーチンを作らなければ、まったく行動し思考することができません。だからサブルーチンを作ることが人本来の営みと言えます。しかしそのサブルーチンによってミスを招くという宿命にあるのです。人はこのジレンマからは逃れることはできません。(本質的には、このサブルーチンが既成概念です)

以上が人が必ずミスをするメカニズムの一つの理論です。次回は、パターン変化が無いにも関わらず、サブルーチンの中で発生するミスについて考えてみたいと思います。

*「自意識過剰のムカデの苦悩」は、正確にはどういう順番で足を動かしてるのか?と聞かれて、ムカデはまったく動けなくなったというお話です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知識と意識

2008-10-07 23:53:52 | 安全・品質
タクシーやバスなど、プロのドライバーは一般ドライバーに比べて事故に遭遇する確率が低いことは統計より明らかです。また、ベテランの作業者が新米に比べて品質不良を起こしにくいことも言えるでしょう。では、この差異は何によって生まれるのか?一般ドライバーよりもプロのドライバーの方が、安全意識が高く、新米よりもベテランの方が、品質意識が高いからでしょうか。これはまったく違います。

プロやベテランの意識も、新米の意識も同じように高い。誰もが自分の胸に聞いてみれば、これはすぐに分かることです。では、ベテランと新米の差異の源は何なのでしょう。少し考えれば、唯一、かつ明確な答えにたどり着きます。安全や品質に対する知識の量がベテランと新米では全然違うのです。

遠い昔、私が運転教習所に通っていた頃、ようやく仮免許を取って一般道路に出た折に、駐車車両の横を通過する際、駐車車両のシャーシと道路との隙間の向こうに人の足が見えるかどうかを確認しておくのだと教官に教示され、なるほどと思ったものです。

危険予知能力や不良予知能力は知識に比例して増加します。一方、意識はいくら気張ってもこの能力向上に大きなプラスにはなり得ません。それは長年の(自らの)歴史、多くの事例が証明しています。よって、安全性向上や品質向上のためには、先輩から後輩への知識の継承が極めて重要になります。意識という言葉は紛らわしく錯覚にも陥りやすいので、この際捨ててしまってもよいでしょう。(錯覚というのは、意識喚起を行ったのだから安全性や品質は十分向上するだろう、という錯覚です。)

技術継承の必要性が謳われる昨今、リスク回避能力も最も重要な基本技術の一つですから、安全知識や品質知識も最優先項目として技術継承していきたいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作業安全技術

2008-08-29 22:14:31 | 安全・品質
工事や作業一般において、最も留意しなければならないことは、まず第一に安全の確保、次に品質の確保の2点であり、これに付け加えるなら作業効率の向上と言えるでしょう。よって作業安全技術者に求められるものは、計画されている工事の「対象物」「場所」「作業内容」「作業方法」等、全体を見渡して、どのような場所に、或いはどのような行為に危険要因が潜んでいるかを想定する能力と、それらを回避する手法を構想する能力であると言えます。

品質確保の場合は「危険要因」を「作業ミス要因」と置き換えれば、上の文章がそのまま当てはまります。多種多様な工事全般に対応できるこれら能力が個人に培われるのは長年の経験による安全知識(安全意識ではない)、品質知識(品質意識ではない)に基づくものに他なりません。「知識と意識」でも述べていますが、もしベテランの作業者よりも新米の方が事故に遭遇しやすく、同様にベテランの作業者よりも新米の方が作業ミスを起こしやすいとするなら、それは経験量に比例する安全知識の差、品質知識の差、故であるということになります。(意識はベテラン、新米共に高い。)

逆説的には、作業安全技術者である個人は、豊富な安全知識、品質知識を有しているということですから、ある特定の工事において、それを担当する作業者全員に対し、この工事の何処にどれだけの危険要因があるか、何処に作業ミスを起こしやすい箇所があるかを十分に伝え、それが全員に確実に伝わったかどうかの確認を行うことが必須となります。また、その前段に欠かせないこととして、工事開始から終了までの一連の流れは一つのシステムと見ることもできますので、優れたシステム設計をしなければなりません。

