ぶつぶつ地蔵

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鞍作の邸宅跡

2005-11-15 01:30:13 | 好き・応援
ここ数日で、いろいろ書きたい事、書く事、が、山積みになっているのに!
日付け順で書くとするなら、これは最後になってしまうはずなのに!
ダメなの。今日の話題は全てを押し退け、これ。

蘇我鞍作邸跡

まだ、確定はされておりませんけどね。7世紀代としか確定されておりませんし、礎石も、鞍作邸にしては小規模なものばかりなので、これは従者の住居跡であるのでは、というのが有力だとか。
それでもね、鞍作に関する「何か」が発見されるってのは、鞍作ファンとしては、ごっつ嬉しい事なんです!!もぉ、ハフハフするくらい!

今後の『谷の宮門』の発掘に期待がかかります。
どうなるんだろう。。。


蘇我鞍作をしらない人の為のワンポイント
一番ポピュラーな呼び名は蘇我入鹿である。
時の天皇をも凌ぐ大豪、蘇我家宗家の最後の大郎(たいろう)。
642年、聖徳太子の子、山背大兄皇子を襲い、上宮王家を滅亡させる。この後、宝皇女が皇極天皇として即位、年号を皇極に改める。
643年、父、蝦夷(豊浦大臣・とゆらのおとど)より紫色の冠を頂き、大臣として働きを行う。積極的な外交と仏教の普及に勤め、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の建設等にも携わる。
葛城山に蘇我氏の祖先を祀る神社を作ったのもこの頃。また、蝦夷の邸宅(上の宮門・かみのみかど)と自身の邸宅(谷の宮門・はざまのみかど)を甘橿の丘陵の上に築く。周りに柵をめぐらし、漢氏を指揮とした兵を置いたその造りは、要塞の様であったとも。さらに雙墓(ならびのはか・蝦夷と鞍作の墓)の作成も行う。
645年、乙巳の変にて中大兄皇子(後の天智天皇)並びに中臣鎌足らによって宮中太極殿にて暗殺される。この後に年号を大化と改め、改革が行われる。この改革を明治以降『大化の改新』と呼ぶ事となる。日本古代における最大のクーデター。
655年(斉明元年)、葛城山より青い笠をかぶった鬼が龍に乗り生駒山の方へと飛び、大阪方面、住吉から西に向かって飛び去るのが目撃される。
661年(斉明7年)、斉明天皇(皇極天皇が重祚)が百済援助の兵を挙げた時、九州にて鬼火が見られ、その頃から兵が病で次々と死んでいく。九州へと赴いていた斉明天皇も病没。この時、笠をかぶった鬼が再度現われ、斉明帝の葬儀をジッと見ていたという。
葛城山、生駒山共に蘇我系の山である。鬼=蘇我の怨霊と言う説も。。。
(参考資料:日本書紀、古事記、日本霊異記、古代史の秘密を握る人達、飛鳥王朝史、等)

杉本苑子さんの「天智帝をめぐる7人」で、鞍作への認識を変えたオイラである。(風鐸・軽皇子の章に出てくる)
読んだ後に、早速調べてみることに!しかし…あまりにも有名なのに、全然資料がないのはどういうこった?授業で習った通りなら、史上稀に見るワルモノ。しかし、歴史には常に表と裏がある。もしかすると、とても斬新で、熱血で、切れ者すぎたのかもしれない。時代にマッチングしなかったそういう人は、えてして、時の流れからはじき出され消えゆく運命である。勝てば官軍、負ければ賊軍。死人に口無しだもんね。
・・・言う事で、オイラの中では鞍作は『時代を先取りし過ぎた切れ者』と認識されている。一番のバイブルは関 裕二さんの著書達である。関さんの本を読むと、歴史は表ばかりでなく、裏側からも見なければ。。。と言う気持になる。


・・・あぁ、単なる歴史オタクのたわ言じゃ。