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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

二元論(風景と地図)②

2007-09-25 21:04:42 | 思索
風景は心そのもので、世界そのもの。地図は言語で構築された言語世界。言語による複写世界。

心の活動は、日常活動(挨拶言葉)から真理への接近へと果てしない奥行きを往来する。

新しい事実や真理に近接した場所では、もはや言語は意味をなさない。既成の言語は役に立たないとも言えよう。科学者や思想家や宗教家が言語を捨てるのは、この真理への接触の時ではないだろうか?しかしそれも、そう頻繁にあることではない。

人の暮らしは日常生活が大半を占める。科学者や思想家も生きるがために働きもし、買い物をし、飯を食う。日常生活を送るとき、風景を基準にすると、相応する活動は著しく奇妙なものとなるだろう。道にも迷い、脱輪もするだろう。だって、その時は心は日常にあるんだから地図を頼りにしなければ1mも歩けないよね。

さて、社会人としての雑事を終えて、人が人たる活動を開始して視線の先に真理を見定めんと、心の奥底に降りていく時、そう、もはや地図は役目をなさない。手がかりは風景一つだけ。そんな短い時をも人は暮らしの中に持つ。

(文学はこの奥行きの中間点から地図よりに、
詩は、中間点から風景よりに生まれるんじゃないだろうか?)

しかし、この心の往来が、つまり地図と風景への往来が、生き生きとして潤いを帯びた生をもたらすことを知らず、地図に日常に、のみへばりついて生き、喉の渇きに喘いでいる人々の何と多きことか。心に手を漬けさえすれば、そこには風景の手がかりがあるというのに。
コメント (2)
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