作業方法や、作業の並びはシステムの一部となります。このシステムは、安全の確保、品質の確保、作業効率等に密接に関与しますので工事の成否に関わる重要な問題です。例えば、数百分の一の確率でミスが発生すると仮定するなら、そのミスをスルーさせてしまわない関所(フェイルセーフ)を設けることなどは、システムの最重要項目の一つです。

蛇足ではありますが、工事の成功とは、「事故なく」「品質不良なく」工期以内に工事を完結することであることは言うまでもありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目的と対策

2008-01-28 21:30:21 | 安全・品質
対策が目的に対して有効でなければならないことは言うまでもない。では有効な対策とはどのようなものか。1つの有名な事例を紹介しよう。とある空港の男子トイレで、便器付近の床が汚れてしかたがないので、清掃担当者は便器の上、ちょうど使用者の目の高さ辺りに、「もう一歩踏み込んでください」というメッセージを掲示した。しかし、その後もいっこうに床の汚れは改善しない。そこで頭を捻った清掃担当者は、ある妙案を思いつき早速実施してみた。便器内側の一番下より少し上の場所に蝿(ハエ)のシールを貼り付けたのである。するとどうだろう、なんと床の汚れは激減したのである。

ここで清掃担当者が打った対策は2つである。一つは「注意喚起の掲示」、そしてもう一つは「蝿のシールの貼り付け」であり、前者は目的に対してほとんど効果がなく、後者は抜群の効果を見せたということである。このことは、便器に貼った小さなシールこそが“対策”であり、注意喚起の掲示はほとんど“対策ではない”ということを明示している。では、この両者にどのような違いがあるのだろう。明確に異なる点は、言葉による注意喚起は人の意識に働きかけており、蝿のシールの貼り付けは人の無意識に働きかけているということである。よって一般論として、人の意識に直接働きかける対策よりも、人の無意識に働きかける対策の方がはるかに有効であるといえる。

そもそも、人の「意識」が失敗や間違いの源なのである。新しい発想や創造、また改善や改革をもたらすのは意識の力に他ならないが、それらを必要としないルーチンワークにおいては、意識は無意識にまったく勝つことができない。無意識とは例えば、意識がまったく介在し得ない、ロボット生産による無人工場を想像すればよい。機械の故障等がないものと仮定すると、無人工場から出荷される製品に不具合が存在する確率は理屈上ゼロである。これに対し、作業者がロボットではなく人である場合、不具合がポンポコポンポコ発生する。つまり意識が作業を担うからである。ならば我々工場で働く者が不具合の発生を最低限に抑えるためにはどうすればいいのか。答えは既に出ているが、要するに、意識を限りなく排除するということに他ならない。不具合の低減という「目的」に対する最善の概念的「対策」は如何に意識を排除するかである。

この有効な対策として現在既に実施されている端的な具体例が、チェックシートとの照合による作業である。もちろん、チェックシートは簡潔な手順書の機能も兼ね備え、必要項目の欠落が無く、かつ冗長すぎない秀逸なものでなければならない。このチェックシートに基づく作業により、ベテランがやっても新人がやってもパートのおばちゃんがやっても、時間の差はあれ、品質には差の無い製品を生み出すことが可能となる。チェックシートの指示に従うことにより作業が機械的なものとなり、意識の介在を極めて小さくできるからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬季評価

