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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

静電シールドの実験(静電誘導ノイズの遮断)

2010-07-30 21:35:04 | 電子回路
【考察】
SW2オフにて、グランド板を基準(0V)としたシールド板の電位は約0-4V(サイン波50kHz)
この状態でSW1をオンにすると、当然ながらGNDとOUTは同じ振幅で振られる。
しかしながらGND-OUT間電圧は相対的に不動であるから、オシロスコープでGND-OUT間を測定した場合、ほとんどノイズは観測されない。
これが静電シールド(シールド線の場合はSGに1点接地)の原理である。
条件④がもっとも効果が高かったのは、大地接地でノイズを遮断した上で、さらに静電シールドの原理が働いたからであろう。

関連記事:ノイズと対策 ツイストペア、シールド線 2010-02-05
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ある、お金の寓話②

2010-07-25 21:28:54 | 思索
さて富裕者の勾玉は増えに増え、しだいに保管場所に困るようになってきました。また不用意に置いておくと誰かにこっそり盗まれるかも知れません。そこで村一番の富裕者である金幸彦は勾玉を保管しておくための頑強で巨大なお蔵を建てました。これで当分は安心です。

村の他の富裕者たちも同じように勾玉の置き場に困っていましたが、金幸彦のお蔵の話を聞き、勾玉を預かってくれるように金幸彦に頼みました。金幸彦は預かり料として、いくらかの勾玉を拝借することを条件に預かることを引き受け、四角い小さな絹の布きれに印を押して預り証として渡しました。

金幸彦の預り証は勾玉がそうであったのと同じように、わざわざ金幸彦のお蔵から勾玉を引き出して使わずとも、預り証がそのまま取引に使われるようになりました。そしていつしか村人は預り証を金布と呼ぶようになりました。

さて村には多くの貧者がいました。また新しい性能の良い道具をたくさん手に入れて、今の生産量をさらに増やしたいと考えている人たちもいました。金幸彦はそんな人たちを眺めながら、ふと名案が浮かびました。彼らに必要な勾玉を貸してやって、彼らが用を成した後に、貸した勾玉の量よりもいくらか多くの勾玉を返させれば、自分の勾玉がまた増えるじゃないかと。もし借りた人が返せなければ?なに、家でも没収すればいいだろう。

これが現代で言うところの銀行の原型です。返してもらう“いくらか多くの勾玉”が利子になりますが、利子は何も生産してないものに対する勾玉、つまり無から生まれた勾玉ということになります。村長の発行する勾玉の量は村の総生産に1:1に対応していますが、この利子をどう扱うかはちょっと難しいところです。しかし村には、富裕者たちにマッサージを施したり、運勢を占ってあげたり、体格のいい男が生産者では運べない重い商品を担いで運んだり、実は村長も預り料をくすねていたりして、何も生産していないのに勾玉を手に入れている人たちが、すでにたくさんいました。つまりサービス業です。同様に銀行金利も、金幸彦が金貸しを思いついた時点に限れば、サービス業として認めていいのではないでしょうか。

さて金幸彦は、貧者や新しい事業を考えている村人たちに、自分の勾玉を担保にして金布(勾玉の預り証)を貸し出しました。この計画は大成功し、金幸彦は儲けに儲けいまや村では突出した大富豪になりました。もはや貯めた財産を使い切ることもできません。しかし金幸彦は考えます。もっと儲けたい。

すでに金幸彦はあることに気付いていました。富裕者たちから預かっているお蔵の勾玉はほとんど動かないのです。村では預り証である金布での取引が主体になっていましたからそれもそのはずです。ならば、と金幸彦は考えたわけです。預かっている勾玉の、確実に変動しない分を担保に金布を貸し出してもいいんじゃないか?

この作戦も大当たりでした。もう金幸彦は財産の中に埋もれています。しかし金幸彦は考えます。もっと儲けたい。(お蔵の中のことを知っているのは俺だけなんだ)

栄えていく村の様子に反して、海幸彦の心はすさんでいました。昔はこんなに泣いている人たちがたくさんいただろうか?海幸彦は子供の頃の多くの笑顔を思い出しました。するとなんだか自分も泣けてきました。いま、村には何でもある。子供の頃には見ることもなかった贅沢なものもたくさんある。自分も家を新築したし、服も何着もあるし、馬だって2頭いる。だのになぜ、こんなに多くの人たちが泣いているのだろう?その理由はわかりませんでした。

いつまでたっても海幸彦の気持ちは晴れませんでしたが、あるとき旅に出ようと思い立ちました。そして一頭の馬と共に海幸彦が旅立って、どれくらいの年月が流れたでしょうか。戻ってきたはずのこの故郷の地にはもはや故郷はありませんでした。そこに人は誰もおらず、海幸彦の足下の荒れ地がただ延々と拡がっているのみでした。

関連記事:ある、お金の寓話① 2010-07-10
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都市

2010-07-23 16:11:35 | 思索
システマティックで便利。
何かと暮らしやすいように都会は作られているが、
その暮らしやすさがシステムによってもたらされているということに実は致命的なリスクがある。

もし主要な都市に供給しているすべての電気を止めれば、都市は3日と持たない。
それで日本は滅ぶ。なんと脆弱なことか。
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頑張った人?

