electric

思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

不在

2008-11-29 04:23:23 | 思索
こんばんは、ホロンです。

「それから」「不在」...。このところ、題名に妙に惹かれるものを感じています。

グールドの命日は10月4日だったんですね。それから、聖書の件、調べていただいて、ありがとうございました。僕もネット検索を試みてみたんですが、やはり一般的には神を指すのは「ヤハウェ」で、「エホバ」は誤訳のようです。

CDページで、ブルックナーの8番を思いっきり褒めて、思いっきりケナしたレビューを書いたのですが、”つまんないけれど、感動する時は半端じゃない”というのが正直な思いです。

で今はというと、ガーシュインの「ラプソディーインブルー」を聴きながらキーボードを叩いています。ガーシュインの、何と軽快で楽しく美しいことか。これに比べると、ブルックナーはやはり、お、重い。

僕もけっこう、あぶな絵はいろんな所に隠してますよ。(^^)

ではでは。
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馬娘

2008-11-22 00:58:15 | 思索
僕は馬娘に用がある。だから馬娘も僕に用がある。馬娘は僕に用がある。だから僕も馬娘に用がある。これは関数。

馬娘の用が消えたら、たぶん僕の用も消えるのだろう。ただ消えるのではない。苦悩を握り締めてかき消すのだ。そうしなければならないから。本当に消したいなんて、あるはずもない。

「用がある」を別の言葉で言い換えると「好き」になる。ただ”好き”では多分に語弊があるのでこれは補足が必要だね。

嫌いな奴はたくさん居る。居るさ。事務所の中は嫌いな奴だらけ。でもね、さほど多くはないけれど、好きな人も確かに居るんだ。用がある、つまり好きとはそういうこと。そんな好きな人達と、時間を共にするのは幸福なこと。できるだけ長く共有していたい。

僕がすべての人を好き。これはあり得ない。すべての人が僕を好き。これもあり得ない。ならば、すべての人を求めるのは、もうやめにしよう。

僕が用のある人、つまり僕に用のある人と、長く穏やかに付き合っていこう。これは拒絶ではない。今用のない人も、ある日、声を聞くかも知れないのだから。
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迷走

2008-11-16 18:22:37 | 思索
gazami さん、こんにちは、ホロンです。
私が「迷走」を読んだ時の最初の印象は、「散文」もいいな、というものでした。

gazami さんの日記は文字形態に囚われない明らかな「詩」だと、僕は思っていますが、この「迷走」はそれに対する散文で、要点を捉えたメリハリのよい気持ちのいい文章、というのが僕の最初の感想です。また、バランスの良さとノーマルさを感じました。
やはり、一番スカッと爽やかな気持ちにしてくれるのは、文末のまとめの一節でしょう。

 行くとこまで行って だめならしょうがない。
 けど まず 行ける所まで行かなきゃ 話にならない。
 行ってから 考えよ。 てな 風です。

正に!ってな風です。(^^)
これは僕の信条にとても同調するもので、拳を空に突き上げたいほどのものですね。ィエーィ!ってね。
そして、この一節でまとめるからには、gazami さんもパワーゲームを否定しないスタンスであり、また、そうあるべきだとの個人的信条を持ってられるのではないかと想像しているのですが、間違っていたらごめんなさいね。

日頃、gazami さんの詩を読んでいると、

 己にしか見えない「宝石」を
 後生大事に 譲る部分は譲るが
 そうで無い部分は 決して譲らないで
 日々を送り「終末」をニュートラルに
 受け入れられれば良いと

という部分に、確かに引っかかりもするのですが。

終末については、個人としての死は、かなり早くに観念として認識されるのだと思いますが、集団の死は意識されにくいものですね。特に右肩上がりの潮流に乗っている時には、それは無いのではないかという、錯覚に陥ることもあるのでしょう。
しかし、いまの社会、世界、情勢、などなど、人々は明らかに、終焉に類する何かに気づき始めているでしょうね。
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ショートショート

2008-11-14 22:47:12 | 思索
彩乃さん、こんにちは。

「生きてみなくちゃわからない」の貼り付け、ありがとう。またしても懐かしく、またしても、ぷっと笑ってしまいました。でも、これも確かに真理ですよねえ。

でも、20歳前後の少年少女達も、ゲーテやマン、ドストエフスキーに確かに感動する。これは決して空々しいことではないですよね。彼らの感動は、そこに描き表されている人生が分かる故のことなのでしょう。

それと、実年齢と魂の年齢は必ずしも一致しませんね。僕は自分をまだまだ、それこそ少年くらいに思ってます。もしかしたら、僕の魂の年齢は彩乃さんよりも幼いかも知れませんよ。(笑)

人生についての「ほんとうのこと」は、僕の中にもその幾つかがあって、彩乃さんや他の人の中にも、それと同質のものと、それと異なる幾つかのものががあるのでしょうね。
なかよく見せやいっこしましょうね。(^^)

