御託専科

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正法眼蔵 とっかかり

2010-01-31 10:27:48 | 書評
直前に書評を書いたパンゲの「自死の日本史」に引用のある道元の「往生とはこの世においてするものなり」という言葉に引かれ、それで道元を調べてみるかい、となった。最初はまず石井恭二氏による現代語訳を買い、著者名は忘れたが「道元のコスモロジー」という本と、やはり石井恭二氏による対訳を借りてきた。
そこでいきなりハタとつまった。冒頭の章「現成公按」の冒頭4行の読み下し原文の凛とした美しさと力強さにまずは衝撃を受ける。田村の「腐刻画」あるいは西脇の「天気」並みの、人の思考をさっと塗り替える力のある言葉である。
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諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
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うん、これは翻訳ではとてもとても。
ところがである。西脇や田村と違ってこれは思想であり哲学である。言葉の意味とつながり一つ一つをゆるがせにはできない。できればいま並行して読んでいるベイズ統計の本と同じぐらい明晰な理解をしたい。僕としては疑問は、

諸法、仏法、時節、万法、仏道、豊倹、跳出、の語彙の意味、1節と3節の違い、なぜ3節から4節が「しかもかくのごとくなりといえども」という逆説でつながるのか

という点に尽きる。
何だ全部じゃないかといわれればそのとおり(笑)。しかし率直に言わせていただくが、正法眼蔵の翻訳や注釈、解説をしている人たちのどのくらいがこの疑問に正当に答えられるのだろうか?先週は時間があれば本屋に寄り、図書館でも関連図書をあさって少しでも見込みのありそうなのを借りてきたのだが、本によってムラがあり、なんとも難しい。

正法眼蔵は今後も取り組むことが多いと思うので、ちょっと見切りをつけた本を挙げておく。(現成公按の最初の四文の解説・翻訳を見ただけの話なのでその点は注意)。
石井恭二氏の現代語訳、対訳:悪くはないので先に参照するかもしれない。でも、「時節」の扱いが雑(というより無視)なので仮定法的ニュアンスがまったくなくなってしまっている。
内山興正氏の解説本:この人の言い分は面白い。仏教界の神秘主義やあいまいに理解する傾向を強く批判している。しかし、自分には入り込めなかったなあ。言葉を厳格につむぎながら道元の真意を解釈するあるいは「証明」してゆくということではなく、なにやら座談めいた話で終始している。たとえば第一節の解説では「ここに「あり、あり、あり」といわれていることは、まさに自他、能所、有無、生死など、すべて二つに分かれる以前の「生命実物としてある」のであって、決して・・・・概念的実在としての「あり」ではありません。」とあるが、どこをどう読めばこうなるのかわからないし、「あり」概念の区分も納得がいかんね。
竹村牧男氏の解説本:このひとはダメ学者の典型じゃあなかろうか?いきなり「諸法」についての解説が始まるのだが、それが語源から諸流派での話におよび4ページに上る。そのあとで「諸法が仏法であるときには、つまりこの世界を仏様の目で見た場合には、・・・・」
などととてもじゃないが納得のいかない「仏法」の解釈が出てくる。

ほかにも「予選落ち」は数知れず。結局残ったのは
黒崎宏「ヴィトゲンシュタインから道元へ」
田中晃「正法眼蔵の哲学」
南直哉「正法眼蔵を読む」
門脇佳吉「正法眼蔵参究」
の4冊。上の2人は哲学者、最後の人はイエズス会祭司でもある禅の行者。3番目の人は純粋なお坊さんだが、哲学的傾向が強い人。まあ、僕が選ぶんだからこんな具合になるのも仕方ないかな(笑)。特に道元においては神秘的傾向や悟り至上主義などを笑い飛ばす傾向があるので、選ぶにあたっては「体験者の暗黙知を尊重する」べく自分の考えを抑制するようなことをしなくてすんだ。ということだろう。(体験者の暗黙知を尊重する、って態度は案外成功しないんだよねえ。彼らは胡坐をかいているだけってことが少なからずあり)

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