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菅直人首相は、「奇兵隊内閣」を名乗るも、高杉晋作と比べると「月とスッポン」である

2010年07月20日 20時37分15秒 | Weblog
菅直人首相は、「奇兵隊内閣」を名乗るも、高杉晋作と比べると「月とスッポン」である
(板垣 英憲)より

◆私は7月19日午後11日45分からのフジテレビの報道番組「ニュースJAPAN」に録画出演した。
FNNが参議院選挙から1週間たった18日までの2日間、全国の有権者1000人から回答を得た電話世論調査により、「菅内閣支持率が40.3%に下落し、不支持が45%で、政権発足1カ月余りで『不支持』が『支持』を上回る」という結果が出たのを受けたものだった。

◆この日、取材班の撮影隊がさいたま市南区内の私の事務所を来訪、インタビューを受けた。
質問内容が極めてユニークで、菅直人首相と江戸幕末尊攘・倒幕運動の志士で長州藩士の「高杉晋作」を比較するという試みだった。
菅首相が、組閣直後、自らの政権の性格を高揚感を持って「奇兵隊内閣」と名づけたのが発想の原点である。
菅首相は、父親が山口県宇部市の宇部曹達(現・セントラル硝子)に勤務していたときに誕生し、山口県立宇部高校2年まで暮らした。
父親が東京勤務となり一家は、三鷹市に転居し、菅少年は、都立小山台高校に編入し、卒業後、父親の母校である東京工業大学理工学部応用物理学科に入学した。幼少時代に育った山口県の生んだ偉人・高杉晋作に心酔するのは、ごく自然のことであったであろう。

◆私がインタビューの対象に選ばれたのは、2008年3月、「高杉晋作が経営者だったら」(サンガ刊)という著書を出していたので、これがネットで目に止まったのだろう。
高杉晋作は、吉田松陰の愛弟子の一人である。
吉田松陰は、長州藩の藩校・明倫館の軍学教授で後に松下村塾で教え、短期間ながら明治維新の志士、明治政府や財界などの指導者となる優秀な人材を育てた。
高杉晋作は、藩士と士族以外の武士や農民、商家、僧侶、力士など庶民からなる混成部隊の「奇兵隊」創設を発案、認められ総督に就任して、第二次長州征伐にやってきた幕府軍との戦いでは、諸隊を率いて見事に勝利した後、結核で倒れ、弱冠28歳で幕末を駆け抜けて行った。
この間、奇兵隊が撰鋒隊が衝突した教法寺事件の責任を取り、総督を辞任、保守派「俗論党」が優勢なときは、命を狙われて亡命するなど、禁門の変のときは、脱藩の罪により、野山の獄に繋がれるなど、失敗したり、不遇に陥ったりした。
だが、その都度、復活を遂げて活躍の場を得ていた。
 
菅首相は、婦人運動家の市川房枝に師事して参院選の選挙事務長となったのをキッカケに政界進出を決意、庶民、民衆のエネルギーを背景にした市民運動家として3回の国政選挙落選を経てようやく当選、政治家となり、ついに国家最高指導者である首相の座を射止めた。
庶民・民衆をバックにした点や幾多の失敗・不遇を乗り越えてきた点で、高杉晋作と菅首相は、共通している。

◆その菅首相は、消費税アップ発言が災いして、参院選で大敗し、与野党ねじれ現象の国会運営において前途多難な状況にある。
インタビューアからは、高杉晋作だったら、こうした難局を、どう克服するであろうか。
高杉晋作にあって、菅首相に足りないものは何かと質問された。ズバリ、大きな違いは、手持ちの人材である。
高杉晋作は、その意を体して、縦横無尽、手足の如く動く、有能な人材を多く持っていた。
たとえば、グラバーの手引きで密航して英国留学した伊藤俊輔(後の博文=初代首相)、井上聞多(後の馨=蔵相、元老)など、交渉術、根回しに長け、高杉晋作のために命を賭ける覚悟を持つ多士済々を擁し、駆使していた。
これに比べ、菅首相は、どこまで菅首相のために命を賭けて奔走してくれる同志を持っているか。小沢一郎前幹事長にも逃げられている状況では、甚だ心もとない。
高杉晋作に比べると「月とスッポン」である。
菅首相がいまの困難、危機を突破できるか否かは、ひとえに菅首相のために命を賭けて働いてくれる同志を確保できるかどうかの一点にかかっている。

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