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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

京大原子炉実験所にて小出裕章氏にインタビュー 5月10日

2011-05-11 17:19:50 | 思索
「 IWJ 岩上安身氏によるインタビュー

この動画は何度も。
「人」「人生」「世界」すべてを教えてくれる。
小出裕章。こんな人が本当にいたんだ。


関連記事:京都大学助教 小出裕章氏の話し
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魚釣りは楽しいな

2011-01-18 19:32:47 | 思索
たとえそれが魚であっても、生きている状態から切り身になるまでの工程は凄惨だ。最初は生命を絶つこと。つまり魚をシメる。一般的には刃物で魚の急所を切断するが、私はもっぱら氷シメにすることが多い(大型魚の場合は刃物を使わざるを得ないが)。釣れた魚はクーラーの中の氷水に放り込み、クーラーのふたをする。それは魚が絶命する過程を見たくないからだ。(これは卑怯であろう)。次の段階はシメた魚を捌くこと。頭を落として腹を開き内臓を取出す。出てくるものはあまり見たいものではない。この作業も慣れてなければ相当な覚悟が必要になる。これが終わって魚はやっと切り身になる。スーパーに陳列してあるサケやブリの切り身と同じ。ここまでくれば誰もが屈託なく扱える。本当は、シメて、捌いた人にのみ魚を食う権利があるのだと思う。それが生命を絶つ罪過を背負うことに対する報酬だ。魚ならまだしも、牛や豚の場合は想像を絶する。私はステーキも、すき焼きも、豚カツも好きだが、ト殺して捌く勇気はとても無い。いったい誰が精肉になるまでの工程を担っているのか。そんなことは誰も知らない。ブラックボックスにしておくのだ。でなければ食えなくなるだろう。集団的無思考を考えるとき、誰もが一度は自らの手で魚を捌いてそれを食うという経験が必要なのではないかと、漠然と思う。
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テレビゲームとは何か

2011-01-04 00:59:11 | 思索
ザッツ、エンターテインメント。
人はエンターテインメントを好む。それは、おもしろい、楽しい、心地よい、からであろう。わくわくする、興奮する、これも心地よさに通じるものとして、エンターテインメントが人に提供するものである。エンターテインメントとは具体的に何か。これは人が趣味とするもの、余暇に行うものすべてであり、非常に多種多様である。一般的なものを幾つか上げると、音楽、映画、小説、スポーツ等、細かく数えると切がない。本稿の主題であるテレビゲーム、これも近年、若者を中心に圧倒的支持を得ている堂々たるエンターテインメントである。古来より脈々と続くエンターテインメントの中でも、いま特にテレビゲームに注目するのは、これは古来よりではなく、近年突然に現れて急激に進化、普及し、圧倒的にエンターテインメントの世界を席巻したという現実への戸惑いがひとつにはある。この現実の有様を見ると、テレビゲームはもしかしたら遊びを好む人の本能、特に若年層の本能にアピールする最強のエンターテインメントなのかも知れないとも思えてくる。

しかしテレビゲームが登場した当初から、また全世界に広まった現在においてはなお、テレビゲームのある種の有害性について言及する声が少なくない。しかしそれは論理に基づくものというより、多くが感性に反応する類のものとしてである。実際、テレビゲームが何故悪いのか?という問いに対する明確な回答は今のところないだろう。少なからぬ遊びに存在する中毒性についてはテレビゲームも当てはまるように直感するが、テレビゲームを良からぬものとする見方は、特に中毒性を強調するものではない。もっとほかに、もっと本質的で重大なものがあるように感じられる。それはいったい何なのか。無心にゲームに興じる子供を見て、言うにいえぬ親の怖れはどこから来るのか。

テレビゲームを取り巻く周囲の客観的事実から押さえていこう。ゲーム好きの子供たちは非常に多くの時間をゲームに費やしている。もしゲームをしていないなら、その時間をほかの事に割り当てることになる。これが大人であれば、時間があるなら好きなことをすればよいと多くの人は納得するだろう。しかし、成長過程の子供にとっては不可欠な必要な時間が他にあるのではないだろうか、テレビゲームはその時間を阻害しているのではないだろうか、という感覚が漠然とあるものと思われる。少なくとも私自身にはある。

ある程度の年齢を経た大人の多くは、それぞれに「一人前の大人」についての観念、あるいは理想像を持っている。それは細部に個人差はあっても、多くの部分でオーバーラップするはずだ。子供がその一人前の大人に成長するためには、成長の過程においてどのようなものを吸収しなければならないのか。これについては人それぞれに、名作と言われる本をたくさん読むとか、武芸をたしなむとか、多くの自然に触れるとか、色々それらしきことを思いつくだろうが、はたしてそれが不可欠なものかどうかの断定は難しい。

次に、個々のエンターテインメントの奥深さについて考える。一例として映画を上げたが、すべての映画をエンターテインメントと定めるのは妥当ではない。「スターウォーズ」や「マトリックス」はエンターテインメントの代表的傑作であるが、「ディーパ」や「ピアノレッスン」は、これも共に名作ではあるが、これらをエンターテインメントと呼ぶのはふさわしくないだろう。

つまり、奥深さに大きな幅があるのである。小説も同様だが、例えて言えば流行小説と純文学と言われるものはやはり別物だろう。最近ではライトノベル(ex.アニメ感覚の読み物)というジャンルが現れ若者たちの間で流行しているが、これはエンターテインメントの意味を端的に説明していると思う。

