ブログ人 話の広場

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南西沖地震、あれから20年

2013-07-13 15:26:36 | 日記・エッセイ・コラム

 この日、僕はすでに床に就こうとしているときでした。午後10時15分、札幌はかなりの揺れに襲われ、「これは大変な地震が起きたのではないか」と妻に声をかけたことを思い出します。1993年(H5年)7月12日、北海道南西一帯は大震災に遭遇したのです。

 とりわけ奥尻島に住む島民198人が犠牲になりました。青苗地区にはわずか3分で津波が襲い、さらに火災をも合わせ、一瞬に人や住宅などを呑み込んでしまいました。遠くに住む知人からも安否の連絡が入ったほどです。

 着の身着のまま逃げて助かった人々は、目の前で人が流されていく無情な姿を見ながらも、自分が何もできなかった非力を嘆き、いまだに心の傷は癒されないと語っています。あれから20年のこの日、追悼式が行われました。

 海に囲まれ、豊かな詩z船とともに生きてきた人々は、島を誇っていても訪れてくれる人の減少を案じています。けれどもなお復興は道半ばだとの思いで努力は続けられています。島の人々は、今回を持って追悼式を終了するそうです。それは忘れることではなく、、犠牲になった人々呑むなんな思いと一緒に島の活性化への取り組みの決意の日でもあるのです。

 さらに追い打ちをかけるように、2年後の1995年(H7年)1月17日阪神・淡路に直下型大震災が発生しています。ぼくはこの年の3月で仕事を終え、神戸に戻ることにしていました。しかし、混乱の極にある神戸に戻ってもいかなる痛みも負えないと考え、そのまま札幌に残る決心をしたのです。無二の親友はその後震災救援に立ち上がり、街のリーダーとして東奔西走していましたが急逝しました。あんなに元気だったのに、と思うと今も心が騒いでしまいます。

 人々の記憶がまだ薄れない2010年(H22年)3月11日、今度は東日本一帯にまさに1000年に一度とも言われた大震災が襲ってきたのです。今なおその渦中にあります。しかも東京電力が保有する福島台地原子力発電所が爆発し、大量の放射能が拡散しました。福島県をはじめ、近隣に住む人々はもちろん、町や村ごと移住するという経験のない事態になりました。解決の方途さえ見通せない中、長い長い苦悩の道を強いられています。

 私たちは、こうして危険と隣り合わせに生きているのです。当然、安心と安全の暮らしを求めていきたいのですが、どうして日本の中枢を担う人々は、この思いをくみ取ってくれないのでしょうか。人々の痛みを負えないのでしょうか。

語る言葉は誠実さもなく、いったいどっちを向いて方向づけようとしているのか、疑念は解けません。こうした体質の人がいくら美しい日本を創ると叫んでも、ぼくには空しいとしか思えません。むしろ不誠実な態度に怒りと不信を抱いています。経済も大事なことは承知の上ですが、それでももっと大事なことを追い求めているのです。

 

少なくとも、3つの大震災を通して、日本人が本当に心に描いている日本の姿を、国政に携わる人々、企業のトップ、さらに地方自治体の高位のポストにある人たちは目線を下げて誠意ある取り組みを切望しています。

 心のこもった政治を熱望するのは僕だけではあいますまい。ある大臣が言いました。「うんざり一票、がっかり4年」、これはまさに国民の本音だとしたら、近づく参議院選挙も力が抜けそうな気がしてなりません。

 やさしいタイガー