人は「制限された自由」の中では無く、実は「何者にも制限されない自由」の中に生きているのではないか、と思い始めている。魂の自由は戒めを受けることも無く、自ら踏みとどまる必要もない。本来的に魂の自由は何の拘束も受けることの無い存在として作られているのでは無いだろうか。
それは、私自身、繰り返される日常を生きていて、自由を制限されているというもどかしさ、息苦しさ、つまり不自由さを、さほど感じることが無いからでもある。現実社会の中では、人は無数の規則や規制に従って生きているのに、何故これほど自由なのだろうか。
そもそも魂の自由とは何処に生まれるのか。それは、喜びと満足に至る心の要求と相対的に存在し得るものである。故に元々無い要求を制限されたところで別に不自由ではない。
一般に、個人の自由は単独で存在する時が最大で、複数となった時点で他者を受け入れることにより、自由が減少すると考えられがちであるが、果たしてそうだろうか。喜びと満足に至る心の要求は、複数の中で自己を最大限に主張し実現たいと欲するだろうか。否、元々個の中に生まれた自己が他に見いだされること、他者の中に他者の自己を見いだすこと、そしてそれを共に分かち合い共有することを、より強く欲するはずである。それは個であることの喜びと満足よりも、複数を構成する個であることの喜びと満足の方が遙かに大きいからである。よって魂の自由は如何なる状況下においても決して減少することは無い。
人が他者を傷つけ、おとしめたいという心の要求を持つだろうか。仮に、その目的を遂げたとしても、また果たせなかったとしても、その結果が喜びと満足に至るとはとても思えない。自らがより深く傷つき、自らをおとしめるだけである。これ以上の不自由さは他にないだろう。つまり人は本来的にこのような自由は持ち得ないのである。
だから、その時点その時点の、喜びと満足に至る心の素直な要求のままに人は生きて良い。魂は何者にも制限されること無く自由なのである。