さて、ここまできて少し自分なりの答えが見えてきたような気がする。人の理想像の一端を担うものとして、広い視野と深い洞察と豊かな感性が求められるであろう。これは世の有様やメカニズムをより正しく理解するためには欠くことができない。これらはどのようにして培われるのか。これはたぶん、リアルである現実に密接する表層部分と、人の心の奥深くにある深層部分との、生き生きとした還流によって形成され保たれるのではないだろうか。知覚された表層部の現象は、少しの時間を掛けて深層部で咀しゃくされなければならない。この還流はバランスを保って繰り返されることが好ましい。

テレビゲームは視覚に基づいて愉快や楽しさを提供するその属性として、表層部分に集中せざるを得ない。思考よりも感覚や本能にアプローチする。そしてそれはリアルである現実と、それを解釈する心との間に割って入りリアルとの接触を遮断する。表層部に展開するというこの特性故に、ゲームはしばしば疑似リアルと呼ばれるのであろう。この点については、エンターテインメントである映画や小説も近接する。

テレビゲームの麻薬的心地よさは、人を熱中させ長時間プレーヤを拘束する。そして麻薬的中毒性を持つ。人と外界との接点にあるべきものはクリエイトされた世界より、現実世界の割合が多い方が好ましいことは間違いないだろう。このバランスの問題において、エンターテインメントすべてを否定するものではない。人にとっての他の存在とは、人が必要としている対象である、と言い換えることができよう。

たまたまテレビで観たXBOXのCMには驚愕した。産まれ出た赤ん坊がビューンと空を飛んで行き、飛行しながら急速に成長して、最後には老人となり墓場の中に着地する。ここでキャッチコピー。「人生は短い。だから遊ぼう!」

関連記事:教育について 2010-12-31
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政治主導とは?

2011-01-04 00:07:38 | 思索
日本国の属性に限定して考えると、国家権力を有し、国民を支配する者は官僚である。政権交代時の民主党は、この官僚の権力を解体し、国民を主権者とすることを目指したが、官僚の成り振り構わぬ反撃に遭い、10ヶ月と持たず、前政権にも勝る官僚の傀儡政権へと変質した。

そもそも、一般国民は適度な暮らしと、適度な自由が得られていれば、政治などに関心はない。自分もまた、できれば政治のことなど考えたくもない。平均的暮らしをしつつ、政治に関心を持つ国民はよほどの物好きなのだ。

しかも、国民から吸い上げて得た官僚の収入が国民平均の10倍以上であると知ってもなお、多くの国民は不平を言わない。というより、やはり政治に関心がない。驚くべきことは、生活に困窮する者、明日の生活をも知れぬ者が、とりわけ政治に無関心であり、むしろ自らを卑下する傾向にあることだ。

これに対し、政治に非常に関心を持ち、中には積極的に政治に加わろうとする国民層がある。富裕層である。もちろん官僚もこれに含まれる。彼らは自らの富める暮らしや財を更に肥やすために、権力を増強し、平民や貧乏人から吸い上げる方法を考えることに余念がない。このような国民全体の意識構造に基づき、現在の官僚支配は、あるべくして在る。

小沢一郎が報われないのは、いくら官僚支配を解体して、国民主権を実現しようと努力しようとも、この国民全体の意識構造故に支持する者の絶対数が少な過ぎることだ。小沢一郎がもし神のような力を持つのであれば、政治に関心を持たない大多数の国民は、早晩、権力に対して怒りを持ち始めるだろう。さもなくば、小沢一郎の夢は夢に終わる。

「小沢一郎の夢」
私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意見を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。
(2010年9月 民主党代表選 投票前演説より)

小沢一郎街頭演説2010/9/4新宿駅西口
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教育について

2010-12-31 00:24:22 | 思索
そもそも「教育」とは何ぞや?という、原点考察は当然必要ではあるが、まず本主題を検討する前置きとして、現在社会ありきとして想定すれば、非常にシンプルに教育の側面を捉えることができる。ある社会を構成する一個人として、その中で生きていくことを前提とするなら、どうしてもその社会専用のスキルを身に付けなければならない。よって、教育の第一の役目は、子供達にそのスキルを教えることと言える。例えば、読み書き。思考の自由度は情報量に比例する。文字情報をスポイルすることは思考の自由度を大きく狭めることになるだろう。それ以前に、まともに街中を歩くことさえままならない。

以降、原点と本質を睨みつつその周囲を確認しながら検討を進める。
人は人との関わり合いの中で、無意識に教育し教育されることが少なくない。例えば、生まれたばかりの乳児に対する母親のマザリング。つまり母親が赤ん坊を抱いてあやしたりすることであるが、この行為によって、赤ん坊の中に将来必要となる何かがインプットされる。

人を厳密に定義するのは難しいが、「人」というものの一般的概念は、ほぼ共通するものを誰もが持っている。教育という行為の原点は、どんなものにでもなり得る乳幼児を、一般的概念としての人へと作り上げることであろう。さらには異なる文化風土に応じた、また階級社会のその階級に応じた人へと作り上げることであろう。(民百姓は武家のしきたりを学ぶ必要はない)

さて、どんなものでもなり得る幼児としたが、これは「オオカミに育てられた謎の子供たち」のアマラとカマラの話に基づく。しかし、かつては高校の教科書にも載っていたこの話も、昨今では作り話ではないかとも言われるようになり、根幹部の問題ではあるが、実のところ定かではない。とはいえ、成長する子供が親の影響を多かれ少なかれ受けることは確かだろう。人の個性は遺伝の要素と環境の要素の、どちらに強く影響を受けるのか?いまはまだよく分からない。

