御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

コンサルタント ヨタ話二題

2009-11-07 21:04:19 | 時評・論評
1.地道仕事、ヘッジ、マジック
コンサルタントに限らずアウトソースされる仕事はこの3っつの要素で成り立っている。宅配便などは地道仕事一筋である。ここは付加価値が比較的とりにくい。
さて、コンサルタントや運用会社になるとこれにヘッジ、マジックが加わる。コンサルタントにしても運用にしても、誰かがやらなければならない基礎部分の仕事はやっているわけで、それは地味仕事である。しかし、依頼者の要請としてヘッジとマジックの要素があり、これをどうするかで付加価値が大きく変わる。
ヘッジというのは、そのコンサルタントなり運用会社を使うことで、結果に対する責任の分散が依頼者(個人または部署または会社)として出来る。特別賢い必要はないが、腹がいる仕事である。ヘッジでいくら取れるかは仕事の性質やそれが成り立っている枠組みなどが大きく影響する。
マジックは、コンサルなり運用会社への賢さへの期待である。運用会社への期待は平均的には裏切られるものである。コンサルに関してはまちまちであろうが過剰期待は禁物である。とまあそのあたりが本当のところだがコンサル・運用者側としてはそこはうまくやりたいものである。

2.枠組みを作りつつコンサルをすること
年金運用コンサルに典型的な話だが、これは枠組みの中での必要な登場人物としてヘッジの役割を果たしてFeeをもらっている。年金運用のロジックは「運用で勝つ」といった精神論の失敗をあまりにも多くみてきたため、そういう粗雑なしかし熱心な意気込みを解体し、部分部分で積み上げを行なう仕組で意志決定を行なわないとまともでない、ということになっている。こういう枠組みができ上がって年金コンサルのビジネスが出来上がり、またそういう枠組みをコンサルが強化してきた。人事コンサルも、90年代後半の年功序列をさげすみ成果主義・実力主義を尊ぶイデオロギー転換という枠組みにより大きく利益を得てきた。
どちらにも共通するのは、枠組みの存在あるいは変化がヘッジ的なコンサルニーズを生んできたということだ。そこで発想はぐっと飛ぶが、実はコンサルはそのことをより強く認識するべきではなかろうか。つまりコンサルニーズは存在したり発掘したりされるものではなく、作りだされるものであるということである。年金のようにアカデミックも含み総がかりで枠組みが作り出されることはなかろうし、実力主義の旋風ももう終わった。ニーズを発掘にいってもそれほど豊かなものがないとすれば、何らかの作業における標準手続きを作り出し、その一部にヘッジ機能を担うものとしてがっちり入り込むのは重要な戦略の一つである。

「ゲド戦記」1- 3巻、解説本「ゲドを読む」

2009-11-07 20:50:22 | 書評
「ゲド戦記」の3巻までを読み、貸してもらった解説本「ゲドを読む」を読んだ。1-2巻が比較的単純なテーマと物語構成をもって入るのに対し、3巻は含蓄深く現段階ではやや読み込みに自信がない。が、ハルキ様同様ほっとくとまた忘れるだけだからここでひと締めしておく。

えっと、最初に意外だったのは魔法使いたちの魔術が案外普通で、ものすごいものではないこと。船のくくりの術、なんてたとえばタールとかをつなぎ目に塗るみたいなことじゃなかろうか。「読む」で佐藤忠男が言ってたけど今で言えば魔法使いは技術者に相当するものかもしれない。そういう魔術の普通さのお陰で、物語はわりと普通でありある意味まともである。
(そもそも超越的な魔力を持ち込んでしまうとそれを発動させる手続き-特定の場所とか特定の石とかを探しだし、主人公が選ばれしものとしてその魔力の発動を媒介する-に物語がいっちゃうから、結構作る方は本筋の周囲に豊かさをもたせるのにいろいろ無理筋の苦労をしてるように思う)

