今日は8月6日、広島市に原子力爆弾が投下された日です。
義母と義祖父が、当時広島市の近郊にいたため、危うく被爆者になりかけたという事実も私を動かす要因と書きました。(とはいえ、やはり義母もなんらかの影響を受けたのではと心配してます。)
広島市に投下されたのは、ウラン型爆弾。
9日の長崎市のものはプルトニウム型でした。
「2種類」でした。
私はこのことでいつも思います。
アメリカは、日本に原爆を落としたのは「日本がなかなか戦争をやめないため。早く戦争を終わらせたいから投下した。これは間違ってはいなかった。」と言いました。
確かに、当時の日本軍は、アジア諸国を苦しめ、支配し、占領してきた事実は本当です。
戦争が早く「終わらせられた」ことによって、アジアの国々、そして日本の人たちにも平和が戻りました。
しかし、なぜ「2種類の爆弾を落とす必要があったのか。」
「実験説」が言われたこともあります。
たぶん永久にこのことは、真実が明かされることはないかもしれない。
きょう、広島市で平和式典が行われ、5万人が参列したそうです。
私は毎年この式典を見ていましたが、今年は思いが一段と強かった気がします。
今年、新たに被爆のために亡くなった人は5785人。
名簿に載った人はこれで、27万5千人以上になりました。
戦後66年の今年でも、まだ被爆して苦しんでいる人たちがいる。
この事実から目を離してはいけないと思います。
広島市長さんは、戦後初の被爆Ⅱ世市長だそうです。
福島の原発事故にも触れた平和宣言がなされました。
でも残念ながら、「脱原発」は宣言に盛り込まれませんでした。
広島市だからこそ、福島県民を助け、支えることができる面が多いのに。
とても残念です。
さて、福島県の石川町という所をご存じですか?
広島に原爆が投下されるほんの少し前、この地で、旧・日本軍が極秘に「理研」に原爆が作れないかと相談して、造らせていたという話がニュースに出ました。
結果的には実験は失敗して、原爆は造られませんでした。
日本軍はこれに成功していたら「加害者」になっていたはずです。
当時、この実験のためにウラン採掘にかり出されていたのは、15歳ほどの少年達でした。当時は放射能については無知であり、多少の理解があったとしても気にかけなかったようです。
恐ろしいことです。当時の少年達は今どうなっているのでしょうか。
この話を聞いて、広島と福島が不思議なつながりを感じて何か恐ろしい気持ちになりました。偶然ではないような、そんなリアルさを感じます。
「核と人間は共存できない」
福島から広がった放射性物質の量の正式な値が未だに政府から、東電から、出ていないということが不安です。
一説には広島型原爆の29.6個分と言います。
よく、広島や長崎の被曝の程度と比べて、福島を楽観視している専門家もいます。
広島型の29.6倍という数値を見て、どう思っているのでしょうか。
「核と人間は共存できない」
かつて原爆で苦しめられた広島や長崎の人々でも、「核の平和利用ならいい」と原子力発電を認めました。
なぜ?
ある新聞では「核にやられた自分たちだからこそ、今度はそれを平和のために利用してほしい」と、善意からの許容だったと言います。
被爆者達も「核」の恐ろしさを知りながらも、「平和利用」(アメリカのアイゼンハワー大統領曰く)の言葉にうまくだまされてしまったのかもしれません。
あの当時の知識のなさが、こうした現実を生んだのかもしれない。
今、私たちは、核の怖さ、恐ろしさを、「フクシマ」という形で実感させられ、現実にいろんな面で不安を強いられ、恐怖と闘っています。
「無知」の時代は過ぎ去りました。
もう「無知」といういいわけを使うことはできません。
「核と人間は、いやすべての物は共存できない」のです。
ここあでした。
義母と義祖父が、当時広島市の近郊にいたため、危うく被爆者になりかけたという事実も私を動かす要因と書きました。(とはいえ、やはり義母もなんらかの影響を受けたのではと心配してます。)
広島市に投下されたのは、ウラン型爆弾。
9日の長崎市のものはプルトニウム型でした。
「2種類」でした。
私はこのことでいつも思います。
アメリカは、日本に原爆を落としたのは「日本がなかなか戦争をやめないため。早く戦争を終わらせたいから投下した。これは間違ってはいなかった。」と言いました。
確かに、当時の日本軍は、アジア諸国を苦しめ、支配し、占領してきた事実は本当です。
戦争が早く「終わらせられた」ことによって、アジアの国々、そして日本の人たちにも平和が戻りました。
しかし、なぜ「2種類の爆弾を落とす必要があったのか。」
「実験説」が言われたこともあります。
たぶん永久にこのことは、真実が明かされることはないかもしれない。
きょう、広島市で平和式典が行われ、5万人が参列したそうです。
私は毎年この式典を見ていましたが、今年は思いが一段と強かった気がします。
今年、新たに被爆のために亡くなった人は5785人。
名簿に載った人はこれで、27万5千人以上になりました。
戦後66年の今年でも、まだ被爆して苦しんでいる人たちがいる。
この事実から目を離してはいけないと思います。
広島市長さんは、戦後初の被爆Ⅱ世市長だそうです。
福島の原発事故にも触れた平和宣言がなされました。
でも残念ながら、「脱原発」は宣言に盛り込まれませんでした。
広島市だからこそ、福島県民を助け、支えることができる面が多いのに。
とても残念です。
さて、福島県の石川町という所をご存じですか?
広島に原爆が投下されるほんの少し前、この地で、旧・日本軍が極秘に「理研」に原爆が作れないかと相談して、造らせていたという話がニュースに出ました。
結果的には実験は失敗して、原爆は造られませんでした。
日本軍はこれに成功していたら「加害者」になっていたはずです。
当時、この実験のためにウラン採掘にかり出されていたのは、15歳ほどの少年達でした。当時は放射能については無知であり、多少の理解があったとしても気にかけなかったようです。
恐ろしいことです。当時の少年達は今どうなっているのでしょうか。
この話を聞いて、広島と福島が不思議なつながりを感じて何か恐ろしい気持ちになりました。偶然ではないような、そんなリアルさを感じます。
「核と人間は共存できない」
福島から広がった放射性物質の量の正式な値が未だに政府から、東電から、出ていないということが不安です。
一説には広島型原爆の29.6個分と言います。
よく、広島や長崎の被曝の程度と比べて、福島を楽観視している専門家もいます。
広島型の29.6倍という数値を見て、どう思っているのでしょうか。
「核と人間は共存できない」
かつて原爆で苦しめられた広島や長崎の人々でも、「核の平和利用ならいい」と原子力発電を認めました。
なぜ?
ある新聞では「核にやられた自分たちだからこそ、今度はそれを平和のために利用してほしい」と、善意からの許容だったと言います。
被爆者達も「核」の恐ろしさを知りながらも、「平和利用」(アメリカのアイゼンハワー大統領曰く)の言葉にうまくだまされてしまったのかもしれません。
あの当時の知識のなさが、こうした現実を生んだのかもしれない。
今、私たちは、核の怖さ、恐ろしさを、「フクシマ」という形で実感させられ、現実にいろんな面で不安を強いられ、恐怖と闘っています。
「無知」の時代は過ぎ去りました。
もう「無知」といういいわけを使うことはできません。
「核と人間は、いやすべての物は共存できない」のです。
ここあでした。
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