いま教育の観点から、もっとも関心のあることのひとつはテレビゲームである。特に現在の、先進諸国におけるゲームの充満が人や社会に影響しないはずはない(ように思える)。少なからぬ人が直感的にこれを良からぬものと捉え、ゲームを否定的に見ている。しかし論理的に良からぬものと説明できないのも事実である。これについてはまた別稿にて。

教育という行為が成されるとき、それに伴う本質的リスクを常に意識しておかなければならない。これは教育する方も、教育を受ける方も同様である。前述したが、人の意識や価値観は教育によってどのようにも作ることができる。これに異を唱える方はいないだろう。これは現在を鑑みても、少し歴史を振り返っても即座に納得できる。我々が今こうあるのは、そのほとんどが、今あるように教育されたからだと言っても過言ではない。

今、多くの国民が小沢一郎はきっと悪い奴に違いないと思っているし、尖閣諸島で漁船をぶつけて謝りもしない中国は許し難い悪い国だと思っている。このように、社会で生きる術を身につけている大人でさえ、今なお教育されているのであり、教育によって事実ではないことも事実にしてしまうのは実に簡単なことなのだ。これが教育することの最大の問題点であり、細心の注意を払わなければならないと言えよう。

何が正しくて、何が事実(真実)なのかを定めることは非常に難しい。多くの場合、確認の方法が無いからだ。この点において、伝える内容は正しいことであり事実であるという前提の基に教育は成り立つ。教育を受ける側がすべてを疑えば教育もくそもない。それ故に教育する側の責任は重い。いまマスメディアの報道が大きく信頼を失墜しつつあるのは、市民が報道内容を疑い始めたからである。実はマスメディアは教育者であり、市民は被教育者であると言うことを、互いに十分に自覚しておかなければならない。

このような人と教育の相関関係において、一般論としての教育の目的は大きく2つに分かれる。一つは、問題解決のために、より客観的に事実に迫ろうとする訓練であり、科学の立場がこれに相当する。もう一つは、人あるいは集団を、ある意図に基づいて定型に作り上げようとするものである。軍隊がこれの最たる事例であろう。宗教もまたしかりである。前者には絶対はないが、後者には絶対があり、新兵や入信者はこの絶対を教育されるのである。またそうでなければ軍隊も宗教も成り立たない。またこれは、人を作る基本教育においてもすでに述べた。

世のすべての人は、意識の有無にかかわらず、また割合の比率はそれぞれ異なるにしても、この両方の教育を施された上に現在がある。便宜上、科学の立場に代表させた教育を技能教育、軍隊や宗教に代表させた教育を洗脳教育と呼べば、技能教育は思考(意識下)を作り、洗脳教育は心(無意識下)を作る。この無意識下に作られる心は強靭かつ堅固なため、集団教育が誤って(あるいは計画的に悪意を持って)なされた場合は、非常に恐ろしいことになる。これも現在と少し過去を顧みれば、即座に納得できることである。

社会や国家における秩序のための教育と聞くと、さほど抵抗なく頷いてしまいそうになるが、実はこの「秩序のための教育」こそが洗脳教育であることも多くの人が理解するだろう。日本においても近年、国家主義に向けての洗脳教育が既に始まっている。例えば、国から小中学校に配布されている「心のノート」。両親を敬いましょう。故郷を愛しましょう。国を愛しましょう。国民の意識を統一することは、ある意味国力の増強には繋がるだろうが、これは明らかに人権侵害であり、憲法違反である。また民主主義を破壊するものである。

以上、幼児期から小中学生くらいまでは、技能教育に加えて洗脳教育も旺盛に吸収しうるため、洗脳教育のファクタについては細心の注意を払わなければならない。どのように成人するかは概ねここで決まるだろう。成人してからの洗脳教育はすべてが悪と言える。繰り返しになるが、軍隊や宗教などの思想団体以外において、本質としての教育は、問題解決のために客観的事実(真実)に迫ること以外を目的としてはならない。

関連記事:テレビゲームとは何か 2011-01-04
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なんだこりゃ~?

2010-10-07 23:37:20 | 思索
うちのマンションの管理組合みたいだぞ。

「お盆休みのある8月中は隔週でしか集まれなかった」
「議決を取りますか。それとも先に延ばしますか」
「こんな日になっちゃったね」


2010年10月6日03時06分 読売新聞

「代表選当日の小沢氏審査、「議論煮詰まり」議決」

東京第5検察審査会が小沢氏を「起訴すべきだ」と議決するまでの経緯が、審査会関係者の話で明らかになった。

関係者によると、11人の審査員たちは、お盆休みのある8月中は隔週でしか集まれなかったが、9月に入ってからは、平日に頻繁に集まり審査を行った。

9月上旬には、「起訴議決」を出す場合に義務付けられている検察官の意見聴取を行った。意見聴取では、東京地検特捜部の斎藤隆博副部長が1時間以上にわたって説明。斎藤副部長は「元秘書らの供述だけでは、小沢氏と元秘書らとの共謀の成立を認めるのは難しい。有罪を取るには、慎重に証拠を検討することが必要です」などと、審査員らに訴えたという。