2010-07-19 22:05:20 | 思索
小泉、竹中が言ったっけ。
「頑張った人が報われる社会にする」

で、企業の伝統的な人事制度が廃止されて成果主義などに無理矢理変えさせられたりしたが、ほんとに頑張った人が報われる社会になったの?

やったことは新自由主義に基づいて市場競争を煽ることだったから、大勝ちする人もいれば、大負けする人も当然に出てくる。結果的に極端な格差社会になるのも当たり前。

これって、博打や賭博とほとんど同じじゃない?計画的にやったの?
頑張って報われた人はいいけど、頑張ったけど報われなかった人もたくさんいたじゃないか。そんな人たちには「おまえが頑張らなかったからだ」というわけ?

競争だから簡単なことだね。例えばオリンピックの100m競争。
優勝した人は頑張ったから優勝したの?8位に終わった人は頑張らなかったから負けたわけ?そんな馬鹿なことはない。選手はみんな頑張ったんだ。

パイの数は決まってるんだから、もし誰かがたくさん取っちゃったら、わずかな残りをみんなが取り合う。ゲームが終わったら、1つも取れなかったって人もいるだろうね。

「頑張った人が報われる社会」なんてのは大嘘つき。あり得ない。

小学一年生のよい子に教えてもらったら?
「みんなで仲良く分け合ったらええやん」てね。


*大人になって走り始めたらもうおしまい。
*こんな当たり前の理念を忘れてしまって、考えてる暇などない。
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ある、お金の寓話①

2010-07-10 00:17:47 | 思索
海幸彦が海で釣り上げた魚、海に潜って採ったサザエ、浜辺で集めたハマグリ、これらを海幸彦が生産した商品としましょう。同様に、山幸彦が山でしとめたキジ、松林で集めたキノコ、竹林で掘り出したタケノコ、これらも山幸彦が生産した商品です。このようにして、ニワトリを育てて卵を産ませる人や、麻を織って生地を作る人、狩猟のための道具を作る人など、様々な商品を生産する人たちがいました。

さて、商品の取引は物々交換から始まります。しかしさすがに物々交換は不便なので、皆で話し合い、同じ色と形の勾玉を商品の「価値」に代わるものとして決めました。海幸彦が釣った魚は勾玉10個、山幸彦のキジは勾玉15個、タケノコは勾玉5個、卵は勾玉2個、という具合です。

みんなが生産した商品はいったん村長のお蔵に集められ、村長は持ち込まれた商品の価値に相当する数の勾玉を持ち込んだ人に渡します。これで欲しい品物を手に入れることがずいぶん楽になりました。今夜の食事はタケノコの煮付けにしようと思った海幸彦は、勾玉を5個持って村長を訪れ、勾玉とタケノコを交換すればいいのです。

ある日、山幸彦はいつものように山に猟に出かけました。その日は大猟で二日分の商品を生産しました。そして、それを村長のお蔵に納品して勾玉と交換しました。二日分の収穫があったので、山幸彦は次の日は休みにして、凧揚げやコマ回しをして一日遊びました。同じ日、海幸彦の方は不漁で、魚も貝もまったく採れませんでした。でもお腹は空いています。財布を調べると、まだ幾らかの勾玉があったので、村長を訪ねて17個の勾玉を支払って、キジと卵を持ち帰りました。今夜はキジ鍋のご馳走です。

勾玉を使うことにすっかり慣れた村人達は、欲しいものを求めて必ずしも村長の蔵に行かずとも、村人同士で商品と勾玉を直接交換することも盛んに行われるようにもなりました。

先に山幸彦の大猟と海幸彦の不漁のお話しをしましたが、多くの種類の商品の中には、一日当たりの生産量がほぼ均一なものと、日々変動するものがあります。海幸彦と山幸彦の商品は自然を相手にして生産しますから、とりわけ生産量が変動しやすいものになります。これに対して、原料を蓄えておくことのできる、麻生地の生産や狩猟用道具の生産などの製造業は、生産量が比較的均一になります。