さて第一巻。これは「読む」の河合隼雄の解説のとおり、確かに影は分離された無意識の隠喩であり、第一巻はそれと意識的自我の再統合の物語である。若者の成長物語とともにあるのは実に実感が伴う。特に影を呼び出すことになるのが幼いころ女性に言われてから、とかヒスイといういけ好かない友達との張り合いにおいてであるのはいかにも男の子らしい。 自分でも全くこれは身に覚えのあることで、女性の前で、あるいは同輩と競り合う中で見栄を張り自我をBoostしようとしたものだ。そうして形成される自我は強く、また奇麗事や建前で出来てており、それ以外の部分が無意識の領域に捨てられてしまう。そういう風に考えると、僕の場合は「影」が最初から存在したわけでも影が独立してできたわけでもなく、実は意識的自我が少年期から青年期にかけて形成されその陰画として「影」が出来たように思う。ぼんやりと存在していた自分というものが分裂していったのだ。
そういう僕の無意識は(物語の中でのように)自分を襲うほど強いわけではないが、その無意識の方を生き切れていないことの空しさが強まってくる(あれ、これが襲われたこと?)。僕の場合は20歳前後のころからであろう。その後はゆっくりと、社会的生活に必要な意識的自我は保ちつつも、もともとあまり無理をしたくないタイプなので徐々に無意識的部分との統合が進んだ気がする。要は、今は若いころよりはよっぽど楽にまた自然に生きている。それなりの社会的なポジションを確保し年齢が高まるにつれ意識的自我の主張により競争に参加したり自己防衛をしたりする必要が減ってきたのも大いに関係していよう。
影と自分と言うのを無意識と意識的自我としたが、実はこれは「自分の出自」とより「普遍的で高級なもの」、とすることも出来るかも。中堅都市で育った、ひととうまく交われず感情の起伏が激しい青年が、東京コンプレックスや海外コンプレックスの強い中堅都市の人々の中にいるのがいやでそこから抜け出して東京を知り大企業を知り外資を知り独立起業を垣間見て一通り邯鄲の夢を見た。教養なき育ちながら哲学や文学や音楽もある程度以上知り、自分の好みを知ることが出来た。いやそれ以上にすばらしいのは興味ないとか知らないと平然といえるようになった。もういいのだ。普遍・高級はあこがれるべきものから単なる意匠のひとつになり、自分の出自から来る自然の趣味と比較して良し悪しというものはなくなる。普遍・高級と我が出自はこうして同列化し、ある意味統合された。自分がそうなってくると、過去会社をつぶしたりして苦労して、今でもあばら家で多くの病気を抱えて暮らしているが、まあなんとも恬淡としている父親が恐ろしく凄い人間に見えてきている。
とまずは強引な第一巻の解釈。なお、生死の世界の境目があいてしまってそれを閉めるのに長老の命を費やしたことの隠喩は今ひとつ理解できていない。一方で、変身したら元に戻るのが大変というのはそのとおりと実感。防衛的手段として意識的自我に主張させると、次第にそれが人格になる。本来のナイーブでいとしい自分を忘れることは多々ありますね。これは他の多くのひとにも観察される。何かの本で読んだがニーチェのことばで「化け物と戦うためには自らも化け物にならなければならない」というのがあった。もっともな話だ。でも戦ったあとはちゃんと戻ろう。できれば、化けずに済ませよう、ということ。

注)11/9付記:無意識との再統合と似た話だが、僕が20代後半から30代前半にかけて唱えていて、また自分でもガイドラインとした説があった。それは「人間は無垢で生まれるが色に染まる。しかしいろいろな色に染まってゆくにつれ、虹の七色が混ざると透明になるように、明るくまた透き通ってゆく。そうして再び元の無垢に戻るが、これは試された無垢であり幼児の無垢よりはるかに強い」というもの。3-4人の支持者がいたね(笑)。いま言いなおすなら「汚れ汚れ学び学び、汚れ学びて果てに澄みゆかん」というところかな。楽になってきたのは昔よりは大分澄んできたってことかもね。

第二巻。物語としては面白かった。「読む」などで語られている解釈は今ひとつのような気がする。河合さんは男性性と女性性の問題で腕輪の結合がその統合の象徴、と、あまりにユング学者らしすぎる解釈をおっしゃるし、訳者の清水さんは安気な隷属と重たい自由の選択、といかにも時代背景そのままのことをおっしゃっている。こういう視点であまり含意を読み過ぎると却って興を減じるような気がする。河合さんも清水さんも、最後の方で「解放者ゲド」にテナーが切りつけようとする場面を話題にしている。河合さんはゲドの対応が見事だ、男の対応としてうまい、と誉めるし、清水さんはテナーの行為に自由へのアンビバレンスを読み込んでいる。でも、僕としてはまあ、こういう矛盾する気持ちの行き来はありうるし、それへのゲドの対応も偶然に過ぎないかもしれないが、そういう、結果として剛毅な対応で物事が次に進むこともあるのだといっていると思う。要はこれらの出来事の偶発性が物語のリアリティーを増しているように思った。あまり隠喩を読むところではないような気がする。
で、僕が読んだ筋は、これはテナーにとっての与えられた「現実」の崩壊と自らによる「現実」再構築の話ということである。アチュアンの墓所の神殿ではダライラマのごとく生き返りを繰り返す「大巫女」とその取り巻きが本尊の「名もなきものたち」を祭る。大巫女のテナーにとってはそこが与えられた「社会」であり「現実」である。そこからゲドに連れ出され、そして悩んだ末に新たな「現実」を知ろうとし生きようとするところで終わる。それは与えられるものでもあり自ら再構築するものでもある。
再びわが身をひき出すと、「普遍・高級」への憧れもあり東京に出てきたのはいいが、そこで繰り広げられる学生生活の予想外の下らなさ、志のなさにあきれ、そういう現実に適応しつつも哲学・思想・歴史あたりの本を渉猟していま目の前の現実を相対化して、自分なりの現実認識を形成していった。これは30歳ぐらいまでかなり集中的に、その後も緩やかに継続している。自分にとっての「現実」(あるいは価値基準)の再構築は、自我の再統合と同時に進行してゆくものだと思う。つまり自我と現実の再統合。
ひとつ気になる点。アンチュアンの墓所が世俗の長である王の宮殿の立派さに比べ古びてきていること。没落しつつある由緒正しい神聖なる集団。絶対王政時代の教会とか徳川時代の天皇家を思わせる。で、そういう中で王の支配から、ではなく寂れた神聖集団から逃げ出すとはどういうことを意味するのだろう?上ではそれもあわせて「現実」としたが、ちょっと違う話になるかもしれない。

