たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「ピアノの詩人」フレデリック・フランソワ・ショパン(最終話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Frederic Francois Chopin】
さて、未練たっぷりでサンドと別れる事になったショパンですが、その後はどうなってしまうんでしょう?ちょっと心配なその続きからです。
(第9話)【傷心のイギリス旅行へ】
1848年になると、パリでは二月革命が起こり暴動が絶えなく危険な状態になっていました。失恋の痛手もあったショパンは、この頃には体もそうとう弱くなっていたようです。貴族達は革命軍を恐れ田舎へと疎開して行ったため、パリではショパンの仕事もほとんど無い状態でした。以前からショパンの弟子として、ピアノを教えていたイギリスのジェーン・スターリング伯爵夫人の招待でスコットランドを訪れる事になるのでした。
このジェーン伯爵夫人はショパンの熱烈なファンと言うより、どうやらショパンを愛していたようです。だって弟子っていっても、イギリスの北部スコットランドからわざわざフランスのパリまで、習いに来るなんて言ったら今でもそうとうな距離ですからねぇ。それにこのジェーン嬢は実家はかなり大富豪だったらしく、晩年のショパンにも相当お金を工面してあげていたようです。「愛の力」ってヤツでしょうか?一方ショパンはそんな彼女の想いを少しばかりうっとおしく思っていたようです。と言うよりはサンドの事が忘れられなかったんでしょう。
さて本題に戻ると、そんなジェーンの招待を受けて一路スコットランドへと向かうショパンでした。イギリスでもショパンは人気のピアニストで有名になっていた事もあり、そんなショパンをイギリスの名所に案内しようとウキウキだったジェーンは、彼を数々のパーティーに連れ出し、数々の演奏会をする事になるのでした。エジンバラ宮殿での演奏会をはじめ、ヴィクトリア女王の前でも御前演奏をしたいたようですね。
ジェーンにとっては憧れのショパン先生(と言っても彼女の方が年上のようですが)と一緒に過ごした甘い想い出のひとときだったようですが、ショパンには特にジェーンに対してもスコットランドに対しても特に思い入れるほどでは無かったらしく、イギリスからグジマワに手紙で「スコットランドの人はこれでもかって言うほど世話焼きですね、それよりサンドはどうしてますか?」みたいな事を書いていたようです。未練タラタラですね、隣にジェーンが居るっていうのにぃ~。
フランスに帰ってくるとイギリス旅行がかなり疲れたらしく、病床に伏せる日々となったショパン。この頃には死を察していたのでしょうか。ポーランドに居る姉ルドヴィカに「とにかく会いたい」という手紙を送ります。弟の病状を知ると駆け付けた姉ルドヴィカはショパンを献身的に看護します。見舞いには多くの友人やピアノの弟子達も訪ねていたようです。グジマワ、イギリスからはジェーンも来ていました、そして、サンドの娘ソランジュ夫婦も・・・。そんな多く友人に見守られて、姉ルドヴィカの看護も虚しく1849年10月17日ショパンはこの世を去るのでした。享年39歳の若さでした。
ショパンの死後、ソランジュの夫で彫刻家のクレサンジュはショパンの顔型(デスマスク)を取り、手形も取っていました。そして、ショパンはいくつかの遺言を残していたらしく、マドレーヌ寺院で行われていた葬儀にはモーツァルトのレクイエムが演奏されました。そして亡命した為、戻る事が許されなかった祖国ポーランドに心臓を抜き出して埋葬される事になります。ポーランドに眠るショパンの墓の上にはポーランドを出るときに、恩師エルスナーから貰った杯の土が一緒に葬られていたようです。これらの遺言を元に、死してようやく祖国の土に帰る事のできたショパンでした。
もともと体があまり強い方ではなかったショパンですが、あまりにも早い最期でした。しかし、短い一生の間に多くの名作を残してくれたその生涯は、山あり谷ありでしたが、とても充実したものではなかったでしょうか?