2007-11-09 20:56:46 | 安全・品質
桜井美紀(21) 主任

優秀である。
現状における自身の問題点の特定と問題解決のアプローチ、のみならず、課という集団における問題点の特定と問題解決のアプローチ、共に的確であり行動も俊敏である。物事を非常に合理的、客観的、また冷静に捉える特質を持つ。それ故、文頭の思考・行動形態に繋がるものと思われる。かといって冷徹ではなく、他の若手社員との交流やコミュニケーションも和やかかつ円滑である。これほどの基本能力を備えた人物を見たのは個人的には極めて希であり、組織においては、プラス側に存在すれば疑いも無く強力な戦力になる逸材である。また集団業務においては相手の上位下位を問わず、リードし指導、指示(上位者に対しては暗に)する能力に長けている。これについては相手が上位者で管理センス、集団機能センスの乏しい者であれば、衝突のトラブルを引き起こす可能性もある。しかし、この難問に対しても現状把握能力の高さから、巧みに回避し短期現象にとどめる力を持つ。とりわけ下位の者に対する指導、教育の上手さは特筆すべきものがあり、既に教育成果も表れてきている。更にそのように教育することが自らのレベル向上に大きく繋がることを知っており、桜井の教育行為はそのことも目的としている。根底にあるのは、物事の何に価値があり何が無価値であるかという桜井固有の価値観が、一般的に真っ当かつノーマルである故のことと思われる。更に付け加えるなら、価値観は相対的なものであり、異なる社会では価値観が異なることも知っている。
以上が桜井の素質と基本能力についての所感である。

次に成果について。構内管理システムマイク増設工事は、工事内容が前職場である配線電気部の工事そのものであることもあり、終始、他作業者をリード、指導し良好に全工事を終了させた。PWMアンプ補修工事では各課員の作業を適切に分担し、以前の約1.5倍ほどの効率で業務を進め、間もなく終了を迎えようとしている。最後に被教育者としての電子回路教育の成果であるが、現時点での驚くべき結果を見せている。2月に電子設計課に移籍し、現在5ヶ月余りが経過したが、アナログ回路理論については既に教えることが少なくなってきている。通常では2~3年費やすくらいの力量に等しいと言っていい。素質としての頭の良さは確かである。しかしこれほどまでとは、と当初思っていたが、ある時桜井の置き忘れた本を見つけた。それは以前読むようにと渡した「電子制御」という本だったが、本の厚さが渡した時の2倍ほどに膨れ上がっていたのである。やはり努力しているのである。


森下次郎(27) 課員

優秀なハンダ作業者である。社員としては、自らも会社を支えている一人であるという意識があまり見えないように感じられる点がやや物足りないが、これは私の責任でもあるかも知れない。その他、特に過不足なし。


川端義男(19) 課員

PWMアンプ施工等、現場作業をやらせるとなかなかに上手い。しかもスピードも速い。身体にハンデがなければ、電子設計課のような辛気臭い職場ではなく、他職場でダイナミックに仕事をしていたことだろう。当初、長時間机に向かっての作業を幾らか辛く感じていたようで多少心配したが、今ではそれにも慣れて積極性も出てきたようである。被教育者としての電子回路教育の成果については、私は恥じ入らなければならない。教育者としてはあるまじきことであるが、年齢にそぐわない川端の頭の固さに一度さじを投げかけたのである。その彼を桜井美紀が教え始めた。桜井としては自身の向上も意図してのことであることは前述の通り。日々が経過して川端の表情が変わり始めた。分かるということが、これほど楽しいことなのか、という表情である。トータル教育時間に対する川端の現在レベルは並みの上といったところであろう。先が楽しみである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対策不可能(再発防止)

2007-10-19 21:40:09 | 安全・品質
すべての事故に再発防止対策が可能かと問えば、答えはノーです。むしろ確実な対策を立て得ることの方が少ないかも知れません。このことは品質問題よりも、安全において多く言えることです。事故は常に想定外の出来事として発生します。明らかに危険がともなう行為や場所では事故は起こりにくく、一見、危険であると思えない時や場所で事故が起こるのは世の通念であり、実は極めて危険な要因があるにも関わらず、そうと思わず何気ない行動をとったときが最も危険です。

一例が、かの花火大会での歩道橋です。歩道橋が人で過密になり過ぎた。そのこと自体は将棋倒しが起きる直前まで多くは危険と感じなかったが、危ないと思い始めた頃、誰かがバランスを崩し事は起こりました。工事現場でも、10mを超える高所からの転落事故は少なく、最も多いのが2m以下の高さからの転落です。これらは、事故は想定外の所で発生することを明示していますが、この危険想定が個々人で異なることが問題を難しくしています。