さてと第三巻。自己を再統合し、自我と現実の再統合を果たしたのち、ついに生と死の均衡と再統合が図られる、とでも言えばきれいで聞こえが良いが、いかがなものか。中沢氏や河合氏の解説も第三章は歯切れが良くない。中沢氏の言う旧石器的思考対新石器的思考というのはまあ斬新だが、そうはいってもゲドもアレンも新石器人だ。河合さんは老若の組み合わせの示唆するもの、竜は夢であることの暗示、あてどなき第三巻の旅と精神分析の類似性などを語っているが、どちらかというと感触的なものに過ぎない。
ではお前は、と言われるとさしたる定見までたどり着いてはいないのである。が、語ってみよう。まず思ったのは、「死があるから生が輝く」という言い方が多く出てくるが、これは相当用心して語らないと率直に言って説教臭いせりふである。僕は何度か死にかけているのでその意味は少しはくめるが(もちろん反論もある)、普通はきれいごとであり説教でしかない。その点においては第三巻は成功してないように思う。「生を拒否することで死を拒否する」という言い方もあった。これならわからんでもない。まるで生きていないように組織に順応して、そのことで組織内での死を拒否しているひとは、サラリーマン人生ではまあ数多く見かけてきた(笑)。でも作者はそういう意味で言ったんじゃないかな?
それほど話の中で発展的に扱われるわけではないが、「何かをすることの方が何もしないでいることよりずっと容易なんだ」というのは感心したというか大賛成だな。この趣旨の発言は2-3箇所で出てくる。僕は昔から人間の知性(特に自分およびもっともらしく活動的な人々のそれ)への不信が強い人間であり、「小ざかしいことはしない」というのが一番好きである。他人がそういうことをすると、その人間を懲らしめるために知性を使うことはわりと良くある(笑)。「ある」人生と「する」人生の選択、というバリエーションもあったな。僕はもちろん「ある」派である。
もう一つ断片を挙げると、皆が魔術を失い呪文を忘れ悪くなってゆく世の中、そのことを語るまいとする世の中というのは、新自由主義のここ20年弱だったかという気がする。ベルリンの壁が崩れた時にどこかで世界に穴が開き、正義だとか高潔だとか慎みだとかいう美徳が吸い出されてきたように思う。著者は60年代のことを言っているのかもしれないが。
さて、断片ばかりいっててもカタがつかないので、醸成不足ながら締めておこう。一番印象に残ったのはゲドがアレンに言った「そなたは根が深い」というひとことである。そう、根が深いひとはいるのであり、若くして根が深いひとには無限の可能性がある。願わくは、この先10年ぐらい、根の深い若人とともに力を尽してこの世に開いた穴をふさぎ、高潔な世の中の再来を夢みて隠遁するあるいは死にゆきたいものである。

なお、解説本「ゲドを読む」は中沢新一、河合隼男、佐藤忠男などの一流の論客がゲドを論じている。やはり中では中沢氏、河合氏の話が示唆するところが多く、上の論評にも溶け込んでる。というか、あんまり素直じゃあないんだけど、彼らが論じているのをみてそれはちょっと、という方向から辛うじて自分の論がまとまった感じである。最初に論じた人々には深謝。あと、収穫だったのは、映画の監督の宮崎吾朗が、案外に考え深いことを知ったこと(河合氏との対談)。映画自体は評判悪かったけど、またその評判には同意するけど、これを読んで「次は頑張ってな」と言ってあげたくなったね。