昨夜、私はある同級生男子から、
電話で戴いた問いに、
どう返答すれば良いものか
困惑してしまった。
彼の「問い」とは、
「みんな、田舎が良(い)い、良いって言うけど、
田舎にどこか良いとこがあったかなぁ?」
だった。
「田舎」とは、
電話の相手と二人の共通の、
私が「リトル」と、親しみを込めて呼ばせて戴く
唯一無二の故郷のこと。
ところが、彼が言う「良い」とは、
リトルの「歴史」のことなのか、
「名所旧跡」なのか、「風光明媚な景観」なのか。
恵まれた温泉資源の「資質」なのか、
その「施設」なのか、
気候を活かし作られた「特産物」なのか。
あるいは「人情」なのか、「友情」なのか、
リトルを離れるまでに創った「思い出」なのか。
問われた初っ端は、その「良い」は、
何を指して言っているのやら
さっぱり解らない。
電話の向こうは、とっくに酔っているのに、
こっちは、まったく酔っていない。
暫らくのやり取りで結局、
正確な問いの整理も出来ず
応えようがないままに、会話は終わったが、
電話を切った後で、その「良い」の対照が
彼が故郷に残した「思い出」であることに
気が付いた。
歴史観や特産物の私見や嗜好にも
個人差があるように、
故郷に残した思い出に、
好感もあれば、悪感もあり、
人それぞれに思いの違いがあるのは
私にも確かに判る。
子供たちが育った故郷は一つ。
そこで浴びた太陽の光の量も等しい。
なのに、生まれ育った家庭環境は
けして、子供たちに
等しくは無った・・・
成長の過程で
少しずつ見え、描き始めた未来図が、
子供の意思に反して、違う道筋が求められる。
世に「不条理」と言うものが存在することを
そこで知ることになる。
その無念さが、
「等しいはず」と信じた多感な子供の心に
陰を作っていた。
半世紀が過ぎ、既に還暦の峠を越した
かつての無念の子供の心に
酔いが回り始めると、
ふと、あの陰が頭をもたげだし、
誰かの声を聞きたくなる衝動に駆られて
そして、電話を掛ける。
今は互いに遠く離れた街に住む、
同じ故郷の友の声を聞いて安堵し、
そのまま眠りに就く。
私には、昨夜の友の、電話を終えた後が
手に取るようである。
「田舎にどこが、良いとこがあったかなぁ?」
と言うけれど、
「良いとこ(所)があったかなぁ」ではなく、
「良いこと(事)があったかなぁ」と、
言いたかったのかも知れないけれど、
あなたが酔って掛けた電話でも、
酒も飲まずにちゃんと応えてくれる
今でも友人の相手がいるじゃないか。
傍にいれば、モンゴウ・イカの煮物で
昨夜は一杯やれたのに、
残念で残念で
私はなりませぬ。
ウィーリー・ネルソン。
「Always On My Mind」
「いつも君のことを想っているんだよ」
もちろん!、、、涌蓋山登山(・・?
歩こう会?
リトルの良いとこ、良い事、見つけに
レッツゴー!
お元気でお過ごしでしょうか?
お元気でお過ごしとところに、誠に申し分けない
お知らせ。
実は5月4日、我が家にやんごとなき都合ができ、
当の企画者が「GWはリトルで遊ぼう」を
参加できなくなりました。
参加希望者にその旨を伝えたところ、
今回は残念でなりませんが
中止とすることにしました。
本日、そのことを日記に記すつもりでした。
又、企画します。
良いとこだらけのリトルは逃げません!
お知らせが遅くなり、大変申し訳ありません。
愛するジーナへ
私、夢の世界に向かうために今から、
眠りに就きます。
いつものように、日付変更線が過ぎたころ、
いつもの峠の向こうで待っています。
今夜も夢でしか会えずに、ご免。