というのも、ある場所で危険意識が働くのも危険を想定できるのも、過去にその場所で事故に遭遇した経験のある者に限られるからです。危険意識は事故に遭遇することによってのみインプットされ、時間と共に薄れていくということは、あまり知られていない事実です。よって、意識喚起をしているからとか、危険予知訓練をしているからといって安心してはいられません。それらは事故予防としての大きな効果を期待することはできないといえます。(むしろ、まったく効果がないと捉えていた方が安全でしょう)

だからこそ、不幸にも事故が発生した場合には、確実な再発防止対策を行わなければならないのです。事故の当事者でさえ、危険意識は時とともに薄らいでいくのですから。危険意識がほとんど無くても事故を発生させない対策は、フールプルーフとフェイルセーフ以外にありません。フールプルーフとは例えば階段や高所作業場における手すりや進入防止柵、フェイルセーフとは安全帯や墜落防止ネットです。

とはいえ、文頭に記したように、どうにも再発防止対策を講じることができない事例も多数あります。例えば、普段多くの人が何気なく通行している通路や階段で、けつまづいて転び怪我をした場合、そしてその頻度が極めて小さい場合は、これに対する再発防止を講じることは非常に困難です。このような事例報告については、対策欄に「検討中」と書いて放置し続けるよりも、「現時点では対策不可能」と明確に記すべきです。前者は何らかの対策が可能?と思わせる雰囲気が漂いますが(何もしないと言っているのに等しいにもかかわらず)、後者は対策できないものはできないと明確に言い切っています。

社用文書においては時として曖昧表現が有効であることもあるのでしょうが、こと再発防止対策においては、意味は限りなく明確でなければなりません。実際には対策不可能であるにもかかわらず、対策ができているように錯覚することが最も危険だからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

付録(PDCA)

2007-10-14 19:00:13 | 安全・品質
一例として、人為的ミスによる品質不具合の発生と防止の理論を端的に試みてみます。

①人はミスをする。ミスをする確率は一般に1%である。
②体調不良等によりミスをする確率が上がり、平均すると5%になる。

つまり、同じ作業を100回行うとすれば、平常時には1回の不具合があり、不調時には5回の不具合が必ずあるということです。

③作業順に項目が並べられた手順書にチェックを入れながら作業を行えば、ミスをする確率は平常時において0.5%となり、不調時において2.5%となる。
④平常時のミスの確率は1%であるから、他者が項目作業の検査を行うことにより、検査ミスの確率も1%とすれば、不具合の発生確率は1%×1%=0.01%に減少する。不調時の場合は5%×5%=0.25%に減少する。
⑤作業、検査、ともに手順書を用いれば、不具合の発生確率は0.5%×0.5%=0.0025%に減少し、不調時の場合は2.5%×2.5%=0.0625%に減少する。

よって1/100の不具合の発生確率が、③④⑤の工程を通ることにより最悪でも1/1600の発生確率に減少することになります。平常時であれば発生確率は1/40000です。

ただし③④⑤工程を通ると、その時間分と1名分のコストアップになります。このコストアップをαとすると、1/100の確率で発生する不具合による損失と、1/40000の確率で発生する不具合による損失+αの比較が、③④⑤工程を通すかどうかの判断基準となります。

以上、端的な試みであり実際にはその他様々な要素が加わりますが、これだけでも、それほど大きな誤差はないでしょう。因みに工程③を、ミスを防ぐフールプルーフといい、工程④を、ミスを補うフェイルセーフといいます。本論から少し外れますが、安全問題も含めて、個人的には実作業の前後をフールプルーフとフェイルセーフで挟みこんだ三層構造がすべてにおいて必須であると考えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理論に基づくPDCA

2007-10-12 20:34:11 | 安全・品質
世のほとんどすべての事柄や事象、現象には理論があります。事業活動であれば、儲かる理論と儲からない理論、成長する理論と衰退する理論。現場においては、事故が起きない理論と事故が起きる理論、失敗しない理論と失敗する理論。一般論として、勝つ理論と負ける理論、行動の理論、生態系の理論、人生の理論、宇宙と銀河と恒星と惑星の理論、等々、一部例外を除いて、世の中はすべて理論で構築されていると言えます。いま現在、私達がこう在るのも、それを認識しようとするまいと、理論の通りにあるわけです。

