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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

人は何処から来て何処へいくのか

2007-11-30 21:17:26 | 思索
テキトーでいいんですよ、テキトーで。(笑)
「テキトー」や「いい加減」の中に、如何に人と人の世の真実があるかをいつだったか、確認し合いましたよね。例えばマグダラのマリアに仄かに心ときめかすイエスの人間臭さにもそんな雰囲気があるんじゃないでしょうか?僕達は、よき意味での「テキトー」や「いい加減」に身をゆだねていくことができればナイスだと思います。

もう一つ、前に戻って、科学者や思想家や宗教家も大切な日常生活を持っているわけですよね。働き、遊び、買い物をし、談笑し、飯を食う。この日常生活が、彼らの思考や感性や判断力に対してどれほど力になってくれていることか。想像に難くありませんね。日常は生体と精神を整えるための欠かせない「リズム」ではないでしょうか。言葉をお借りすると、”生き生きとした現実への還流”がこれに相当するように思います。

えっと、くどくど書いてしまいましたけど、つまり時には、”大いにテキトー”にやりましょう、ってことですね。(^^)これは、「象徴的にしか語れない真実」にも通じるような気もします。

「人間が、どこともしれない暗くて遠い世界からこの世にやってきて、またずっと遠い世界に去っていく……。」

うん。全てがこの言葉に帰結しそうですね。そうやって人は旅をし、またその”何処”を探るのが人類の永遠の旅ですね。これを地図寄りに、こんな風に考えてみるのはどうでしょう?子供の頃の僕は居たし、大人の僕も今ここに居る。でも子供の僕は今はもう居ない。いったい何処に行ってしまったんだろう。

ずっと昔に生まれてきたら、修道女か尼さんになっていたかも、という気持ちはと~っても分かりますよぉ。風邪はもうだいぶ良くなりました。ありがとう。

ホロン

-PS-
虚偽に満ちたこの世界では、時に真実は危険極まりないものとなりますね
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技術、開く世界

2007-11-26 22:54:59 | 思索
「遅くなってごめんなさい。」

いえいえ、適度な日にちをおいて、その間合いを楽しみましょう。あまり急ぐと息が切れてしまいますね。全てを包括して、人生はゆっくりがいいのですよ。
(^^)

「同じようなこと考えてる人がいるんだなぁ~と思ったのでした。」

これは嬉しいですねえ。同じ視点でものが見える人に出会うと勇気と自信をもらえますよね。これはお互いに持ち合い分け合えるもので、僕もこれほど嬉しいことはありません。「うん、そう。これでいい!」ですね。

「死ぬまでに、どうしてもやりたかったことを、精一杯やってみたい」
異議無し!

「自分の能力の限界に挑戦してみたい」
異議無し!!

「一度しかない人生ならば、悔いのない生き方をしてみたい」
異議無し!!!

「我が儘放題、やっております。」
異議無ーーーし!!(^^)

素晴らしいですね。アクティブにポジティブに、機運の回転はあるでしょうが、そのスタンスを保って行きたいですね。

魂の世界に入る”すべ”である技術。その技術を越えたところに在る魂の本質とそれとの同化。そこで初めて体感できる幸福感。自分で動いているのと同時に宇宙によって動かされている継続する瞬間。そこから、また磨かれていく技術。磨かれた技術が呼ぶまた新たな世界。

これはやめられませんよね~
ここにも、”人の幸福”への一つの回答がありそうですね。また、これこそが、物事の真実を見抜くことを可能とする自己の状態の一つでもあるのではないでしょうか。