ホロン
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いい話(^^)

2008-11-10 22:55:32 | Theme
キリストびっくり?聖墳墓教会で聖職者乱闘

【エルサレム】キリストが十字架にかけられ処刑された跡に建てられたといわれるエルサレム旧市街の聖墳墓教会で9日、20人以上の聖職者同士の殴り合いが起き、数人が顔などから血を流すけがをした。イスラエル警察が割って入り、2人の聖職者を逮捕した。
asahi.com

思わず、お腹を抱えて笑いそうになってしまうけど、実にいい話だなあ。聖職者さん達だって人間、そりゃあ怒って殴りかかることもあるのだろう。だから人間はすばらしいんだ。

神はすべてをお許しになる。これだけは間違いない。
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トニオ・クレーゲル

2008-11-10 19:32:44 | 思索
ありがとうございます、って私が言うのも変ですよね、と彼女は言っていましたが、やはり、読んでくださったことは、とても嬉しいことで、ありがとうございます、なのです。

読むことで、azimutが想起されたことは、やはり博識から多くがもたらされているかのごとくですね。私の場合はイマジネーションが拡がるというよりも、描かれる世界に限定されて、果てしなく深く吸い込まれていく感じでした。

  混沌から吹き上がる 一本の 火柱

  みずみずしさ。

みずみずしさ、は誰もが感じるでしょうね。青春の情感を、あれほど生き生きと描いているものはそれほど多くは無いのではないでしょうか。

話は少しそれますが、「トニオ・クレーゲル」はマンの「ウェルテル」とも称されるということで、改めて興味を惹かれ、現在、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に挑戦しています。これは過去に数回トライしていずれも途中リタイヤに終わっていますので、今回は頑張って完読を目指します。生来に散文的な私は、ゲーテはどうも苦手なようですね。

ではでは。
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人の意味

2008-11-02 20:03:07 | 思索
 病院で看護婦さんの顔を見ると、
 「ママ!」って叫んだそうだ。
 う~う。ちょっと、痛い。

うん。すごく痛いね。僕もここが一番の弱点だな。なぜ辛いのか痛いのか悲しいのか、それを理解しない幼児の痛みほど辛いものはない。幼児の虐待死など、その状況を思い浮かべようとした瞬間に精神が停止しそうになる。顔面に冷や汗がにじむ。

 人生とこの世界は、
 意味があるようでいて、意味が無い。
 意味が無いようでいて、実は意味がある……。
 どうして神様は、こんな風に、ややこしく、
 この世界を創ったのだ?

そう、核心部分だね。いま先端部の分岐点を眺めてるんだと思うよ。ここから先は、恐らく道は二つに分かれているんだろうね。何食わぬ顔をして右へ左へと流れていく人の背中を、呆然と見送りながら、真理に謙虚な人はこの分岐点に佇んでいるしかない。
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いたいけ

2008-11-01 01:20:13 | 思索
「数学ができるコがいちばん頭がいい」と子供に向かっていう親がいる。この言い分は間違ってはいるが、直感的にはそんな気がしないでもない。これは普遍的なものだろう。しかし子供にとっては、親や教師の言葉は絶大な影響を与えることが多い。言われた子供が、数学が得意ならまだしも、国語や社会が得意でも数学が苦手な子供であれば、自分は頭が悪いのだ(だからダメなコなのだ)と悲しい気持ちになることも少なくないだろう。冗談ではない。健やかでいたいけな子供の価値が、このようなことで決まるはずははない。

そもそも人の価値はどのようにして決まるのだろう。山田花子よりも麻生太郎の方が人としての価値が高いのだろうか?イラクで死んだ一兵士よりもジョージ・ブッシュの方が人としての価値が高いのだろうか?公園でテントを張っている浮浪者よりも毎日会社と家を往復している私の方が人としての価値が高いのだろうか?

真摯にこれらのことを考えたとき、「視点を定める」ことなく、一言でこの問いに答えられる人はまずいないだろう。これほど難しい問題に対し、いとも簡単に文初のように言い切る親は、思慮が極めて足りないとしか言いようがない。子供に断定的なものの良し悪しを聞かせるのは、はなはだ好ましくない。子供特有の自由な感性や広い視野は、できるだけ長く保たせてあげるべきなのだ。いずれ成長に伴い、定型化した社会の中で概念が固定化し、感性も鈍く視野も狭くなっていくのだから。さりとて、そんな親をことさら責めるつもりもない。ただ素朴に大人になったというだけのことだ。

ところで、話は少し脱線するが、橋下知事がのたまった「言って分からない子供には、身体で分からせるしかない」という言葉には驚愕した。あんたいったい、いつの時代の人なの?この言葉だけで、橋下さんはリーダーの資質も資格もないと明確に断言できる。
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