(価値と価格)
ある日、山幸彦の猟は不調でマツタケ3本だけでした。とりあえず村長の所で、7個×3の勾玉に交換しようかと小道を歩いていると、通りかかった村人が山幸彦の商品を目ざとく見つけ、「兄ちゃん、いいマツタケ持ってるねえ、勾玉と交換してくんない?」と言ってきました。山幸彦は村長を訪れる手間も省けるし、特に異存も無かったので、「ああ、いいっすよお」と応えかけたまさにその時、もう一人の村人が通りかかり、「あっ!それ俺もほしい」と割って入ったのです。

さてもめ事になりました。山幸彦は別にどちらの村人と交換してもいいのですが、村人は互いに引きません。とうとう一方の村人が、マツタケを取決めの2倍の数の勾玉と交換するから俺にくれと言い始めました。それを聞いて、山幸彦ももう一方の村人も驚きましたが、事態を理解したもう一方は引き下がらず、ならば俺は3倍の勾玉と交換すると言って対抗してきました。協議の末、結局、山幸彦は3本のマツタケを7×3×3=63個の勾玉と交換しました。山幸彦は何が起こったのかまだ十分に理解していませんでしたが、21個の勾玉と交換されるはずだったマツタケが63個の勾玉となって手に入り、何やらとても嬉しい気分になりました。

その夜、山幸彦はいろいろと考えていました。マツタケの価値は勾玉7個で、これは不変です。しかし実際にはマツタケ1本当たり21個の勾玉と交換されたのです。山幸彦は「そうか!」とハタと気づきました。商品の価値と取引価格は別物なのだ。そう。つまり商品の価格は商品の価値が要因になりますが、価格そのものは市場が決めるのです。

分かりやすい例として郵便切手があります。1948年発行の有名な記念切手「見返り美人」は、郵便用としては5円の価値ですが、切手商に持ち込むと5000円以上で買ってくれます。

さて、ここで商品の価値についてもう一度検討してみましょう。マルクス経済学によると、商品の価値とは、その商品の生産に費やす「時間」です。とするなら、海幸彦が7時間かけて釣り上げた魚が1匹だけだった場合と、10匹だった場合、1匹の魚にも10匹の魚にも同一の時間を費やしていますから、1匹の価値と10匹分の価値は同じということになります。価値は価格に反映しますから、例えば、豊作の年の農作物の価格は安く、不作の年の価格は高いということですね。また工業製品なども大量生産により、価格はどんどん安くなっていきます。

(経済成長)
話を戻しましょう。勾玉を使い始めてから色々な品物が簡単に交換できるようになり、海幸彦は前よりも強靭な釣竿や釣針、かねがね欲しかった道具などを手に入れました。ほかの村人達も同様です。その後、海幸彦の漁は大漁に次ぐ大漁、山幸彦の狩猟も絶好調で、ふと気が付くと、その年の村内の総生産は昨年の2倍になっていました。商品としての価値の総計とそれに相当する勾玉の数は一致しなければなりませんから、村長は商品が増加した分だけ勾玉の発行を増やします。村内には商品の種類と量が更に豊富になり、村人の財布の中の勾玉の数もずいぶん増えたので、村人達は生活必需品以外にも、欲しいと思う品物を余った勾玉を使って手に入れるようになりました。村の経済が成長したのです。

(貧富)
こうして村人の生活水準は向上しましたが、すべての種類の商品が均等に消費されるわけではありません。生活の向上に連動して、ある商品は飛ぶように消費され、ある商品はほとんど見向きもされなくなりました。人気商品はいくらたくさん生産してもすぐに消費されて、村長のお蔵の在庫も品薄です。生産者の財布は勾玉が溢れんばかりに膨らみます。反対に不人気商品はなかなか消費されず、村長のお蔵に持ち込もうとしても、ある程度在庫が減らなければ、村長は受け取ってくれません。直接取引も芳しくないし、村長のお蔵に入れることもできないとなると、これはもう捨てるしかありません。生産者の財布の勾玉はもう底に着きそうです。このようにして、村には大きな貧富の差が生まれました。

(搾取)
貧困と富裕がいれば、そこに力関係が生まれます。富裕者が貧者に対して、勾玉をやるから俺の言うことを聞け、と言うわけです。貧者は悔しくても飢え死にするよりは従ったほうがましと考えます。この時点で、富裕者は貧者に対する主人、貧者は富裕者に対する従者となりました。従者は主人に何をどれだけさせられて、どれだけの勾玉をもらえるのかまったく分かりません。すべては主人が決めることです。