審査員に法律的な助言をする審査補助員を務めた吉田繁実弁護士は、暴力団内部の共謀の成否が争点となった判例や、犯罪の実行行為者でなくても謀議に参加すれば共犯として有罪になるなどと認定した1958年の最高裁大法廷判決を審査員に示し、「暴力団や政治家という違いは考えずに、上下関係で判断して下さい」と説明した。

起訴議決が出たのは、民主党代表選当日の9月14日。第5審査会の定例の審査日は毎週火曜日で、この日は偶然、審査日にあたっていた。ただ、この日に議決を出すことが予定されていたわけではなく、議長役を務める審査会長が審査中に「議決を取りますか。それとも先に延ばしますか」と提案したところ、審査員らから「議論は煮詰まった」との声が上がり、議決を出すことになった。

議決の後、「こんな日になっちゃったね」と漏らす審査員もいたという。多数決の結果、起訴議決が出たのは午後3時頃。代表選で開票の結果、小沢氏の落選が決まったのは、その約30分後だった。
(2010年10月6日03時06分 読売新聞)


小沢がここまで、とことんやられるのは、小沢が怖いからだ。違うか?
俺は別に、小沢が怖くもなんともない。お前も同じだよな。
じゃあ誰が、小沢が怖いんだ?
「国民の暮らしが第一」の社会になると怖いのは誰なんだ?
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ブッシュマン

2010-08-23 23:58:32 | 思索
よう、久しぶり。元気にやってるか?

もうずいぶん昔の話やが、ブッシュマン(コイサンマン)という映画があったよな。
ニカウさんが有名になったもんだ。(^^)

コイ人もサン人も、ヤノマミと同じように、いまも一万年前と同じ暮らしを続けているという。

この映画の公開当時は、目新しいコメディとのみ受け止めていたが、そのストーリーを今あらためて振り返ると実に興味深い。俺が昨今思う謎のひとつは、ヤノマミの祖先が何故、文明に至る進歩を拒否したのかということだ。

知ってると思うが、この映画のストーリーを簡単に話す。

アフリカ上空を飛ぶ飛行機の窓から、白人がコーラの空き瓶を投げ捨て、それがニカウたちの村に落ちた。瓶は丸くて硬く、棍棒としても一級品だし、水でこねた穀粉を延ばすのにも都合がよかった。ニカウたちはこの瓶を、神様の贈り物として崇め感謝した。しかし瓶があまりに重宝だったため、ほどなく瓶を巡って仲間内にいさかいが起こるようになった。思案に暮れたニカウは、瓶を神様に返すために旅立つ決意をする。

まあ、こんな話だ

コーラの瓶を使うことで、今までできなかった色々なことが出来るようになったはずだ。
そして新たにできるようになったことは、次のまた新たな可能性を生む。それが進歩であり、長い時間をかけて文明に至る道なのだろう。

しかし新たな可能性は同時に、必ず新たないさかいを生む。これをニカウは見抜いたのではないだろうか。

そして瓶を放棄し、神様のもとに返しに行った。
この時、その先一万年も続くブッシュマンの運命は決まった。

同量の幸福 2010-08-12
科学は人類を幸福にしたか? 2010-07-06
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同量の幸福

2010-08-12 00:01:29 | 思索
年に3回、北陸の実家に帰省する。自然が豊富なのはいいが、都会暮らしの長い私にしてみれば、何かにつけ不便な田舎であり、そこに長く住めるような気がしない。実際3日もいれば田園風景にも飽きて、にわかに帰りたくなってくる。しかしこれは逆もしかりで、実家の親を都会の我が家に連れてくると、ほどなく帰りたそうな素振りを見せるようになる。まあ、これが「住めば都」ということなのだろうが、この両者共に、日ごろ暮らしている場所には存在する何かが訪問先には無く、そこに満たされないものを感じるのだろう。

都会に有って田舎には無いもの、都会には無いが田舎には有るもの。前者は分かりやすいが、後者は分かる気はするが明瞭ではない。豊富な品物と利便性によって失われていくものとは何だろう?

関連して極端な例を考えてみる。石器時代の生活を1万年以上も続けて現在に至るといわれるアマゾンのヤノマミ族を都市に連れてくると、彼らもやはりジャングルに帰りたいと思うのだろうか?これはたぶん、いや間違いなくそう思うだろう。逆に都会人も3日とジャングルにはいられないだろう。

ということは、人の幸福感はすべてが普遍的なものではなく、少なからず相対的に形成されていくもののように思える。都会人の幸福が必ずしも田舎人の幸福ではなく、田舎人の幸福は必ずしも都会人の幸福ではない。

とするなら都会に対する田舎も、文明に対する未開も対等ということになる。新たに生まれてくる子供はどこに生まれても得られる幸福に差異はない。もし実際には異なるとするなら、人ゆえの普遍的な幸福感の差異であろう。
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ある、お金の寓話②

2010-07-25 21:28:54 | 思索
さて富裕者の勾玉は増えに増え、しだいに保管場所に困るようになってきました。また不用意に置いておくと誰かにこっそり盗まれるかも知れません。そこで村一番の富裕者である金幸彦は勾玉を保管しておくための頑強で巨大なお蔵を建てました。これで当分は安心です。

村の他の富裕者たちも同じように勾玉の置き場に困っていましたが、金幸彦のお蔵の話を聞き、勾玉を預かってくれるように金幸彦に頼みました。金幸彦は預かり料として、いくらかの勾玉を拝借することを条件に預かることを引き受け、四角い小さな絹の布きれに印を押して預り証として渡しました。