ではでは、今後ともよろしく。(^^)
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第5、第7交響曲

2007-11-25 22:06:02 | 音楽・映画
ベートーヴェン
交響曲第5番「運命」、交響曲第7番

カルロス・クライバー指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

数ある交響曲群の最高峰に君臨する、言わずと知れた超名曲。「運命はかく扉を叩く」とベートーヴェンが言った、冒頭の”運命の動機”を知らない人はいないだろう。重く悲劇的な運命を暗示するような第1楽章、一転して華やかで美しすぎるとも思える第2楽章、3楽章に”運命の動機”が再び現れ、勝利の響きを奏でる4楽章へと至り、フィナーレは興奮の坩堝と化す。
カルロス・クライバーとウィーン・フィルによる演奏はこの曲の決定版の一つと言える。開始から終曲まで息をもつかせぬ演奏である。手に汗握るとは正にこのことだ。高らかに鳴り渡る4楽章の冒頭は、あのフルトヴェングラーも脱帽だろう。他に「運命」の名演を残している指揮者として、ベーム、イッセルシュテット、ホルスト・シュタイン、小沢征爾などがいる。そして不動の演奏と称されるフルトヴェングラーを忘れることはできない。それともう一つ注目に値するのが、1968年にピエール・ブーレーズが録音した特異な演奏である。信じ難いような遅いテンポで進み、第3楽章のリピートも行っているので長大な「運命」ができあがった。当時賛否両論が巻き起こったが、私はこの演奏は歴史的名演の一つだと思う。

ベートーヴェンの交響曲の中では、激しく感情的な「運命」や標題の付いた「田園」とは対照的に、第7交響曲は論理的な音の積み重ねによるピュアな音楽の美しさが再認識できる曲。まず初めにリズムありき、この音楽の基本がよく分かる。
今でこそこの曲の定番とされている、クライバーとウィーン・フィルの演奏であるが、初めて世に出た時は、衝撃的であったものの、必ずしも絶賛を得たわけではなかった。多くの評論家はむしろ否定的であり、その主たる言い分は、長い演奏の歴史の過程で切り捨ててきた音もあり、それを今更掘り起こすのは賛成できないというのもであった。実際に聴いてみると確かに色んな音が出てきて、おっ!と思う所もあるが、それは決して誇張されたものではなく、その他の音とうまく調和しており、いささかもバランスを崩してはいない。それに実はそんなことは大した問題ではなく、この演奏の真価は、指揮者と演奏家が一体となり、また曲と一体となって初めて放出される音の力にある。この点で第5番「運命」と全く同様であり、この演奏も第7交響曲の決定版の一つと言えるだろう。クライバーの7番と5番がカップリングされ一枚のCDで聴けることは、何とも幸せなことである。
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人はわがまま

2007-11-21 22:51:57 | 思索
PCの調子が改善して良かったですね。何だか私もとっても嬉しいです。あと、Cドライブの残り容量が少ないようでしたら、「マイコンピュータ」の中のドライブの容量を調べてみてください。Cドライブの残り容量が100Mを切っていたら少ししんどいかも知れませんね。もしDドライブがあって、そこが大きく空いているようなら、CドライブのデータをできるだけDドライブに移してやればいいですね。

「ただ、私はわがままなので、他人より、ちょっとしたことで、すぐそんな風に感じてしまうんじゃないかって思っています。」

人は誰でもわがままです。またある程度わがままでなければならないのでは?とも思います。私のイメージする人と人との理想的な係わり合いは、異なる個性のぶつかり合い、わがままと、わがままのぶつかり合いから、どのように折り合いをつけるか、という所にあるのだと思っています。お互いの理解や、優しさや思いやりも、実はこの「わがまま」から生まれるのではないでしょうか?平たく言えば確固とした自己(主張)があるということですね。
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生きる苦悩の必要性

2007-11-20 23:07:12 | 思索
tackさんこんばんは、ホロンです。来てくださってありがとう。またコメントをくださって本当にありがとうございました。

そうですね、世の中は生きよいところではない。これは誰もが多かれ少なかれ思っていることですね。でも多くの人はそれなりに人生を楽しんでいる。もちろん辛いことや悲しいことも誰にもあるけれども、それらを含めて人生を味わい、また味わい続けたいと思っていますね。それはたぶん生きる喜びの方が勝っているからなのでしょう。

もし、生きていることに苦しいことや辛いことしか無ければ、誰もそんな生を永らえたいとは思わないですね。たぶん、tackさんの現在はそんな出口のない苦しさの中にあるのではないでしょうか。

