御託専科

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[現代芸術]徹底批判 大航海 No.70

2009-11-14 09:47:24 | 書評
これはすごい雑誌だね。最近廃刊になったそうだが残念。今回があまりに面白かったので、「脳・意識・文明」 の特集号と 「ニヒリズム」の特集号も発注しておいた。それにしてもこれだけ充実した論考集がたった1500円で手に入るとは幸せなことである。特に脳・意識・文明の特集では二分心論のジュリアン・ジョイスが結構取り上げられているので楽しみである。

さて、14のエッセイとひとつの対談が収められており、このうち12のエッセイと対談を読んだ。主な論旨は不器用ながら下にまとめた。
しかしまあ、これで一応現代芸術に関する思想面からの集中的追求は終りかな。どのような分野でもそれなりの評価の文脈とか作法があるのかと思いざっくりと学んでみたが、誰かも下でいっていたとおり現代芸術はある種浮遊した評論と制作の永久運動におちいっているようだ。村上の言うような文脈の読みとそれへの適切な切り込みは、売り込む側としては必要だが、味わう側は下で尼ヶ崎がいっているようにそんなもの関係なしに自分が価値ある経験が出来るかどうかということで臨めば良い。ピカソの絵でも絵葉書でもいい感じがする方を買えば良いと言うことであり、ぐるりと元に戻って、素直な直感主義で行けば良いと改めて悟った次第。消費者・鑑賞者が文脈を(知的な見栄から)理解しようとすれば、ブランドにカネを払うと同様に文脈にカネを払わされるだけだろう。ま、直感を発達させるには趣味を共有できるよき指導者・パートナーが欲しいことは欲しいが。
また、より価値のある経験ということでは芸術的体験をするほうが重要だろう。歌のレッスンやピアノの練習、ちょっとかじった俳句やドローイングを再びやって見ようかと思う。


(全体観)
論者の強調点は違うが、概ね次のような点は共通である
①芸術は「もともとある」ものではなく、社会的・歴史的な経緯から(そしてその圧力から生じる感受性の変化から) 芸術に「なる」ものである。
②そのための社会的・歴史的圧力が希薄な現在(ポストモダン)、芸術のありようが無秩序に多様化しているのは当然である。

(個別論考)
「近代の残滓としての芸術」貫 成人:
マネの絵は遺族や関係者が死後のオークションで価格を法外に吊り上げたので歴史に残った。ガラクタが傑作に変身することで芸術の定義も変更され、我々の感受性も再構築される。感性や感覚はそれぞれの時代と地域において再構築されるものに過ぎない。
それでも芸術が高い価値をもつに至ったのは近代の芸術崇拝の思想ゆえである。国民国家の統合装置・威示装置として。
しかし冷戦終結後近代国家モデルは決定的に崩れた。芸術のための芸術、芸術至上主義は基盤を失った。世はニーチェ的永久回帰の中におかれている。
それでも、自分の感覚を「いま、ここ、わたし」に限定させず、さまざまな規模の過去や伝統、状況に開きゆくものとして芸術の意味は大きい。芸術はもはや近代の残滓であり終わったかもしれないが、それは遍在してもよいのである。
←源平翁の言う、「工業製品に抜かれてしまった芸術」というのはこのことかな。つまり、いまや工業製品が遍在する芸術、ということ。

「芸術と近代国民国家」松宮秀治:
芸術崇拝や芸術の自立的価値は18世紀の啓蒙思想という西欧の特異な思想の産物である。人間が人間社会の価値を自ら作りだしうる、という思想であり芸術のための芸術、というのもその並行的思想である。フランス革命後は政教分離、国民国家という神話のよりどころとして文化英雄をミュージアムに祭ることが行なわれる。
しかし、「職人的技芸」という出自を忘れ「芸術」という特権的地位に安住することで腐敗と堕落と力の衰退が生じた。近世以前を越える作品が出ないのはそのためである。
19世紀末の画家たちを初め芸術家たちはそのことに気がつき、力では足元にも及ばない近世以前の作品と勝負することをやめ、奇を衒った突飛さで勝負することにした。
「いわゆる現代絵画とは想像力の欠如と近代西欧の芸術概念を詐欺的に利用した、一種の山師的な芸術である。その旨みを最も味わいつくしたのがピカソであり、そのやり口が最も巧妙だったのがデュシャンである」
←これはそうかもな。絵、うまくないもんね、みんなとはいわないが。

「ロマン派の呪縛と現代音楽の袋小路」 岡田暁生:
18世紀までは作曲家は堅牢な作曲システムの中でいい曲を作れば良かった。19世紀の作曲家は、システムを崩しながらオリジナルな曲を書こうとした。20世紀の作曲家は、曲を書く前にまず自分の音言語システムを構築しなければならない。これは、社会がお互いに無関心な多数のマスに分裂していることの反映でもある。しかしこれはそれぞれが手前勝手なルールでゲームをやってるのと変わらない。
18世紀までは統治者が社会に統一を与え、趣味・芸術にも統一様式をもたらした(メディチ家とフィレンツェルネサンス、ルイ14世とフランス・バロック、ルイ15世とロココ)。その統一がなくなったいま、複数の「内輪」が存在するのみである。これが現代音楽の不毛の要因である。
もうひとつは、作曲、演奏、批評、聴取の分離。聞き手の声はもはや作り手に届かない。
対策。もう一度アングラから始める。社会を統一する「宗教」の再構築が必要である。気心のしれた仲間とそういう試みをした晩年のシュトックハウゼンのように。
←社会の作りなおしからやるしかない、という主張。よくわかるがそれはまた別の内輪を作るだけでは? 統一性も至高の価値もない永久回帰の世界を生きぬくしかないんだと思うがなあ。