金幸彦の預り証は勾玉がそうであったのと同じように、わざわざ金幸彦のお蔵から勾玉を引き出して使わずとも、預り証がそのまま取引に使われるようになりました。そしていつしか村人は預り証を金布と呼ぶようになりました。

さて村には多くの貧者がいました。また新しい性能の良い道具をたくさん手に入れて、今の生産量をさらに増やしたいと考えている人たちもいました。金幸彦はそんな人たちを眺めながら、ふと名案が浮かびました。彼らに必要な勾玉を貸してやって、彼らが用を成した後に、貸した勾玉の量よりもいくらか多くの勾玉を返させれば、自分の勾玉がまた増えるじゃないかと。もし借りた人が返せなければ?なに、家でも没収すればいいだろう。

これが現代で言うところの銀行の原型です。返してもらう“いくらか多くの勾玉”が利子になりますが、利子は何も生産してないものに対する勾玉、つまり無から生まれた勾玉ということになります。村長の発行する勾玉の量は村の総生産に1:1に対応していますが、この利子をどう扱うかはちょっと難しいところです。しかし村には、富裕者たちにマッサージを施したり、運勢を占ってあげたり、体格のいい男が生産者では運べない重い商品を担いで運んだり、実は村長も預り料をくすねていたりして、何も生産していないのに勾玉を手に入れている人たちが、すでにたくさんいました。つまりサービス業です。同様に銀行金利も、金幸彦が金貸しを思いついた時点に限れば、サービス業として認めていいのではないでしょうか。

さて金幸彦は、貧者や新しい事業を考えている村人たちに、自分の勾玉を担保にして金布(勾玉の預り証)を貸し出しました。この計画は大成功し、金幸彦は儲けに儲けいまや村では突出した大富豪になりました。もはや貯めた財産を使い切ることもできません。しかし金幸彦は考えます。もっと儲けたい。

すでに金幸彦はあることに気付いていました。富裕者たちから預かっているお蔵の勾玉はほとんど動かないのです。村では預り証である金布での取引が主体になっていましたからそれもそのはずです。ならば、と金幸彦は考えたわけです。預かっている勾玉の、確実に変動しない分を担保に金布を貸し出してもいいんじゃないか?

この作戦も大当たりでした。もう金幸彦は財産の中に埋もれています。しかし金幸彦は考えます。もっと儲けたい。(お蔵の中のことを知っているのは俺だけなんだ)

栄えていく村の様子に反して、海幸彦の心はすさんでいました。昔はこんなに泣いている人たちがたくさんいただろうか?海幸彦は子供の頃の多くの笑顔を思い出しました。するとなんだか自分も泣けてきました。いま、村には何でもある。子供の頃には見ることもなかった贅沢なものもたくさんある。自分も家を新築したし、服も何着もあるし、馬だって2頭いる。だのになぜ、こんなに多くの人たちが泣いているのだろう?その理由はわかりませんでした。

いつまでたっても海幸彦の気持ちは晴れませんでしたが、あるとき旅に出ようと思い立ちました。そして一頭の馬と共に海幸彦が旅立って、どれくらいの年月が流れたでしょうか。戻ってきたはずのこの故郷の地にはもはや故郷はありませんでした。そこに人は誰もおらず、海幸彦の足下の荒れ地がただ延々と拡がっているのみでした。

関連記事:ある、お金の寓話① 2010-07-10
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都市

2010-07-23 16:11:35 | 思索
システマティックで便利。
何かと暮らしやすいように都会は作られているが、
その暮らしやすさがシステムによってもたらされているということに実は致命的なリスクがある。

もし主要な都市に供給しているすべての電気を止めれば、都市は3日と持たない。
それで日本は滅ぶ。なんと脆弱なことか。
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頑張った人?

2010-07-19 22:05:20 | 思索
小泉、竹中が言ったっけ。
「頑張った人が報われる社会にする」

で、企業の伝統的な人事制度が廃止されて成果主義などに無理矢理変えさせられたりしたが、ほんとに頑張った人が報われる社会になったの?

やったことは新自由主義に基づいて市場競争を煽ることだったから、大勝ちする人もいれば、大負けする人も当然に出てくる。結果的に極端な格差社会になるのも当たり前。

これって、博打や賭博とほとんど同じじゃない?計画的にやったの?
頑張って報われた人はいいけど、頑張ったけど報われなかった人もたくさんいたじゃないか。そんな人たちには「おまえが頑張らなかったからだ」というわけ?

競争だから簡単なことだね。例えばオリンピックの100m競争。
優勝した人は頑張ったから優勝したの?8位に終わった人は頑張らなかったから負けたわけ?そんな馬鹿なことはない。選手はみんな頑張ったんだ。

パイの数は決まってるんだから、もし誰かがたくさん取っちゃったら、わずかな残りをみんなが取り合う。ゲームが終わったら、1つも取れなかったって人もいるだろうね。

「頑張った人が報われる社会」なんてのは大嘘つき。あり得ない。

小学一年生のよい子に教えてもらったら?
「みんなで仲良く分け合ったらええやん」てね。


*大人になって走り始めたらもうおしまい。
*こんな当たり前の理念を忘れてしまって、考えてる暇などない。
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ある、お金の寓話①