あくまでもこれは仮定に過ぎないのですが、もし、その苦しみが、また悲しみが消失したならば、現在の世界が一変してしまうだろうという気がしませんか?そんなことがあり得るのか、あるはずもない、と思われることでしょう。でも私は、その苦しさが何処から来るのかによって、消失してしまう可能性が絶対に無いとは言い切れないと思うのです。

tackさんは次のようなキーワードを下さいました。

「自らの人生の間違いを正さなければいけません。」
「全てが最初から間違っていました。」

”人生の間違い”しかも最初から既に在った間違い。今の苦しみが”間違い”から生み出されたものとtackさんご自身が解釈されているものだと思います。また、「間違いを正さなければいけません」と未来に方向付けた言葉も綴られています。

tackさん、今までに何度も何度も葛藤を続けられてきたことと思います。その苦難の道のりは想像に難くありません。でもここでもう一度、原点に戻ってゆっくりと考えてみませんか?「間違いを正すこと」が、私にはきっとできるように思えてなりません。それがtackさんの中に存在するものであれば。

独断的な箇所や傲慢な箇所があったかも知れません。お許しください。
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相互コンダクタンスとエミッタインピーダンス

2007-11-19 20:01:53 | 電子回路
「相互コンダクタンスgm とエミッタインピーダンス re」

図のようなエミッタ接地増幅回路を考えてみます。(実際にはエミッタ抵抗を入れなければ使い物にならないのですが、まあ理論として考えてみましょう。)一般にトランジスタはiBによってiCを制御する電流制御素子として扱われますが、iBはviによって流れますので、電圧制御素子として捉えることもできます。この場合の増幅度は⊿ic/⊿viになります。右の図を見てください。IC/VBEは指数関数の特性をしているので、動作点をP1に取るか、P2に取るかで⊿ic/⊿viは大きく異なります。この⊿ic/⊿vi (dic/dvi)を相互コンダクタンスgmといい、定義よりic=gm・viです。このように増幅度を表すgmですが、動作点(バイアス)によって大きく異なるのが特徴です。

gm=⊿ic/⊿viの逆数を取ると1/gm=⊿vi /⊿icとなり、右辺に注目すると「電圧/電流」ですから1/gmは抵抗(Ω)であることがわかります。また、ic≒ie ですから1/gmをreで置き換えればre=⊿vi /⊿ieと表せます。このreをエミッタインピーダンスといい、実はなかなかの便利者なのです。定義よりie=vi / reです。そしてエミッタバイアス電流をIEEとするとreはre=26(mV)/IEEと一義的に決まるのです。この26mVはいろいろ複雑な計算を経て得たものですが、ここでは触れません。さて、そうとわかればVEE=1mAの場合はre=26Ω、vi=10mVとすれば、ie=0.38mAとなり、VEE=10mAの場合はre=2.6Ω、vi=10mVとすれば、ie=3.8mAとなります。このようにreを使えばIc=VBE特性を照合することなく、数値計算で増幅度を求めることができるのです。

関連記事:FETの相互コンダクタンス(gm)2010-01-03
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倫理判断の正当性と強制力

2007-11-17 20:47:19 | 思索
さて、対論や合論などは必ずしも必要ではないのではないでしょうか。ある論議に対する対論は議論に否定や修正を加えながら一致点を目指すものだと思うのですが、価値観や世界観が人の数だけ合ってそれぞれに異なるように、全てを一致させようとすること自体に無理があるように思います。「人は何故生きるか」などは、それこそ模範的回答が幾つもあるわけですよね。

以前、ある方と少し哲学的なやりとりをしたのですが、その方曰く、「必ずしも合意など得られる必要は無いのではないか、異なる観点から の考え方を、自分の世界の構築の参考にすればよい。」と仰ってられましたが、これは僕も全面的に賛成しています。

ただ誤解はできるだけ避けた方がいいでしょうから、確認は十分やってある観点からの議論に対する正しい理解はしたいですね。

さて、学びたかったといわれる「倫理判断の正当性と強制力」ですが、これは法学になるのでしょうか、それともやはり哲学かな?別の言葉で、「善悪の判断と悪に対する罪と罰」と表現しても大きなズレは無いでしょうか?これらはとても難しい問題ですね。絶対的な回答を人が得ることはこの先も永久に無いのではないかとさえ思えます。例えば社会形態や生活風習の違いで、同一の事柄も善と悪が正反対に入れ替わったりしますものね。僕としては、判断基準は常に自分の中に持ち、それを信じてよい、と常々思っています。
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どうでもいいけど

2007-11-17 20:20:10 | 思索
「痴漢取り締まり担当の巡査部長、痴漢の疑いで逮捕 東京」
 asahi.com

立ち直れないくらい落ち込んでしまうような暗いニュースが多い中、こういう笑えるニュースもいいなあ。深く読めば笑えないけど.....。
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議論に値するもの

2007-11-14 23:27:38 | 思索
朝晩は少し寒くなってきましたね。冬がもう目の前まで来ているのだと思うと夏男の僕としては、なんだか切ない気持ちです。でもまあ、僕もけっこうな歳になって、ようやく秋や冬を味わえるようにもなってきたと思います。

さて議論ですが、意に反してドンドン辛くさせてしまっているみたいで心苦しいです。元来、僕は議論のための議論というのが嫌いで、あくまでも手段と方法、以上のものではないと思っています。議論の過程は時に刺激もあって面白くもあるのですが(それ故、ディベートなどのゲームにもなりますね)、目的にすべきものではないと思います。

でも実際には議論を必要とする事柄もたくさんあるわけで、投げかけてくださった「Words」に対する鋭敏なレスや、或いは、「日記」で問われているものなどは、じゅうぶん議論されてよいもののように思いましたし、いまも思っています。お互いに”議題である”と認識したものを、とことん追及していくのはかなり好きですね。

議論無しでいければそれに越したことはありません。その他のことに時間を有効に使えますものね。驚くべきこの世界にあって、時間を使って使い過ぎることはないでしょう。

話が急展開しますが、ようやく僕もブルックナーが少し聴けるようになってきました。掴み所が無いようでずっと苦手だったんですが、ツボにはまると心地良いですね。近々4番「ロマンティック」をアップしようと考えています。
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人は失敗の産物

2007-11-12 21:26:44 | 思索
「あくまでも遊び感覚を忘れないように、やってます。(半分、言い訳)」

あはは。諸手を上げて賛成です。やはり心的エネルギーを十分保った状態を維持していくのがいいのでしょうね。良好な結果は対象に直接作用することだけで得られるわけでは無いでしょうからね。

「哲学者の浅田彰氏は、”現代人の底知れない底の浅さ”とか言ってますけど、これはたんに、ギャグでも言葉の遊びでもないんだと思いますね。」

うん。もちろん浅田彰は遊んでるつもりは無くて、至極真面目でしょうね。何なんでしょう。溢れる情報の表層のみで飽和しちゃってるんだろうか?とにかく特に現代の人の起こす現象の奇妙さを嫌というほど見せつけられると、”底知れない底の浅さ”に怖ろしさを感じずにはおれませんね。「ホロン革命」で、ケストラーは、現代において顕著化しているように見えるが、実はそれが人の本質(病理)だと言ってます。つまり人は、進化がどこかで失敗した産物なんだとね。

心のバランスを保つための座標軸としての象徴「赤毛のアン」、「ユング」、「仏教書」等。これはとても大切なことだと思います。この座標軸を持っているかどうかということ。これを持たない、或いは持てない場合がたくさんあるような気がします。もしかしたら、ここにフラフラさん理解の大きなヒントがあるかも知れませんね。かなり大胆な仮説ですけどね。

「”おまえたち、勝手に殺しあってていいから、せめて、子供たちだけは巻き込まないで!”って叫びたい感じです。」

まったく...。これはホントに”せめて”ですね。言葉も出ないし、涙は出そうになるし、この悲しさやるせなさは癒しようがないよね。
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冬季評価