「芸術院とは何か」小谷野敦
芸術院の告発記事みたいなもんだね。内輪の、老人のための年金分与システム。納税者よ文句言え、というのが趣旨。さすが小谷野さんの目のつけどころと筆致ではある。


「<おもろい>もとめて三千年」篠原資明
これはわからん。感性過剰性、痕跡過剰性、解釈過剰性というのが差異の生成を現在・過去・未来の観点から見たありようなんだそうだがなんのこっちゃ。これらが有効な概念装置として働いているとも思われず。三浦雅士はなぜこれを載せた?

「現代音楽の聞き方?」片山杜秀
現代音楽でも重要な音型(テーマ)はあるそうな。が、それを聞き出すのは無調だから結構大変で楽譜を見るしかない、などなど。
←もし現代音楽を理解しようとするなら面白い(また頭でっかちではない)話がいくつかあった。

「バナナの叩き売りの口上はいかにして「芸術」になったか」
音楽は最初からそのようなものとして「ある」わけではなく、文化的なコンテクストの中で「なる」ものである。 また音楽や「芸術」は、芸能、記念物、歴史遺産、民族資料等々の事象を括る様々な概念のひとつにすぎず、それらのせめぎ合いの中でたまたま優位性を示したというだけの話、それだけが何か特権的な地位を占めているというわけではない。
←やわらかいが究極の価値相対主義であり、まあ正統かな。

「現代芸術は裸の王様か?」安芸光男×三浦雅士
内容深く多岐にわたり、また発想知識見識の広い両者の会話の迫力は要約できず。ただし基本はニヒリズムの反映としての現代芸術の混乱(というより芸術の終り)、というところかな。

「「アンフォルメル以後」の以後」栗原祐一郎:
少々わかりにくい論考(というか発散した論考)だが、アンフオルメル以降のアートを
「芸術とは何か」という問いかけによって逆説的に作り出される不毛な永久運動みたいなものであって、その連なりから自律(独立)したアートだとか自律した批評だとか、そんな物は絵に描いたモチに過ぎない。
と評している部分は面白い。18世紀以降の美術史全体がそんな感じがある。やがて空しき、しかし知的な創作と批評の連関運動かな。

「芸人から芸術家へ」 加藤徹
中国の「女形」梅蘭芳を題材に、アジアで芸人が芸術家になってゆく様子を描いている。アジアにも芸人は居たが、西洋の衝撃を受けて初めて芸術が認識された。
芸術の本質は科学や資本主義と同じく近代西洋社会が生んだ価値(再)生産システムである。暗黙知の持ち主である芸術家に加え、形式知に長けた知識人が批評という二次創造のシステムを構築している。
←現場力の東洋、構築力の西洋、というのはビジネスでも見るなあ。

「私芸術とインタラクティブ」尼崎彬
この論考はダンス・演劇という分野のせいか、現在に向かって明るさが高まっている。
ダンス・演劇は60年代の革新、80年代の解放を経て90年代は新たな出発である。90年代は60年代と違い革新における歴史意識はなく、80年代と違い既存権威からの解放感さえない。過去を模倣しない、観念的テーマに頼ったりしない、ひとりよがりの罠に落ち込まない。等身大・同時代の空気がそのまま呼吸されている。
芸術家の創造を専門家が評価することによって芸術の価値は測られて来たが、もはや一般人はそのような教えはいらない。自分に「どのように価値のある体験をもたらしてくれたか」で評価される。ならば、身体感覚を巧みに表現した舞踏の舞台もジェットコースターから得られる感覚には及ばないことになる。戦争の悲惨を訴える絵が一枚の記録写真に及ばないことになる。芸術の定義はやり直しである。
ケータイ小説だとかニコニコ動画上の「男女」、初音ミクなど、インタラクティブの中で素人が創造をして新たな共有資源を作り出している。これは実は近代以前の、アマチュアの活動を中心に据える芸術活動の復活である(例えば短歌などは玄人はいなかった)。劇団などは地方公演では最近は必ずワークショップが望まれる。平田オリザは、いまの人が当然のようにモーニング娘を踊るように、将来は演劇もそうなるだろう、とまでいう。
芸術は一般の人にとって受動的に鑑賞するものから能動的に参加するものへ、また共同ですべてのプロセスを味わうものへと変化しつつある。
←これを読むと、ほかの人たちの嘆きがプロだけの世界での閉塞に過ぎないと思われたりするね。鑑賞するもの・されるもの、とだけみるから閉塞するんだ、ってね。考えてみれば我が娘は素人映画製作に励んでるな。

以上。あと4論考は未読または未消化。