2010-07-10 00:17:47 | 思索
海幸彦が海で釣り上げた魚、海に潜って採ったサザエ、浜辺で集めたハマグリ、これらを海幸彦が生産した商品としましょう。同様に、山幸彦が山でしとめたキジ、松林で集めたキノコ、竹林で掘り出したタケノコ、これらも山幸彦が生産した商品です。このようにして、ニワトリを育てて卵を産ませる人や、麻を織って生地を作る人、狩猟のための道具を作る人など、様々な商品を生産する人たちがいました。

さて、商品の取引は物々交換から始まります。しかしさすがに物々交換は不便なので、皆で話し合い、同じ色と形の勾玉を商品の「価値」に代わるものとして決めました。海幸彦が釣った魚は勾玉10個、山幸彦のキジは勾玉15個、タケノコは勾玉5個、卵は勾玉2個、という具合です。

みんなが生産した商品はいったん村長のお蔵に集められ、村長は持ち込まれた商品の価値に相当する数の勾玉を持ち込んだ人に渡します。これで欲しい品物を手に入れることがずいぶん楽になりました。今夜の食事はタケノコの煮付けにしようと思った海幸彦は、勾玉を5個持って村長を訪れ、勾玉とタケノコを交換すればいいのです。

ある日、山幸彦はいつものように山に猟に出かけました。その日は大猟で二日分の商品を生産しました。そして、それを村長のお蔵に納品して勾玉と交換しました。二日分の収穫があったので、山幸彦は次の日は休みにして、凧揚げやコマ回しをして一日遊びました。同じ日、海幸彦の方は不漁で、魚も貝もまったく採れませんでした。でもお腹は空いています。財布を調べると、まだ幾らかの勾玉があったので、村長を訪ねて17個の勾玉を支払って、キジと卵を持ち帰りました。今夜はキジ鍋のご馳走です。

勾玉を使うことにすっかり慣れた村人達は、欲しいものを求めて必ずしも村長の蔵に行かずとも、村人同士で商品と勾玉を直接交換することも盛んに行われるようにもなりました。

先に山幸彦の大猟と海幸彦の不漁のお話しをしましたが、多くの種類の商品の中には、一日当たりの生産量がほぼ均一なものと、日々変動するものがあります。海幸彦と山幸彦の商品は自然を相手にして生産しますから、とりわけ生産量が変動しやすいものになります。これに対して、原料を蓄えておくことのできる、麻生地の生産や狩猟用道具の生産などの製造業は、生産量が比較的均一になります。

(価値と価格)
ある日、山幸彦の猟は不調でマツタケ3本だけでした。とりあえず村長の所で、7個×3の勾玉に交換しようかと小道を歩いていると、通りかかった村人が山幸彦の商品を目ざとく見つけ、「兄ちゃん、いいマツタケ持ってるねえ、勾玉と交換してくんない?」と言ってきました。山幸彦は村長を訪れる手間も省けるし、特に異存も無かったので、「ああ、いいっすよお」と応えかけたまさにその時、もう一人の村人が通りかかり、「あっ!それ俺もほしい」と割って入ったのです。

さてもめ事になりました。山幸彦は別にどちらの村人と交換してもいいのですが、村人は互いに引きません。とうとう一方の村人が、マツタケを取決めの2倍の数の勾玉と交換するから俺にくれと言い始めました。それを聞いて、山幸彦ももう一方の村人も驚きましたが、事態を理解したもう一方は引き下がらず、ならば俺は3倍の勾玉と交換すると言って対抗してきました。協議の末、結局、山幸彦は3本のマツタケを7×3×3=63個の勾玉と交換しました。山幸彦は何が起こったのかまだ十分に理解していませんでしたが、21個の勾玉と交換されるはずだったマツタケが63個の勾玉となって手に入り、何やらとても嬉しい気分になりました。

その夜、山幸彦はいろいろと考えていました。マツタケの価値は勾玉7個で、これは不変です。しかし実際にはマツタケ1本当たり21個の勾玉と交換されたのです。山幸彦は「そうか!」とハタと気づきました。商品の価値と取引価格は別物なのだ。そう。つまり商品の価格は商品の価値が要因になりますが、価格そのものは市場が決めるのです。

分かりやすい例として郵便切手があります。1948年発行の有名な記念切手「見返り美人」は、郵便用としては5円の価値ですが、切手商に持ち込むと5000円以上で買ってくれます。

さて、ここで商品の価値についてもう一度検討してみましょう。マルクス経済学によると、商品の価値とは、その商品の生産に費やす「時間」です。とするなら、海幸彦が7時間かけて釣り上げた魚が1匹だけだった場合と、10匹だった場合、1匹の魚にも10匹の魚にも同一の時間を費やしていますから、1匹の価値と10匹分の価値は同じということになります。価値は価格に反映しますから、例えば、豊作の年の農作物の価格は安く、不作の年の価格は高いということですね。また工業製品なども大量生産により、価格はどんどん安くなっていきます。

(経済成長)
話を戻しましょう。勾玉を使い始めてから色々な品物が簡単に交換できるようになり、海幸彦は前よりも強靭な釣竿や釣針、かねがね欲しかった道具などを手に入れました。ほかの村人達も同様です。その後、海幸彦の漁は大漁に次ぐ大漁、山幸彦の狩猟も絶好調で、ふと気が付くと、その年の村内の総生産は昨年の2倍になっていました。商品としての価値の総計とそれに相当する勾玉の数は一致しなければなりませんから、村長は商品が増加した分だけ勾玉の発行を増やします。村内には商品の種類と量が更に豊富になり、村人の財布の中の勾玉の数もずいぶん増えたので、村人達は生活必需品以外にも、欲しいと思う品物を余った勾玉を使って手に入れるようになりました。村の経済が成長したのです。

