ここあコテージ

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恵みの余滴 4

2012-11-11 08:21:15 | 回想
恵みの余滴第4弾は、

初めての牧会生活の事です。


私たちは、神学校を卒業して、すぐにでも青森の地に
帰ってきて伝道したかったのです。

しかし、すぐにはその道が開かれませんでした。


神様のみ心を示して下さるように祈り、与えられたのは、
北海道の教会へ行くようにという事でした。

私たちは、そこへ行くのは主のみ心と確信して、
初めての赴任地へ向かいました。


そこは、青森とは比べものにならないほどの豪雪地帯、
そして極寒の地でした。

また、過疎地でもありました。
しかし、人口2万人あまりの小さな町の教会にもかかわらず、
信徒数は、30人以上。
私たちがここを去るまでには、礼拝は40人近くにもなりました。




さて、赴任して最初の礼拝を献げるはずの土曜の深夜、
教会の母子室に、1台の居眠りの車が突っ込んできました。

私たちは、幸い母子室とは反対側の部屋に寝ていて、
事故の物音さえ気づかずにいました。

事故をおこした運転手は無傷、母子室は保険で新しくされました。

この時の様子に尾ひれがついて、私たちの所に戻った時には、
話しがかなり誇張され、

「○○先生(つまり連れ)が、泥棒と格闘して勝った」となって
しまっていたのです。

うわさとは怖いものだと思いました。
真実が大切です。


この出来事が霊的に何を表していたのか、あまりそういう面で
考えることは、その当時はしませんでしたが、

いまにして思えば、この出来事は、この後の牧会生活を
表しているかのように感じることもありました。


事実、その1年後から、教会に一つの出来事が生じて、
牧師になりたての連れ合いと、牧師夫人になりたての私は、
とても困惑し、また、どう対処していいのかわからなくなりました。




*******


ところで、、私は当時、「牧師夫人」という
訳のわからない立場に戸惑いを感じていました。

つまり私は自分の「アイデンティティー」の問題に直面
していたわけです。


当時、私は、教会員から「奥さん」と呼ばれていました。
私は、戸惑いました。
自分のアイデンティティーの確立がない中での「奥さん」は、
益々、私を困惑させました。


自分が「何者なのか」と言う事が
理解ができていなかったのです。


そこで、私は考えに考えて、
「名前で呼んで下さい。」とお願いしました。


このことは、私の意に反して、
教会員の方々に大きな波紋となりました。

「牧師の奥様を名前でなど呼べません」と言う方もいました。


しかし、若者たちや、同年代の方々は、早いうちから
私を名前で呼ぶようになりました。
そして、やがて数ヶ月してご年配の婦人たちも、
若者たちに影響されたのか、私を名前で呼ぶようになりました。


牧師夫人というのは、大なり小なり、自分のアイデンティティーの
問題にぶつかりやすいと言われています。



実は、牧師ならば、祭司、預言者、監督、長老など、
モデルケースがいつくか聖書の中に記されています。
しかし、牧師夫人のモデルケースは聖書にはありません。


ですから、牧師夫人とは何なのか、
牧師夫人とはどうあるべきなのかなど
明確なものはありません。


つまり、自分自身で、自分のアイデンティティーを探りつつ
確信して行かなくてはなりません。

また、教会の大きさによっても夫人の働きは異なります。

良く言われる、「牧師夫人は陰に隠れているべき」と言うことばも、
開拓期の教会、或いはなかなか開拓の域を出ていない教会では
牧師夫人が隠れていては、用が足りません。


ですから、「牧師夫人とはこうあるべきだ」という、
どこからともなく生じた型に無理矢理にはめ込むことは、
没個性となり、自然な形で主に仕えていく事から遠ざけます。


牧師夫人の立場を理解していただきつつ、
その方の性格、賜物が十分に生かされる形で
用いていただけたら一番良いのではないかと感じています。


******

さて、話を元に戻します。

教会の問題は、往々にして、一つのことをきっかけにして
古くからあった問題も噴出すると言う事が良くあることです。



私たちは、問題に対して、どうしたらよいかわかりませんでした。
ただただ、主の介入を祈り続ける日々でした。


やがて、少しずつ教会の空気が変わり始めたのです。
その中で、主は教会の一人一人に問いかけられたと思います。


私個人は、その出来事を通して「教会とは何か」と言う事を
とても考えさせられました。


教会は、誰のものでもない。牧師のものでも、役員のものでも、
一部の発言力のある人のものでも、そして、私のものでもなく、
ただ主ご自身のもの。

この真理は、教会の中で十分知られている真理ではあっても、
気がつくと、片隅に追いやられてしまう真理でもあるように
思います。


教会のトップ(かしら)は主。
教会は、主が満ち満ちている所、
ご自分の犠牲を払って買い取ったもの、
主の主権の顕された所です。


私はこのことを良く学ぶためにも、
ここに遣わされたのだと思いました。


どのような出来事にも主のご介入があります。
問題を直ちに主に持って行くことが大切です。
主にすべてをお話して、主のご介入を祈り続けましょう。

主は真実な祈りに耳を傾けて下さいます。

主は決してあなたを見過ごしにはなさらない真実なお方です。




ここあでした。








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