さて、富裕者は一人力の生産力を得ました。そして夜明けから日暮れまで働かせました。従者が生産した価値は勾玉50個分に相当しましたが、従者にはそれが分かりません。主人は約束どおり従者に勾玉をわたしましたが、その数は10個でした。これだけでも従者はこの村での最低限の生活はできます。従者は主人にお礼を言って帰途に着きました。こうして貧者は来る日も来る日も富裕者の家に通い、貧者は貧者であり続け、富裕者は労せずしてますます富を膨らませていきます。

こうして目出度くも悲しくも、村は華やかに栄えていくのです。行き着く先に破滅と言う終着点があることなどつゆ知らず。

関連記事:ある、お金の寓話② 2010-07-25
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科学は人類を幸福にしたか?

2010-07-06 21:16:31 | 思索
太陽の塔で有名な、70年万博のテーマは「人類の進歩と調和」だった。

人類の進歩といっても、別に人の身長が伸びたとか、頭が良くなったというわけではない。人は体つきも、能力も、考えていることも、やっていることも2万年前の人と何ら変わらない。

進歩したのは科学技術なのだ。

さて「便利な世の中になったものだ」とはよくいうが、なぜ科学技術は進歩したのだろう?また、科学技術の進歩は人を幸福にしたのだろうか?

進歩すべくして進歩したというのは、たぶん当たらない。例えばアマゾンのジャンルの奥地には、原始人同様の暮らしを続けている土着民がいるのだ。「疑問」から科学が生まれるとするなら、彼らは疑問を捨て去ったことになる。実際そうなのだろう。すべてを受け入れてしまえば疑問は生まれない。

さて、科学技術の進歩は人の多くの望みを叶えてきた。と同時に多くの不幸をもたらしてきた。科学技術は常に両刃の刃として働き己を相殺する。ならば科学は人にとって無価値と言えるではないか。相殺するのだから有っても無くても同じこと。

ここにアマゾン奥地の土着民が一つの解として浮上する。再度確認するが、彼らは現代に確かに存在しているのだ。

文明人と未開人。総体として両者は対等と言える。いやむしろ、自らを絶滅させないという点において、未開人の方が優れている。文明人はそろそろ原点に帰るべき時が来ているのかも知れない。
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【もぐら叩き】による品質の向上と事故低減

2010-07-02 22:43:53 | 安全・品質
品質および安全性向上のための方法として「モグラ叩きゲーム」を考えてみるのも一興である。

この時、穴から顔を出すモグラが品質不良であり怪我等の事故である。
また、モグラおよびモグラが顔を出す穴をハンマーで叩けば、モグラは出てこれないものとする。

プレーヤがまず最初にやることは、モグラが出てきそうな穴を見当を付けて、あらかじめ叩いておくことである。工場における実際の作業工程においては、不具合の発生しやすい箇所、事故が起こりやすい箇所はある程度想定することができるので、それに対しては事前に手を打つのは当然であろう。この時の手法としてリスクアセスメントなる方法を用いてもいっこうにかまわない。

さて、ゲームスタート。
あらかじめ塞いでおいた穴以外の穴から。モグラがぴょこぴょこと顔を出す。ここで、このゲームの本質を知らない人は、事前に塞いだ穴意外のところからモグラが顔を出すとは何たる不手際かと思うだろう。しかしこれは当然のことが起こっているに過ぎない。品質不良や事故は必ず想定外の所に発生するものなのだ。

そもそも、どのような作業工程であれ、そこに潜む不具合や事故のすべてを想定することは不可能である。未然に防止できたとしても、せいぜい1割程度であろう。なぜならば、根拠に基づいて想定することが極めて難しいからだ。

さて、このゲームの本質を知っているプレーヤは落ち着いたものである。まず最初に顔を出したモグラを確実に叩く。これによって、このモグラが出ることは2度とない。また、この最初に出たモグラの性質から、その他のモグラが出てきそうな穴を根拠を持って想定できるので、あらかじめその穴を叩いて潰してしまう。これはかなり確度の高い予防保全となる。

しばらくすると、また別の穴からモグラが顔を出す。これも確実に叩き潰す。あとはこれの繰返し。結果としてすべてのモグラは沈黙してしまう。これがもっとも最短時間、低コストで最大の効果を上げる品質保証、安全保障の方法である。

品質の国際基準であるISO9000がこの“再発防止”という手法が最も確実性が高いものと規定していること、また全世界の工場がやはりこの方法を持って品質保証、安全保障を行っているという事実が、方法としての妥当性を示していると言えるだろう。
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