ここで問題となるのは、現在に「良しとしない部分」が存在する場合です。仮にこれをNGと呼ぶとしましょう。NGは排除しなければなりません。そのためにはNGの存在理論を認識する必要があります。現在のNGも理論に基づいて存在しているわけですから、その存在構造を問うこと無しに、排除できるはずがありません。

PDCAが理論に基づいたものであるかどうかは比較的簡単にわかります。Checkの工程でNGがどれほど存在するか、そしてそれが減少傾向にあるのか、停滞傾向にあるのか、はたまた増加傾向にあるのか、です。増加傾向は除外するとして、停滞傾向の場合、あるいは減少傾向であっても期待値に遠く達しない場合は、Planが理論(根拠)に基づいていないと言わざるを得ません。理論に基づいていないとすれば何に基づいたPlanなのか。例えば、「何となく」「思いつきで」「慣例に従って」。また「内容や結果はともかく、実行することに意義がある」という形式観念に基づくPlanなどがあれば論外です。

長嶋監督は当時「勘ピュータ野球」といわれたものです。対する西部の広岡監督は「理論野球」でしたが、チーム力の差は歴然としていました。ともかくCheck工程でPlanが理論に基づいていない、あるいは理論を間違って解釈していると判明した場合は、本当にNGを排除するという意志があるなら、再度NGの理論を検証しなおさなければなりません。

とはいえ、人は絶対的事実(存在)をそのまま直接的に獲得することはできません。多くの事例や研究を通して構造を間接的に見抜き、それを理論として解釈するのが限界です。よって、同一の対象物であっても複数の理論が生じ得ることになり、これが問題を困難にする一つの要因となります。

また二者間の係わり合いにおいて、一方が他方に隷属しているという主従関係の場合、従者の理論はまったく意味を成さず主者の理論を一方的に押し付けられることになります。そしてこのメカニズムそのものが、NGが存在する理論の一部を構成していることも考えられます。とはいえ、同じ人間による理論解釈がそれほど異なることはないでしょう。とにかく澄んだ目を理論に向け、静かな耳を理論に傾ければ、NGを排除していく長い道のりの最初のPlanを想定することができるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

21歳の弟子へ

2007-10-05 21:18:15 | 安全・品質
プロの技術者が必要とする技術は、知識によって得られる技術が6~7割、実務経験によって得られる技術が3~4割、概ねこれくらいでしょう。君の現在の知識レベルは、僕が4年かけて身に付けたレベルと同等か、上回っているといえます。それでも当時、周囲からは僕の上達が早いと評価されたものでした。しかしその頃は、僕は自分をまだまだ技術者であるとは認識しておらず、電気でそこそこやって行けそうだと実感したのは6年目の頃でした。

さて、何はともあれ君の知識的レベルの向上は驚異的に早いわけですが、実務経験による技術レベルは4年目の僕と比べて遥かに足りていません。まあ、これは回路設計、電子機器製作という実務が、現在はまったく無いので致し方ありませんし、始めて8ヶ月の君と4年の僕とを比べてのことですから、焦る必要も急ぐ必要もありません。これからは思いついた回路や、理論として興味を持ったこと等、どんどん実験などやって、目と指先に技術を覚えさせてください。僕も外を回って設計製作物件を取ってくるよう努力しようと思います。

さて今後のメニューについて、です。電検3種取得とは別途として想定します。

①「磁気静電気編」読了   1ヶ月
②「半導体回路Ⅰ」「半導体回路Ⅱ」読了  2ヶ月
③「交流編」読了   1ヶ月
④「電気回路編」読了   1ヶ月
⑤「これならわかる電気数学」読了   3ヶ月

以上でベーシックな知識は十分です。

応用図書
「スイッチング・レギュレータ設計ノウハウ」長谷川 彰 著
「トランジスタ技術」(月刊誌)購読

現在の君は初級技術者として必要な知識の7割近くに達していると思います。上記の図書を読破すれば残り2割が埋まります。最後の1割は経験ですね。それしかありません。そして最も長い時間を要します。しかし怖れるに足りません。ファイト!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする