electric

思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

双子星

2009-04-28 23:20:43 | 思索
多くの場合、世界は自分を中心に回ってるのだろう。これが、結局は人が孤独である所以だ。結局は、というのは、つまりは「祭のあとの寂しさ」(吉田拓郎)ということだ。祭が最高潮に達しているとき、その渦の中にあるすべての人の心は外に放出されている。その祭もいつしか終わり、人気もまばらになった暗がりに一人佇むとき、放たれていた心が自分に帰る。そしてふと寂しさが訪れる。帰ってきたのは自分の心一つ。

そんな時、誰かが傍らにいてくれれば、心を通わせ合える誰かと言葉を交わすことができれば、ふと寂しさを忘れる。心は外と自分を行きつ戻りつ、いつまでも相手の心と戯れる。このとき二人の、あるいは三人の世界は自分を中心にではなく、互いに互いを回り合っている。双子星のように。

自分一人の中に心をしまい込んでしまわなくてもいい。ほら僕はここにいるよ、と君は声をかけたいんだよね。
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倫理による証明

2009-04-27 23:10:15 | 思索
神が存在するか否かを論理で証明することはできない(神の定義は難しいが、ここではキリスト教の理念による神とする)。しかし、ドストエフスキーは著書「カラマーゾフの兄弟」の中で、神の不在を倫理で証明している。人の中には断じて覆せない倫理があり、そこに基づいて語られるものは証明と言える。とはいえ難しい話ではない。ドストエフスキーのように子供のを想えばいいのだ。親に虐待されて死ぬ子供、白血病であと数ヶ月の命の子供、地雷で吹き飛ばされる子供を想う時、そこに神の姿はまるで見えない。

しかし子供を身勝手に殺す親の倫理はどうなのだ。人の中には不動の倫理の反存在も確かに在る。そして時折現れる。それがモラルハザードだろう。しかしモラルハザード自体がまた神の姿を虚しく霞ませる。つまり倫理もその反存在も、同様に神の不在を証明しているのである。
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アマテラス

2009-04-24 00:19:03 | 思索
お袋が脳梗塞で倒れ帰らぬ人となった時、淡々と思いを巡らせたのは、遠い記憶を遡りながら、あの時は嬉しそうだったな、またあの時は楽しそうだったな、きっと幸せだっただろうな、と、お袋の幸福を数え、その時間を足算することだった。というも、辛いこと、悲しいこと、苦しいことの積み重ねを必死に耐えて生きたお袋の人生を、どうしても幸せなものとしたかったのだ。幸せな人生とは何か、不幸な人生とは何か。辛い人生を生きたお袋の最期は最も痛ましく悲惨だった。生きることを終えたその人の人生が幸せであったか否かは、どう考えればいいのだろう。死ぬ直前がどうであったかで決まるのか?いや違う。

「地上に悲しみが尽きる日は無くても、地上に憎しみが尽きる日は無くても、それに優る笑顔が、ひとつ多くあればいい」(泣かないでアマテラス)

そう。僕は中島みゆき、に賛成だ。幸せな人生とは幸せの積分(足算)なのだ。僕は今、たぶん苦しい中にあるのだと思う。少なくとも5年前よりも間違いなく苦しい。このまま終わるのかも知れない。しかし既に、僕の人生は幸福な人生だったのだ。
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なるほど

2009-04-22 22:45:48 | 思索
学会さんは世界中すべての人々を皆、信者にしたいとのこと。ずいぶん前ではあるが、テレビの討論会で学会幹部(or公明党議員)が言っていた。司会者が「何故?」と尋ねると、「宗教なんだから当然でしょ。」との返答。なるほど。もともと好きでもなかったが、この時、決定的に世俗的宗教が嫌いになった。別に難しい話しではない。彼らは、世界中の価値観、倫理観を統一し、善悪正誤の判断や、人生の意味や目的を唯一に定めると言っているのだ。こんなこと、とうてい尋常とは思えないし、実現するはずもないことではあるが「それが宗教の本質であり、存在することの所以だ」と言われれば、なるほどと納得させられてしまう。数ある宗教はどれも、世のすべてを包括した絶対的解を有している(だから人を幸福にし、また不幸にもする)。逆説的に、それぞれの解が異なる故にそれらすべてが解ではないとも言えるが、彼らにとっては絶対であることが「信仰」という極めて特殊な精神現象につながるのだろう。しかしそんなことより、個別の集団に異なる絶対解が実在することの方が重要だ。これが何を意味するのか。つまり、それこそ絶対にお互い相容れず、話し合いや議論はまったく成立しないということだ。信者であるが故にこれほどまでに視野が狭くなり、人が個々異なることを受け入れられず、相手を全否定し、時には凄惨な争いにも至る。いったい何のための宗教か。宗教が信仰によって成り立ち、信仰を「ある特定のものを絶対と信じて疑わない」と定義するなら、宗教(団体)の存在そのものが間違いであると言わざるを得ない。
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Rei

2009-04-21 20:55:28 | 思索
一般には、強迫観念や雑念などで、通常の思考を妨げられる場合を思考障害と言うんだと思うよ。Reiは思考すること自体を問題としてるから、少し意味が違うね。これがReiの意志とは関係なく、心の反応として否応なく考えさせられてること、それをいくら考え続けたって解答には到達しないし、何か事態が良い方向に向かうという訳でもないということもReiは分かってるんだよね。だから考えないというのが正解で、これは間違いないんだけど、実はそれが簡単には行かないんだよな。その思考を止めてしまおうとすれば、捕らえどころの無い不安に襲われそうになる、むしろ考え続けて問題を側に置いておいた方が、何かしら落ち着いていられる。これも一つの法則に基づいた心の動向だね。

いわれの無い事を考えさせられる、その考えを止めると、いわれの無い不安に襲われる。ほら、どちらも、いわれの無いことなんだ。その考えを止めたからって、誰にも迷惑をかけないし、誰も困らない。ただReiが一人、不安になるだけだ。自分が辛いだけなら耐えられるよね。だから安心して考えるのを止めればいい。そして眠れる本来の力を優しく起こしてあげよう。

止めると言うのはね、完全に思考を止めてしまうということでは無いんだよ。そんなことは誰にも出来やしない。その思考は存在するものとして置いておいて、本来考えるべきことを考えるということなんだよ。すると、そのうち向こうが飽きて、人知れず去って行ってくれる。
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現人神

2009-04-20 22:56:28 | 思索
現人神(あらひとがみ)は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉。大日本帝国憲法第3条は、天皇を現人神としその神格を認め、その地位を法律よりも上に置くことを規定している。(Wikipedia)

これは第2次世界大戦終結までの天皇の法的位置づけであり呼称であるが、現在もなお天皇は、やはり現人神なのである。人として生まれながら、無条件に国家、国民から絶対的者として崇拝される宿命にある天皇家の人々の苦悩はいかばかりか。様々な人生が人それぞれにある。この素晴らしき人生を味わい生きることができるのは人であるが所以であり、人権として保障もされている。しかるに絶対者である天皇には、己の人生を生きることが許されない。生涯、既に定められ形作られた生き方、在り方に従うのみ。国や社会からただ利用されるだけの存在。人であるにもかかわらず、これは最大の人権侵害と言えるのではなかろうか。自分自身を見つめてみても、無条件に崇められると考えただけで、その場から消えて無くなりたくなってしまう。そういう意味では、ひたすら堪え忍び、国民の天皇でありつづける天皇には驚嘆するし、尊敬にも値する。

昭和天皇の最大の功績は(と言っても、これもその存在を利用されただけなのだが、そうと知りつつ天皇で在り続けたことは功績とも言えよう)、何といっても、戦後日本が速やかに民主国家、平和国家として成立するのに、大きく貢献したことであろう。これは天皇が、国家、国民の真の絶対者であった故に他ならない。しかし現在ではそうもいかない。またそうである方が好ましいのであるが、なるが故に、天皇家の苦しみや悲しみが聞こえてくるのである。もう解放されてもいいのでは?とも思うがなかなかそうもいかないのだろう。これもまた、よく分かる。実に難しい。
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ダイナミクス

2009-04-16 21:07:25 | 思索
寒い、苦手な冬のあいだ、ただひたすら待ち続けるのは、桜の咲く季節。満開の桜に青い空、その下で風を感じる。ただそれだけで胸弾み心踊る。さあ、目覚めるぞ。さあ、始まるぞ。毎年一回、必ず感じさせてくれる幸福。精神は躍動なしには生きられない。停滞の継続は精神を死に至らしめる。精神を停滞から解き放て。ダイナミズムの中にこそ、幾多の生命が生まれ得る。これは個も集団も同じこと。人も社会も同じこと。春はSpring。意味はダイナミクス。
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順応する力

2009-04-14 22:56:57 | 思索
そうだねえ。そもそも「信仰」の根源は「謙虚」なんだろうね。人が世の最高位に君臨するのではなく、自然や環境の中に、決して人が超越し得ない力(これはシステム、あるいはメカニズムかも知れない)を感じ取り、怖れ、崇め、ひれ伏す。つまり、人が万物の長ではないことを認め、素直に自己を否定する「謙虚」。だから異民族、異文化固有の信仰がそれぞれに生まれたんだろうね。瞳や肌の色が違っても、同じ人だからね。この、人と世の本質に基づく信仰心は、ごく自然なことであり、時に必要なことであるとも思う。

しかるに、国策として何かを(これは人でも国旗でもいいが)神、あるいは絶対者に祭り上げ、国民に信仰させるのはいかがなものか。これは思想操作、つまり洗脳に他ならない。実際、東京都や広島県では、入学式や卒業式で国歌を歌わない教員を処罰しているのは知っての通り。国であれ故郷であれ、何を愛し何を忌むかは、個人の選択ではないか。国みずから「国を愛せ」と強要するのは、明らかに人権侵害だ。小中学生の教科書の副読本に「国を愛しましょう」と書くのも同じこと。むしろ教員を処罰するより罪は重い。

しかしまあ、人は何故これほどまでに洗脳されやすいのか、また、思想を同じくしたいと欲するのか。これが人は独りでは生きていけないという意味なのか。人は風土と文化に順応して生きていくことができる。この人を人たらしめる順応する力がすべての源であるような気もしてくる。
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信仰と国家

2009-04-13 23:20:38 | 思索
「信仰」の文字をYahoo!辞書で引くと、神仏などを信じ崇めること、の他に、特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと、とある。信仰する者と、そうでない者との違いは、自身の主体を他におくか、己におくかにおいて表裏のように相反することである。信仰者のことを「主(あるじ)持ち」などと言うが、主従の関係において信仰者は絶対的従者であり、絶対的主によって全てを支配されている。因みに僕は信仰はないので、僕の主体は己であり、何者にも支配されず全ての言動は僕自身の責任に基づいている。

さて、絶対的主に従属する信仰者を、戦前の昭和天皇に対する日本国民に重ね合わせて見ることができる。これは寸分違わない。天皇イコール国家でもあったであろう。国の主権は天皇にあり、国民は皆天皇を信仰する信者であった。天皇を絶対のものと信じて疑わなかったのである。これは正に宗教国といえる。よって天皇のため、国のために国民が命を投げ出すことは大きな名誉であった。これはイスラム原理主義などとも一致する。イラクでは今なお自爆テロが続いているが、自爆する彼らに恐怖など無く、主に命を捧げることはこの上ない喜びなのである。

戦後、天皇は象徴となり主権は国民に移った。ここに日本国民は主を失い、自らが従から主へと転換して現在に至る。天皇制日本帝国も含め、信仰、宗教の名の元に、これまで幾人の人が命を落として来たのだろう。人や集団は如何様にも変わり得るが、国家主義であれ新興宗教であれ、思想統一ほど恐ろしいものはないことを、主体を己とし、自らの責任に基づいて発言し行動する日本人は、決して忘れてはならない。
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一点の曇りなし

2009-04-11 01:34:07 | 思索
憲法第九条は時に、神様からの送りもの、とか、人類の誇り、などと例えられることがある。

互いに他人である二人が話し合って物事を決めようとするとき、その結果に両者の利害が絡む場合、互いが自分に有利な結論を得ようとする自己主張に終始するため、話し合いはいつ果てることなく続き決着することはない。相手がこちらの主張を頑として認めない。ならば最後には相手を殴るのか。殴り合いになったら強い方が勝つ。しかし負けた方もそのまま黙ってはいない。死んだふりをして相手がよそ見をしているときに、頭突きを叩き込むかも知れないし、身体を鍛え技を磨いて、機を伺って反撃するかも知れない。つまり殴り合いによっても問題は決着しない。互いに深い傷を負って、痛みにうめくだけではなく、相手に対する憎しみを深めていく。本当は二人共こんなことは望んではいない、平和に、穏やかに暮らしていたいのだ。しかるに、人の世はかくもままならない。

この図式は、国家間の対立にそのまま当てはまる。相手が言うことをきかなければ最後には殴るのか。他国が言うことをきかなければ、最後にはミサイルを打ち込むのか。暴力が、戦争が何も解決しないだけでなく、ただ悲惨を産み続けるだけであることは、歴史が、また現在が証明しているではないか。ならば、全世界の人々の願いを叶え得るのは「紛争解決の手段として、武力の保有および行使は、永久にこれを放棄する」という解に至る。唯一この方法しかない。これに一点の曇りもない。だから、いつ果てるとも知れない話し合いを根気よく、忍耐強く続けていくのだ。
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今この瞬間

2009-04-07 23:45:37 | 思索
 ☆  ☆  ☆

 違うよ・・

 「昨日」の次の日として「今日」があるんじゃなくて・・
 ただ「今日」の前に「昨日」があるんだ

 「明日」の前の日として「今日」があるんじゃなくて・・
 ただ「今日」の次に「明日」があるんだ

 生きているのは、「今」なんだ!

 ☆  ☆  ☆

 未来のよき思い出のための今じゃなく・・
 過去のわるき結果としての今じゃなく・・

 「今」 生きているこの一点を 真剣に 生きたい


そうだ! 投稿者:ホロン 投稿日:04月07日(火)23時40分35秒

その一点が全てを語ってる。その一点さえ見逃さなければ、何度バランスを崩したって、向こうまで歩いて行くことができる。手で目を塞いで見ないつもりになっていたのは、もう終わりだ。心の目が開いているんだから。
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栞さん

2009-04-06 23:33:52 | 思索
栞さん 投稿者:ホロン  投稿日:04月05日(日)12時26分46秒

昨日は、緊張がピークに達しながらも、頑張って出席してくれてありがとう。栞さんの緊張の話を聞いてたら、emiが初めて出席した時に、お母さんに「緊張して死ぬかもしれない」と、言って出たという話を思い出してしまったなあ。

栞さん、全然心配ないよ。極度に緊張して家を出て、着いたときにはそれがピークに達して色々思い描いていたことも全然できなくて、みんなに気を使わせたと思ってしまって、帰り道に一人で反省会したのも、全て、うつ気分のセオリー通りの心の動きだよ。これは、うつ気分に強引に操作されてのことだから、多少抵抗しても、なかなか覆せるものではないね。これが、栞さんが心の負荷を持っている所以だね。

栞さんの意識とは無関係の、うつ気分の仕業だから何ら心配すること無い。治し得る対象となるものだよ。emiや、はるかが一見、意外に元気に見えて驚いたかも知れないね。特にマイク持たせると、彼女たち別人になるからね。(笑)
でも、深層にはやっぱり深いものが色々あってね。現在表れているのは、ある1つの段階なんだ。その段階によって色々と表れ方が違う。栞さんも、今1つの段階に立っているということだね。
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あんぱん

2009-04-06 23:16:15 | 思索
投稿者:ホロン  投稿日:04月03日(金)00時40分25秒

君のモノの見方考え方は決して甘くはなく、むしろシビアに正確で厳しささえ感じるんだけど、やはり若さが満ちあふれてるって所かな。それで良いんだよ、若いんだから。変に悟ってしまうとつまらないからね。でも、やっぱり、あんぱんは彼にヒドイ目にあったのを、よほど恨みに思ってるんだね。(笑)

好きな奴とは「友達」になれる。嫌いな奴とは「友達」になれない。ただそれだけのことだよ。それがハッキリしてればそれで良い。ただ、何故好きなのか、何故嫌いなのかが、大体の理由は分かる気がするけど、ハッキリしないね。不思議だね。オレは何故あいつが好きなのか、何故あいつが嫌いなのか、と考えると何となくは分かるけど、決定版が見つかりにくいってこと無いかい。友達がすごく沢山いる人、逆にとても少ない人、いるよねえ。これは一体何故なんだろう。
さて、明日からまた東京に出張です。週末まで帰りません。みなさん、よろしく。

投稿者:あんぱん  投稿日:04月02日(木)23時45分06秒

先日は,選挙の話しとか書きすぎたのかどうかは別にして、ただあんぱんとして、あくまで自己紹介の一つとしてカキコしたつもりだった。つまり個人的には、履歴書に毛の生えたようなものっていうのか、出身校名とか企業名とかを名乗るよりも、あんぱんはどういうことを考えて、どんなポリシーを持っているかを言うことこそが、自己紹介の一つだと思ったので、つい書いてしまいました。もし不都合だとしたらごめんなさい。あまりにも無神経だったかもしれませんでした。
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生かされている

2009-04-01 23:42:20 | 思索
金魚鉢の金魚は確かに生かされている。2日もエアレーションを止めれば、確実に死ぬ。幼児の生命はすべて親にゆだねられている。生かすも殺すも親次第。これも生かされていると言える。2例共とても分かりやすく容易にうなずける。しかし自立している大人が”生かされている”とするならば、この概念はなかなかに難しい。教義として”生かされている”キリスト教信者達は例外として、一般人の多くは、自分自らが生きているのだと思っていることだろう。

しかし、神と信者の関係は、一つの分かりやすいヒントを与えてくれる。自然の摂理と人との関係が、正に神と信者の関係に重ね合わせて投影されているかのようにも思える。とりあえずとして、人は自然の摂理に従属して生きており人は自然の摂理をこえることはできない、としても大きな問題はないだろう。

偶然もまた摂理。明日事故に遭遇して死なないとも限らないし、突然大病を患わないとも限らない。つまりは、人は自然の摂理の制約の中で、自然の摂理の意のままに「生かされている」ということになる。そんな今、多かれ少なかれ、幸福を感じることのできる人は、そのように”生かされている”ことに、おのずと感謝が生まれるのであろう。
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