2007-11-09 20:56:46 | 安全・品質
桜井美紀(21) 主任

優秀である。
現状における自身の問題点の特定と問題解決のアプローチ、のみならず、課という集団における問題点の特定と問題解決のアプローチ、共に的確であり行動も俊敏である。物事を非常に合理的、客観的、また冷静に捉える特質を持つ。それ故、文頭の思考・行動形態に繋がるものと思われる。かといって冷徹ではなく、他の若手社員との交流やコミュニケーションも和やかかつ円滑である。これほどの基本能力を備えた人物を見たのは個人的には極めて希であり、組織においては、プラス側に存在すれば疑いも無く強力な戦力になる逸材である。また集団業務においては相手の上位下位を問わず、リードし指導、指示(上位者に対しては暗に)する能力に長けている。これについては相手が上位者で管理センス、集団機能センスの乏しい者であれば、衝突のトラブルを引き起こす可能性もある。しかし、この難問に対しても現状把握能力の高さから、巧みに回避し短期現象にとどめる力を持つ。とりわけ下位の者に対する指導、教育の上手さは特筆すべきものがあり、既に教育成果も表れてきている。更にそのように教育することが自らのレベル向上に大きく繋がることを知っており、桜井の教育行為はそのことも目的としている。根底にあるのは、物事の何に価値があり何が無価値であるかという桜井固有の価値観が、一般的に真っ当かつノーマルである故のことと思われる。更に付け加えるなら、価値観は相対的なものであり、異なる社会では価値観が異なることも知っている。
以上が桜井の素質と基本能力についての所感である。

次に成果について。構内管理システムマイク増設工事は、工事内容が前職場である配線電気部の工事そのものであることもあり、終始、他作業者をリード、指導し良好に全工事を終了させた。PWMアンプ補修工事では各課員の作業を適切に分担し、以前の約1.5倍ほどの効率で業務を進め、間もなく終了を迎えようとしている。最後に被教育者としての電子回路教育の成果であるが、現時点での驚くべき結果を見せている。2月に電子設計課に移籍し、現在5ヶ月余りが経過したが、アナログ回路理論については既に教えることが少なくなってきている。通常では2~3年費やすくらいの力量に等しいと言っていい。素質としての頭の良さは確かである。しかしこれほどまでとは、と当初思っていたが、ある時桜井の置き忘れた本を見つけた。それは以前読むようにと渡した「電子制御」という本だったが、本の厚さが渡した時の2倍ほどに膨れ上がっていたのである。やはり努力しているのである。


森下次郎(27) 課員

優秀なハンダ作業者である。社員としては、自らも会社を支えている一人であるという意識があまり見えないように感じられる点がやや物足りないが、これは私の責任でもあるかも知れない。その他、特に過不足なし。


川端義男(19) 課員

PWMアンプ施工等、現場作業をやらせるとなかなかに上手い。しかもスピードも速い。身体にハンデがなければ、電子設計課のような辛気臭い職場ではなく、他職場でダイナミックに仕事をしていたことだろう。当初、長時間机に向かっての作業を幾らか辛く感じていたようで多少心配したが、今ではそれにも慣れて積極性も出てきたようである。被教育者としての電子回路教育の成果については、私は恥じ入らなければならない。教育者としてはあるまじきことであるが、年齢にそぐわない川端の頭の固さに一度さじを投げかけたのである。その彼を桜井美紀が教え始めた。桜井としては自身の向上も意図してのことであることは前述の通り。日々が経過して川端の表情が変わり始めた。分かるということが、これほど楽しいことなのか、という表情である。トータル教育時間に対する川端の現在レベルは並みの上といったところであろう。先が楽しみである。
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神(不可知)の存在

2007-11-06 22:04:03 | 思索
地球外生命体を、我々人類に相当する知的生命体と置き換えて考えてみますね。(これは知的生命体とせずともバクテリアでも同じことですが、まあ、話を面白くするためです。)

全宇宙に存在する知的生命体は我々人類だけなのか、それとも宇宙のどこかに別の知的生命体が存在するのか?