(貧富)
こうして村人の生活水準は向上しましたが、すべての種類の商品が均等に消費されるわけではありません。生活の向上に連動して、ある商品は飛ぶように消費され、ある商品はほとんど見向きもされなくなりました。人気商品はいくらたくさん生産してもすぐに消費されて、村長のお蔵の在庫も品薄です。生産者の財布は勾玉が溢れんばかりに膨らみます。反対に不人気商品はなかなか消費されず、村長のお蔵に持ち込もうとしても、ある程度在庫が減らなければ、村長は受け取ってくれません。直接取引も芳しくないし、村長のお蔵に入れることもできないとなると、これはもう捨てるしかありません。生産者の財布の勾玉はもう底に着きそうです。このようにして、村には大きな貧富の差が生まれました。

(搾取)
貧困と富裕がいれば、そこに力関係が生まれます。富裕者が貧者に対して、勾玉をやるから俺の言うことを聞け、と言うわけです。貧者は悔しくても飢え死にするよりは従ったほうがましと考えます。この時点で、富裕者は貧者に対する主人、貧者は富裕者に対する従者となりました。従者は主人に何をどれだけさせられて、どれだけの勾玉をもらえるのかまったく分かりません。すべては主人が決めることです。

さて、富裕者は一人力の生産力を得ました。そして夜明けから日暮れまで働かせました。従者が生産した価値は勾玉50個分に相当しましたが、従者にはそれが分かりません。主人は約束どおり従者に勾玉をわたしましたが、その数は10個でした。これだけでも従者はこの村での最低限の生活はできます。従者は主人にお礼を言って帰途に着きました。こうして貧者は来る日も来る日も富裕者の家に通い、貧者は貧者であり続け、富裕者は労せずしてますます富を膨らませていきます。

こうして目出度くも悲しくも、村は華やかに栄えていくのです。行き着く先に破滅と言う終着点があることなどつゆ知らず。

関連記事:ある、お金の寓話② 2010-07-25
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科学は人類を幸福にしたか?

2010-07-06 21:16:31 | 思索
太陽の塔で有名な、70年万博のテーマは「人類の進歩と調和」だった。

人類の進歩といっても、別に人の身長が伸びたとか、頭が良くなったというわけではない。人は体つきも、能力も、考えていることも、やっていることも2万年前の人と何ら変わらない。

進歩したのは科学技術なのだ。

さて「便利な世の中になったものだ」とはよくいうが、なぜ科学技術は進歩したのだろう?また、科学技術の進歩は人を幸福にしたのだろうか?

進歩すべくして進歩したというのは、たぶん当たらない。例えばアマゾンのジャンルの奥地には、原始人同様の暮らしを続けている土着民がいるのだ。「疑問」から科学が生まれるとするなら、彼らは疑問を捨て去ったことになる。実際そうなのだろう。すべてを受け入れてしまえば疑問は生まれない。

さて、科学技術の進歩は人の多くの望みを叶えてきた。と同時に多くの不幸をもたらしてきた。科学技術は常に両刃の刃として働き己を相殺する。ならば科学は人にとって無価値と言えるではないか。相殺するのだから有っても無くても同じこと。

ここにアマゾン奥地の土着民が一つの解として浮上する。再度確認するが、彼らは現代に確かに存在しているのだ。

文明人と未開人。総体として両者は対等と言える。いやむしろ、自らを絶滅させないという点において、未開人の方が優れている。文明人はそろそろ原点に帰るべき時が来ているのかも知れない。
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集団的無思考への誘導

2010-06-29 21:15:44 | 思索
今、池上彰がバカ売れである。書店には多くの著書が山積みされており、テレビ番組にも頻繁に登場するようになった。さて、池上彰の何が売れているのかというと、これはいたって単純明瞭であり「ニュースを分かりやすく解説する」ということである。確かに池上氏の解説を聞くと“なるほどそういうことなのか”と分かった気になることが多い。(とはいえ池上彰もニュースの本質は伏せている)

しかしこれは裏返してみれば、一般的に“ニュースは分かりにくい”ということを意味している。特に政治経済についての一般報道は非常に分かりにくいと思えるが、このことは重要な事象である。メディアが意図的に分かりにくく報道しているとも考えられるからだ。何故か?これは“権力がどのようにして権力を維持、拡大しているのか”、この仕組みを一般大衆に理解されると困るからではないだろうか。

少し話題を変える。世界では「単一の言語しか使えない人」を「日本人」と訳すらしい。例えば中国の片田舎の人達も、一般的な日本人を超える英語力を持っているという。確かに、かねてより日本の英語教育に対しては怪訝に思っていた。4年制の大学までを含めると、延べ10年にわたる英語の履修課程があるにも関わらず、大学卒業生の大多数が、ろくに英語が使えない。

何故か?教育の方法論の問題なのか?いや、ここにも作為が感じられる。権力にとっては、大衆としての日本人が英語に堪能になると、何かと不都合があるのではないだろうか。そうでなければ、日本人のこの貧困すぎる英語力はあまりにも不自然である。

