御託専科

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「青春の終焉」三浦雅士

2009-11-21 08:21:54 | 書評
「1970年代に青春はひっそりと終焉した。教養の終焉も、大学の死も、その一環に過ぎないのである。」

それに前後して進歩や成長の神話も終焉を迎えた。また現在を弁明する道具としての歴史も終わった。ブルジョアの勃興を背景として隆興したこれらの観念や考え方は、ブルジョア社会が大衆化社会に到達する中で、あるいはそれに遅れて、息を引き取った。あとは人々は神なき・それに代わる超越者なき日常を、廃墟のごとく未来を感じつつ、昨日の如くあすを感じつつ(永久回帰)生きるのみである。

「超越は存在しない。人はいま、その誕生の時と同じほどに異様な自由のまえに、立ちすくんでいるように思える。」

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ちょっと格好つけてまとめるとこんな感じかな。500ページの浩瀚な本、それも「群像」への掲載をまとめたものだから話はかなりの広がりをもつ(特に日本文学・論壇)し、著者が更に一考したい段階のものもそのままある。が、乱暴にまとめてそれほどはずしてはいないかなとは思います。

青春・進歩・大学・教養・成長・歴史認識 と言ったものがワンパッケージとされるもので、しかもその起源が、とても大雑把にいえば近代の、ブルジョアのヨーロッパである、というのはいいまとめだった(とは親切にまとめられてはいないが)。じゃあその青春の特徴は何かというと、革新的であり、根源的であり急進的であることである。中世以前の社会ではそれは逸脱でありよくないことだったのである。普通は自滅する。しかし青年の行動力、無謀と情熱が合理的精神と手を組んだなら、それは生産の拡大に結びつく。すなわち、産業革命を経て青春は美徳となった。
しかし、近代化の結果として近代を支えた概念への疑問が生じ、また環境としてもブルジョアがリードする社会(啓蒙主義)から大衆社会に移行する中でこうした概念の下部構造は希薄化した。世界中で青春時代が終わってる。ヨーロッパは20世紀初めからそれに気がついていた(本家だから当然)。自分たちが若さを失いつつあることを。
オヤジが「今の若者は若者らしくない」とかいったり、いまの社会が若者に寛容でないといったことも、社会の青春の終焉と軌を一にしているのだろう。おっと、ぐっと日常に落ちたが。これからは「成長」ではなく「変容」であるのかもしれない。そこには青春賛歌、青年賛歌は確かに不要だ。それ以上に、もはや誰も逸脱(=青春)を非難することはあっても賞賛することはないのだ。

「青春の規範とは根源的かつ急進的に生きることにほかならなかった」ってのは響いたなあ。根源、ってRadicalのことだろうな。まさにそうだよな。小市民的な範囲ではありながら出来るだけそう生きてきたつもりなんだよなあ。青春というものが終焉したとしても自分としては根源的と急進的の看板はもっておきたいなあ。もう第二の天性だものね(というか生来の癇症の正当化でもあるのだが)。それも青春の残光を浴びて育った人間のノスタルジーかなあ。ぼくのはどっちかというと「自ら省みて直くんば、千万人と雖も我行かん」だから洋物とは毛色が違うかな、と思ったがこれは吉田松陰だからむしろよりきつい青春原理主義者かも(笑)。

ともあれたいした本である。いまの世の中に存在している(残光として残っている)近代の「良い子の」規範らしきものを相対化するには非常に良いので皆で読もう。でも厚いからなあ。3分の1ぐらいにして普及版出しません? 三浦さん。

ところで村上春樹にかかわる面白い記述があった。「村上春樹の主人公たちの青春は、つねに、すでに終わってしまっている。あらかじめ失われているのである。」「つまり「僕」にとっては世界は一様なものの繰り返しに過ぎないのだ。」
そうだね。村上は物語自体というより、物語の語り、事件を主人公が受ける受け止め方の方に特徴があるといえるかもね。そういえば「メリーゴーランドでデッドヒート」とか言ってたな、「世界の終りと・・」の中で。
「村上春樹以後、世界は果ての果てまで終わってしまっていて、ただひたすら遠いかこのように現在を生きる、そういう若者の姿を描く作家が次々に登場した。」そうだ。

なんてやってると山のようになるのでこの辺で。