昨日の神戸新聞夕刊に亀井一成さんとチェリーのことが。

亀井さんが育てたチンパンジー、チェリーが剥製になって公開されていると。
これは会いに行かなくてはならない。
亀井さんのことについては前にも書いている。
昔、お元気なころに「輪」に来店下さったのだった。

亀井さんが育てたチンパンジー、チェリーが剥製になって公開されていると。
これは会いに行かなくてはならない。
亀井さんのことについては前にも書いている。
昔、お元気なころに「輪」に来店下さったのだった。
昨夜遅く寝る前にパソコンを開いてみてアッと驚いた。
今海外でも上映されて話題になっている、樹木 希林さん主演の映画「あん」の原作者、ドリアン助川さんのFBに「コーヒーカップの耳」の写真が大きく載っているではないか。
そして詳細な紹介。
ドリアンさんは今、超多忙な人である。最近も中東のカタールでの映画祭に希林さんと共に参加して帰国されたばかり。
以下、ドリアンさんのFBの記事。
今村欣史詩集「コーヒーカップの耳」より
「水中メガネ」
障害が重すぎて
散髪屋さんに連れて行かれへんから
私が切ってやるんやけど
ものすごう嫌がるんよ
目えつむるんが嫌なんよ
見えへんのが不安なんよ
そやけど
目え開けてたら髪の毛入るし
困ってねえ
ほんで水中メガネ思いついたんよ
そやからこの子は
水中メガネ出してきたら散髪やとおもてるの
You know, his handicap is so heavy,
I can’t take him to a barber,
So I cut his hair,
But he hates it, you know,
Closing eyes, he hates that,
Seeing nothing makes him feel uneasy.
But you know,
If he opened his eyes,
His hairs’d come into them, right?
I was so confused and finally got it.
Goggles, yes, goggles!
They popped in my head!
And then,
Whenever I take the goggles,
He gets set to have hair cut.
こんちは。ドリです。
少し前になりますが、西宮にお住まいの今村欣史さんより
詩集「コーヒーカップの耳」をいただきました。
今村さんは、「輪」という喫茶店を経営されながら
お客さんのつぶやかれた言葉をこのような形で作品として残されています。
ここにあるのは、
戦争を体験された世代の肉体の痛みまで伴うような呻き声であったり、
やくざ稼業に片足を突っ込んだ人の苦い嗤いであったり、
息子を失ったお父さんの延々と続く「生への不可思議」であったりしますが、
文芸を意識して言葉を放った人はおそらく誰もおらず、
今村さんもまた詩の体裁を越えたところで
まさに「コーヒーカップの耳」としてこの文字列の物語を頁に刻まれています。
詩とはなんだろう? という問い掛けに対し、
ボクには
「言葉の連なり、組み合わせ、また全体から、既視感のない新しい地平が見えてくること」
というひとつのレスポンスがあります。
そのような意味では、
この詩集に斬新な言葉の組み合わせがあるわけではありません。
しかし、コーヒーカップの耳を通して聞こえてくる数々の言葉から、
俯瞰でしかとらえられなかった街の本当の中身、
いわば阪神地区の血管を行き来する個々の血球である人々の表情というものが、
潮のように押し寄せてくるその只中に佇むことができるのです。
喫茶店をやられる人って、
やはり人が好きなんだな、と思いました。
今村さん、ありがとうございました。
今村欣史詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア)
(詩の英訳はボクの遊び半分です)
今海外でも上映されて話題になっている、樹木 希林さん主演の映画「あん」の原作者、ドリアン助川さんのFBに「コーヒーカップの耳」の写真が大きく載っているではないか。
そして詳細な紹介。
ドリアンさんは今、超多忙な人である。最近も中東のカタールでの映画祭に希林さんと共に参加して帰国されたばかり。

以下、ドリアンさんのFBの記事。
今村欣史詩集「コーヒーカップの耳」より
「水中メガネ」
障害が重すぎて
散髪屋さんに連れて行かれへんから
私が切ってやるんやけど
ものすごう嫌がるんよ
目えつむるんが嫌なんよ
見えへんのが不安なんよ
そやけど
目え開けてたら髪の毛入るし
困ってねえ
ほんで水中メガネ思いついたんよ
そやからこの子は
水中メガネ出してきたら散髪やとおもてるの
You know, his handicap is so heavy,
I can’t take him to a barber,
So I cut his hair,
But he hates it, you know,
Closing eyes, he hates that,
Seeing nothing makes him feel uneasy.
But you know,
If he opened his eyes,
His hairs’d come into them, right?
I was so confused and finally got it.
Goggles, yes, goggles!
They popped in my head!
And then,
Whenever I take the goggles,
He gets set to have hair cut.
こんちは。ドリです。
少し前になりますが、西宮にお住まいの今村欣史さんより
詩集「コーヒーカップの耳」をいただきました。
今村さんは、「輪」という喫茶店を経営されながら
お客さんのつぶやかれた言葉をこのような形で作品として残されています。
ここにあるのは、
戦争を体験された世代の肉体の痛みまで伴うような呻き声であったり、
やくざ稼業に片足を突っ込んだ人の苦い嗤いであったり、
息子を失ったお父さんの延々と続く「生への不可思議」であったりしますが、
文芸を意識して言葉を放った人はおそらく誰もおらず、
今村さんもまた詩の体裁を越えたところで
まさに「コーヒーカップの耳」としてこの文字列の物語を頁に刻まれています。
詩とはなんだろう? という問い掛けに対し、
ボクには
「言葉の連なり、組み合わせ、また全体から、既視感のない新しい地平が見えてくること」
というひとつのレスポンスがあります。
そのような意味では、
この詩集に斬新な言葉の組み合わせがあるわけではありません。
しかし、コーヒーカップの耳を通して聞こえてくる数々の言葉から、
俯瞰でしかとらえられなかった街の本当の中身、
いわば阪神地区の血管を行き来する個々の血球である人々の表情というものが、
潮のように押し寄せてくるその只中に佇むことができるのです。
喫茶店をやられる人って、
やはり人が好きなんだな、と思いました。
今村さん、ありがとうございました。
今村欣史詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア)
(詩の英訳はボクの遊び半分です)