「人生は、後半戦が面白い!」
これは、健康・生きがい開発財団が2003年に主催した、生きがい発見シンポジウムのタイトルらしい。そのシンポジウムの中身はともかくとして、正に折り返し点を回って人生の後半でもがいている僕にしてみれば、このキャッチコピーそのものにニヤリと微笑まされるものがあった。
思えば人生の前半では定型化されたものや、幾つかの必然的で公的な戦いを余儀なくされるものだが、またこれは何も人に限ったことではなく多くの生物が同様に通過せざるを得ない試練でもあるが、人生も後半になれば目に見えたもの(戦い)はその数においては急激に少なくなる。
そもそも戦いなど無くてすむならそれに越したことは無いが、この世はそれをシステムの一部に組み込んで作り上げられてしまっているらしい。つまり戦いという一本の柱を取り去ると、現世は本質的に成り立ち得ないのだ。
さて人生の後半戦であるが、これは戦いよりも闘いの方が言葉としてふさわしいだろう。それは誰の目にも見えるものではなく、個人の内部で深く静かに展開されることが多い。全ての人は苦悩し、その苦悩の中心にあるものは闘いである。
しかし少し視点を変えて見ると、その苦悩も幾らか心地よくも見ることができる。それは苦悩の多くは生みの苦しみであるからである。生まれ出るのは未知であった新しい世界だろう。それはあらゆる形態を取り得るが、誕生はいつもその時に幸福を呼ぶ。
大人になることは確かに何かを諦めることなのかも知れない。でも大人であり、しかも後半であるが故に与えられる生みの力もあるはずだ。僕に言わせれば「人生の後半戦が面白くないはずがない!」である。
ホロン(^^)
これは、健康・生きがい開発財団が2003年に主催した、生きがい発見シンポジウムのタイトルらしい。そのシンポジウムの中身はともかくとして、正に折り返し点を回って人生の後半でもがいている僕にしてみれば、このキャッチコピーそのものにニヤリと微笑まされるものがあった。
思えば人生の前半では定型化されたものや、幾つかの必然的で公的な戦いを余儀なくされるものだが、またこれは何も人に限ったことではなく多くの生物が同様に通過せざるを得ない試練でもあるが、人生も後半になれば目に見えたもの(戦い)はその数においては急激に少なくなる。
そもそも戦いなど無くてすむならそれに越したことは無いが、この世はそれをシステムの一部に組み込んで作り上げられてしまっているらしい。つまり戦いという一本の柱を取り去ると、現世は本質的に成り立ち得ないのだ。
さて人生の後半戦であるが、これは戦いよりも闘いの方が言葉としてふさわしいだろう。それは誰の目にも見えるものではなく、個人の内部で深く静かに展開されることが多い。全ての人は苦悩し、その苦悩の中心にあるものは闘いである。
しかし少し視点を変えて見ると、その苦悩も幾らか心地よくも見ることができる。それは苦悩の多くは生みの苦しみであるからである。生まれ出るのは未知であった新しい世界だろう。それはあらゆる形態を取り得るが、誕生はいつもその時に幸福を呼ぶ。
大人になることは確かに何かを諦めることなのかも知れない。でも大人であり、しかも後半であるが故に与えられる生みの力もあるはずだ。僕に言わせれば「人生の後半戦が面白くないはずがない!」である。
ホロン(^^)