これは神は存在するか否か、という問いと、ほとんど等価ですね。神が存在するなら宇宙には我々人類だけ、神が存在しないなら我々以外にも宇宙には無数の知的生命体が存在する、と演繹されるからです。

神の存在について、半分Yes 半分Noと回答されてましたね。僕の現時点での思いを正直に言うと、1割Yes 9割Noというところでしょうか。実はこの間のやり取りで、この比率はかなり変動しているのですが、現時点では、まあこれくらいでしょう。(やや自信がありませんが。)

僕にとって、この10%のYesは大きなことです。心情的には0%にしたいと欲しているはずなのですが、それではどうしても心の座標軸がバランスしない。どうしても10%の不可知の存在は捨てきれないのです。この1:9という比率が、いまの僕には心の座標軸が最も安定する値なのでしょう。

いずれにせよ、肯定も否定もできない存在や現象は、人の世には幾つもあります。肯定も否定もできないものは、信じるか否かと、疑い続けるという3者択一を人は選択していくのでしょう。信仰は全肯定ですね。全否定する人もいるでしょう。その選択基準は各々自己の中にあって、やはり自分の心の座標軸が一番安定する回答例を選ぶのだと思います。

信仰する多くの人と全否定する多くの人が、一見なにくわぬ顔をして関わり合い、混じりあい、同次元で生活しているという現実は、ある意味驚きでもあります。

ということで結論です。僕は10%、宇宙には人類しか存在していないと思っています。この10%は大きな値ですぞ。(^^)
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芥川とマン

2007-11-05 20:54:04 | 思索
さて、寺子屋の「結び」として、「大導寺信輔の半生」からの引用をありがとうございました。

これを読んで思ったのですが、「大導寺信輔の半生」が芥川の自伝的小説とすると、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」に、かなり相当するものがあるのではないかと。そんな感じがしました。

「トニオ・クレーゲル」は読まれましたでしょうか。上述したように、これもマンの自伝的青春小説なのですが、そこに描かれているのは、文士・作家の絶対的な孤独、またそれが必然であることの苦悩とある種の悦楽、そして、トニオは学徒であったころの自らに、美しい薔薇色をした薄明りの反射を見、憧れるのです。

もちろん、貼り付けてくださったのは、ほんの一部の引用に過ぎませんが、この短い一節が、「トニオ・クレーゲル」のほぼ全てに重なり合って見えたのです。

芥川とマンが、それぞれ異なる地点から同一のものを見ていた。当然のことなのでしょうが、やはり文学や芸術には普遍的な共通する一本の道が貫かれているのでしょうね。
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加速度の微分値は?

2007-11-04 01:57:26 | 電子回路
図が重なり合うので時間軸をもう一本用意しましたが、加速度を微分すると上の図のようになります。これは加加速度?

では、加速度が三角波の場合の速度応答は?
はい、下の図のようになります。T1、T3は当然ながら等加速度運動ではありませんね。加速度の頂点Pにおいて、速度増加の傾斜角度は最大になります。

図としてみると、コンデンサの電圧と電流の関係は、電圧:速度、電流:加速度に等しく、コイルの電圧と電流の関係は、電圧:加速度、電流:速度に等しくなります。これは前にやりましたね。
(^^)

関連記事:微分(加速度、速度、距離)2007-08-12
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かの春の日

2007-11-03 09:16:15 | 思索
”桜が咲く”、”清清しい風”、こういった些細な日常のことを嬉しく思う。結局は人が求めているのはそんな喜びだと思うんですよね。個人としてはそれ以上のことは求めてはいない。大それたことも求めていない。葉の雫が零れ落ちた時のように鍵盤を叩いた時に現れる音、その音を聴く「ために生きている」、とも言えるでしょうね。

「純粋な自分の心・・そこから湧き上がるもののみを信じる」

これなんですよ。これこそが僕の価値観の基準座標にもなっています。これを忘れてしまうと、この世の中で立ってはいられなくなるでしょうね。そして多くの人は大きな流れに流されていってしまいます。

「”しなければならないからする”という他律的な行動ではなく・・”そうしたいからする”という自律的な行動が本物だと思いますよね。」

これもまた上の言葉と同義だけれども、具体的で分かりやすく言い換えられていますね。南無阿弥陀仏よりも、南無妙法蓮華経よりも、現代人のハートに響く格言だと思いますね。

しかし、今日はホントに気持ちのいい土曜日ですね。一年を通しても、僅かに数えるくらいにしかない、こんな爽やかな日をたっぷりと味わいましょうね。そのために生きているんですから。
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