初心者のクラシック

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カミ―ユ・サン=サーンス(第9話)

2007年11月26日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はシャルル・カミ―ユ・サン=サーンス(第9話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
サン=サーンス:交響曲第3番
バレンボイム(ダニエル),シカゴ交響楽団,パリ管弦楽団,リテーズ(ガストン),モグリア(アラン),ヨルダノフ(ルーベン),サン=サーンス
ユニバーサル ミュージック クラシック

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【Charles Camille Saint-Saens】

「動物の謝肉祭」や、「交響曲第3番」が完成し、成功するとようやく作曲家としての名声も獲得するようになったサンサーンスですが、今日はその続きからです。

(第9話)【世界旅行】
1888年、サンサーンス53歳の年に最愛の母親を亡くします。思えば幼い頃から、母一人子一人の生活を続けていたサンサーンス。時には作品に対す手厳しい評価まで言い放っていたと伝えられる母クレマンス・サンサーンスの死は、相当なショックがあったと思われます。

こうして母親が亡くなると、サンサーンスはパリの自宅と財産を故郷の町に寄付すると、またしてもパリから突如姿を消してしまうのでした。

突然のサンサーンス失踪が、パリでは噂を呼び、「サンサーンス死亡説」までが流れるほどだったようです。

その頃、当のサンサーンスは、フランスはパリを遠く離れ、スペインを南下してモロッコの先にあるカナリア諸島のラス・パルマ(スペイン領)に滞在していたのでした。
しかも“シャルル・サノワ”という偽名まで使っていたようですから、相当念の入った失踪計画だったようです。

以前、妻の前から姿を消した時もそうでしたが、最愛の存在を失ってしまうと周りから姿を消すようにして失踪していましたから、こういうときには誰とも話をしたくなくなってしまうのかもしれません。家財を処分してくるところを見ても、これらの行動はサンサーンスなりの自分自身のこころの切り替えか、あるいはケジメの付け方なのかもしれません。

その後も、旅好きだったサンサーンスはどこかに定住することなくヨーロッパ各国をはじめ、西はカナリア諸島からアルジェリア、エジプト、東へはギリシャからセイロン、そしてシンガポールまで、更にはユーラシア大陸を離れ、アメリカ大陸ではアメリカ横断、更に更に南米にまで足を延ばしていたとかいなかったとか、ほぼ世界一周を旅行しつくすのでした。

サンサーンスが、世界を駆け巡っている間にパリではワーグナーブームが巻き起こるのでした。過去にパリを訪れて演奏会を画策していた頃には見向きもされていなかったワーグナーでしたが、リストの支援もあってバイロイト音楽祭が開かれるようになると、パリの劇場ではワーグナー作品が上演されるていたのでした。


交通機関の未発達の時代に世界旅行とはスゴイデスねぇ!(というかうらやましい…)パリではワーグナーブームが起こっているようですが…、このつづきはまた明日。

【その他の作曲家の生涯はこちら】

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