さて、この話に出てきたクレサンジュが石膏で取った手形ですが、2年ほど前だったかな?横浜だか東京の美術館に来ていたのを見てきましたが、とっても小さい手でしたね。女の子みたいな可愛らしいこんな手で、あんな難しい曲を作ってたんだなぁ・・・と妙に感動したのを覚えています。
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今日は「ピアノの詩人」フレデリック・フランソワ・ショパン(最終話)です。
≪作曲家の肖像≫
ショパン名曲100オムニバス(クラシック), ダン・タイ・ソン, シンフォニア・ヴァルソヴィア, ショパン, マクシミウク(イェジー)ビクターエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
さて、未練たっぷりでサンドと別れる事になったショパンですが、その後はどうなってしまうんでしょう?ちょっと心配なその続きからです。
(第9話)【傷心のイギリス旅行へ】
1848年になると、パリでは二月革命が起こり暴動が絶えなく危険な状態になっていました。失恋の痛手もあったショパンは、この頃には体もそうとう弱くなっていたようです。貴族達は革命軍を恐れ田舎へと疎開して行ったため、パリではショパンの仕事もほとんど無い状態でした。以前からショパンの弟子として、ピアノを教えていたイギリスのジェーン・スターリング伯爵夫人の招待でスコットランドを訪れる事になるのでした。
このジェーン伯爵夫人はショパンの熱烈なファンと言うより、どうやらショパンを愛していたようです。だって弟子っていっても、イギリスの北部スコットランドからわざわざフランスのパリまで、習いに来るなんて言ったら今でもそうとうな距離ですからねぇ。それにこのジェーン嬢は実家はかなり大富豪だったらしく、晩年のショパンにも相当お金を工面してあげていたようです。「愛の力」ってヤツでしょうか?一方ショパンはそんな彼女の想いを少しばかりうっとおしく思っていたようです。と言うよりはサンドの事が忘れられなかったんでしょう。
さて本題に戻ると、そんなジェーンの招待を受けて一路スコットランドへと向かうショパンでした。イギリスでもショパンは人気のピアニストで有名になっていた事もあり、そんなショパンをイギリスの名所に案内しようとウキウキだったジェーンは、彼を数々のパーティーに連れ出し、数々の演奏会をする事になるのでした。エジンバラ宮殿での演奏会をはじめ、ヴィクトリア女王の前でも御前演奏をしたいたようですね。
ジェーンにとっては憧れのショパン先生(と言っても彼女の方が年上のようですが)と一緒に過ごした甘い想い出のひとときだったようですが、ショパンには特にジェーンに対してもスコットランドに対しても特に思い入れるほどでは無かったらしく、イギリスからグジマワに手紙で「スコットランドの人はこれでもかって言うほど世話焼きですね、それよりサンドはどうしてますか?」みたいな事を書いていたようです。未練タラタラですね、隣にジェーンが居るっていうのにぃ~。
フランスに帰ってくるとイギリス旅行がかなり疲れたらしく、病床に伏せる日々となったショパン。この頃には死を察していたのでしょうか。ポーランドに居る姉ルドヴィカに「とにかく会いたい」という手紙を送ります。弟の病状を知ると駆け付けた姉ルドヴィカはショパンを献身的に看護します。見舞いには多くの友人やピアノの弟子達も訪ねていたようです。グジマワ、イギリスからはジェーンも来ていました、そして、サンドの娘ソランジュ夫婦も・・・。そんな多く友人に見守られて、姉ルドヴィカの看護も虚しく1849年10月17日ショパンはこの世を去るのでした。享年39歳の若さでした。
ショパンの死後、ソランジュの夫で彫刻家のクレサンジュはショパンの顔型(デスマスク)を取り、手形も取っていました。そして、ショパンはいくつかの遺言を残していたらしく、マドレーヌ寺院で行われていた葬儀にはモーツァルトのレクイエムが演奏されました。そして亡命した為、戻る事が許されなかった祖国ポーランドに心臓を抜き出して埋葬される事になります。ポーランドに眠るショパンの墓の上にはポーランドを出るときに、恩師エルスナーから貰った杯の土が一緒に葬られていたようです。これらの遺言を元に、死してようやく祖国の土に帰る事のできたショパンでした。
もともと体があまり強い方ではなかったショパンですが、あまりにも早い最期でした。しかし、短い一生の間に多くの名作を残してくれたその生涯は、山あり谷ありでしたが、とても充実したものではなかったでしょうか?
さて、この話に出てきたクレサンジュが石膏で取った手形ですが、2年ほど前だったかな?横浜だか東京の美術館に来ていたのを見てきましたが、とっても小さい手でしたね。女の子みたいな可愛らしいこんな手で、あんな難しい曲を作ってたんだなぁ・・・と妙に感動したのを覚えています。
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レフトハンドの画像を見ました。
デスマスクはポーランド土産だそうで
鼻が大きいと思いました。
ハンドは華奢な感じで
急に『黒鍵』を聴きたくなって
矢張り研ぎ澄まされた
ポリーニで聴きました。
そのブログの画像で
ハンドが黒鍵にかかっていたので。
そうなんですよ、手はとっても華奢なんですよね。ポリーニもどことなくショパンに似てる気がしますよね。(雰囲気が)