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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

どこぞの会社の管理職

2007-09-15 19:09:15 | 思索
ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」より

P82
強制収容所の人間は、みずから抵抗して自尊心をふるいたたせないかぎり、自分はまだ主体性を持った存在なのだということを忘れてしまう。内面の自由と独自の価値をそなえた精神的な存在なのだという自覚などは論外だ。人は自分を群集の一部としか受け止めず、「わたし」という存在は群れの存在のレベルにまで落ち込む。きちんと考えることも、なにかを欲することもなく、人々はまるで羊の群れのようにあっちにやられ、こっちにやられ、集められたり散らされたりするのだ。

これは、どこぞの会社の魂を抜かれた管理職たちにも当てはまりそうな気がするなあ。そして次のように続く。

P83
強制収容所に入れられた人間が集団の中に「消えよう」とするのは、周囲の雰囲気に影響されるからだけでなく、さまざまな状況の中で保身を計ろうとするからだ。被収容者はほどなく、意識しなくても五列横隊の真ん中に「消える」ようになるが、「群衆の中に」まぎれこむ、つまり、けっして目立たない、どんなささいなことでも親衛隊員の注意をひかないことは、必死の思いでなされることであって、これこそは収容所で身を守るための要諦だった。
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独自性と全体性

2007-09-15 00:03:02 | 思索
まず、これはいつものホロン流なんですが、用語の解釈と整理を試みてみますね。誤認識もあるでしょうからご指摘いただければ幸いです。

【稲作農耕の精神・感覚】:(天皇に対する自我意識)
大地に密着して生きる、或いは自然と一体となって生きるという人の在り方。(かつてはこれがクニの大きな原動力であった。)

【クニの原動力】:(クニ:国)
アラブ諸国ではイスラム教、北朝鮮では金正日、となりそうですね。この社会では自我の確立は認められず、自我の超越:全体との同化に価値と美徳がありますね。ここでは自我意識は無きに等しいでしょう。
 
民主主義(個人主義)社会では、個々人による総生産が国力になりますから、国の原動力は個々人の価値に基づいている、と言えるでしょうか。BUNさんがピックアップされた、オリンピック、イチロー、その他は確かに、個人の価値の集団的統一ですね。

ここまでを整理しますと、古においては稲作農耕の精神・感覚が価値であり国の原動力となったが、現在はそれは僅少になり、個人にとっての価値が集団的に統一されたものが国の原動力になっている。またその価値の多くが反自然的、反大地的になってもいるわけですね。古と現在、この両者に明確な差異は見られますが、そこに優劣を考えると、かなり難しい問題になりそうです。

【自我の確立】:
全体に対する自己の主張。他者との間に設ける壁。

僕はイチローが記録を破るかも知れない日に、とてもソワソワしました。新記録を達成したという知らせを聞いた時、大きな幸福感を味わいました。街では号外が配られ山のような人だかりとなり歓声でどよめいていました。自分個人とはほとんど無関係に近い人のことなのに、一体何故なんでしょう?イチローは日本人、僕も日本人、その共有できる1点にのみ喜びを感じる理由があったような気がしています。

つまり人は、独自性と全体性という二面性をを持っているのではないかということですね。AIさんの言葉では「自己意識」と「超自我」ですね。他とは異なる独自の自分を主張したい欲と、皆と同じになりたいという欲、この矛盾するものを同時に持ちたいという不思議な生き物が人間でなのでしょうね。

反復的結論ですが、上記の意味において、現代人も明確に自我を確立しているであろうと僕には思えます。「超自我」に対する半身においてですが。
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