多くの日本人は、ニュースがよく分からないし、英語がほとんど使えない。といってもそれで日々の生活に何ら困るわけではない。人々はそれぞれの日常をごくありきたりに繰り返している。しかし、このことがまさに、権力によって誘導され作り上げられた集団的無思考であると捉えることもできる。しかし仮にそうだとしても、人々は無思考ゆえに享受できる娯楽を楽しみ、ほどほどに幸福を与えられて満足している。“ならばそれでいいじゃないか”とも言える。実はこの“ならばそれでいいじゃないか”こそが、権力の狙う核心部なのではないだろうか。

60年~70年代、学生の少なからぬ関心事は政治であった。日米安保。とりわけマルクス主義がブームであった。今や見る影もない。当時の彼らは、仮にそれもまた誘導であったにせよ、ともかく考え何かと闘っていた。いま、権力が誘導する集団的無思考は、すでに完成しているのかも知れない。あたかも教祖に対する信者のように、国家に対する国民という構図を描くことができる。ある一人の青年はこういうだろう。
「国が俺たちに悪いことをするはずないんじゃないの?」「どっちでもいいけど」。
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教育とマスメディア

2010-06-23 20:45:05 | 思索
人の世界観、つまり「存在に対する概念」は、見、聞き、教わることによって形作られていく。見、聞き、教わる物事を「情報」という言葉で表せば、幼児から小学生くらいの児童は、非常に多くの、新しい情報を旺盛に取り込み、自分の中に世の中の概念を形成して行く。もちろん20歳を過ぎるくらいのまでの青少年においても新しい情報の吸収力は十分高いが、この頃になると、個人の中の世界観はおおむね形状が完成し、未知の新しい情報は減少する。

自分の中に世界観を構築することは、いうまでもなく人の基本的行為であり、この構築した世界観を基準として、人は物事を評価判断し行為する。よって、人がそれぞれ異なる経験を通じて固有に所有する世界観は、個々人にとって最も重要な所有物である。ありていに言えば、その人の世界観が、その人のモノサシということだ。この世界観が内面に備わってこそ、人は自由に考え判断し行動することができる。しかしそれは、固有の世界観が、自分が属する社会の世界観に整合しているという前提においてである。特異な世界観に基づき、あえて強引に主張や行動をすれば変人扱いされるだろう。(ex ガリレオ・ガリレイ)

以上のことは、人の外の世界と内の世界の関係を示している。世界は人を介して2つに分かれる。外の世界は、それを認識しようがすまいが普遍的に存在する。しかし、ただ存在することには意味がなく、人の内の世界に投影され認識されてはじめて人にとっての存在となる。生まれたばかりの赤ん坊の周りに外の世界は確かにあるが、赤ん坊の内なる世界にはなにも存在しない。赤ん坊はこれからの成長に伴い、知覚した外の存在を内の世界に取り込み、配置し積み上げて、長い年月をかけて概念としての世界観を形成していく。

さて、一般に人は日々の営みとして、この外と内の世界を頻繁に往来している。例えば車を運転するときは、できるだけ外の世界に注力することで危険を回避している。また、本を読んでいるときは、手にしているのは紙に写された、ただのインクのしみであるにもかかわらず、何時間も読み続けることができる。これは意識がほとんど内の世界に存在している状態と言えるだろう。

ここで、人の世界観はどうのようにして形成されるかについて再度振り返る。世界観は、見、聞き、教わることによって組み立てられる。つまり世界観は外の存在に対する知覚が要素になっているのだ。ということは、実は一般的世界観は大きなリスクを内在していることに気づかなければならないだろう。見たもの、聞いたもの、教わったものは、果たしてその存在の多くの部分を確かに説明しているのかどうか。実は重要な意味を持つ存在が、表面的には見えていない、聞こえていない、教えられていない可能性があるのではないか。

ある偶然によって、そのような隠れた、あるいは隠された事実の存在を知ったとき、いままで長い期間を費やして組み上げた概念が根底から覆る。その瞬間は足場を失ってうろたえることだろう。知らないままでいた方が、どれだけ幸福だったことかと思うかも知れない。内の世界に構築した世界観を再構築することも、気の遠くなるような労力を強いられるだろう。

実は、私達が世の中の物事を知る方法は非常に制限され、限られているのだ。情報ソースの決定版であるインターネットも広く普及し、一見、どんなことでも知ることができるような世界に私達は住んでいると思っている。また、自分は何でも知っているという気がしている。しかしそれらは残念ながら錯覚だ。最も肝心で重要な事実は、そうかんたんに知りえるものではない。

裏を返せば、ある作為をもって集団の思想や価値観を統一すること、つまり集団的に人を洗脳することは簡単にできてしまう。例えば数年前、中国国民の露骨な反日感情が報道されたことがあった。もしこの報道に虚偽が無いとするなら、これはいったい何故なのか。中国の若者がなぜ日本に敵意を持つのか。何度も繰り返すが、人は見、聞き、教えられる(知らされる)ことによって世界観や価値観を形成する。この法則的流れには不思議なくらいブレーキがかからない。みんなが「そうだ!」と言えば、「そうなんだ」とたやすく思ってしまうのだ。「ほんとか?」と疑問視する者は極めて少ない。これも人の集団的行動特性のひとつなのだろう。

以上のことより、教育とマスメディアの「役割と責任」がいかに重大であるかが分かる。それ故、これらは極めて権力に利用されやすい。いかなる権力であれ、教育とマスメディアを支配することは、国民全体を支配することに等しい。過去、私たちは何度もこのような支配に苦しめられてきたし、現在もなお同様である。教育もマスメディアも、あらゆる権力から独立していなければ、その存在は悪でしかない。
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