日本児童文学者協会の機関誌「日本児童文学」に、三回にわたって連載される評論の二回目(2015年3・4月号掲載)です。
ここでいう「共有」とは、児童文学が子どもだけのものでなく、子どもと大人とで共有される文学であることを意味します。
この論文ではいろいろな形態で「共有化」がすすんでいることが例示されていますが、児童文学が子どもだけのものではないことは今に始まったことではありません。
1930年代に活躍した児童文学者で詩人のエーリヒ・ケストナーは「8才から80才」までの「子ども」を対象にしていることを明言していますし、宮沢賢治も「注文の多い料理店」の新刊案内(その記事を参照してください)の中で、読者対象を「アドレッセンス(男子は14才から25才まで、女子は12才から21才まで)中葉(男子は20才前、女子は17才前後)(男女差があるのは女性の方が精神的成長が早いためです)」と規定していました。
佐藤もそのことは十分に承知していて、「現代児童文学」だけが大人が子どもに手渡す形で書かれていた特異な存在であると主張しています。
たしかに「現代児童文学」は、小川未明に代表される「近代童話」が子ども不在の自己表現に重きが置かれていたことを批判してスタートしました。
しかし、「現代児童文学」もまた、優れた作品は初めから子どもと大人に共有されていました。
現に、「現代児童文学」の出発を飾ったと言われる二つの小人ファンタジー(佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」といぬいとみこの「木かげの家の小人たち」)もまた、現在に至るまで子どもと大人に共有される児童文学作品として読み継がれています。
むしろ、現在の「共有」は、子どもと大人といっても、男性はほとんど排除されていて、女性だけ(それもごく一部の文学少女とその成長形)に偏している異様な状態が進んでいるのではないでしょうか。
また、児童文庫(女の子中心)やライトノベル(男の子中心)といった「大人」とあまり共有されていない「児童文学」の領域がどんどん拡大している(書店での本の置かれているスペースを見れば一目瞭然です)のを全く無視しているのも、実情から目を逸らしているように感じられました。
ここでいう「共有」とは、児童文学が子どもだけのものでなく、子どもと大人とで共有される文学であることを意味します。
この論文ではいろいろな形態で「共有化」がすすんでいることが例示されていますが、児童文学が子どもだけのものではないことは今に始まったことではありません。
1930年代に活躍した児童文学者で詩人のエーリヒ・ケストナーは「8才から80才」までの「子ども」を対象にしていることを明言していますし、宮沢賢治も「注文の多い料理店」の新刊案内(その記事を参照してください)の中で、読者対象を「アドレッセンス(男子は14才から25才まで、女子は12才から21才まで)中葉(男子は20才前、女子は17才前後)(男女差があるのは女性の方が精神的成長が早いためです)」と規定していました。
佐藤もそのことは十分に承知していて、「現代児童文学」だけが大人が子どもに手渡す形で書かれていた特異な存在であると主張しています。
たしかに「現代児童文学」は、小川未明に代表される「近代童話」が子ども不在の自己表現に重きが置かれていたことを批判してスタートしました。
しかし、「現代児童文学」もまた、優れた作品は初めから子どもと大人に共有されていました。
現に、「現代児童文学」の出発を飾ったと言われる二つの小人ファンタジー(佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」といぬいとみこの「木かげの家の小人たち」)もまた、現在に至るまで子どもと大人に共有される児童文学作品として読み継がれています。
むしろ、現在の「共有」は、子どもと大人といっても、男性はほとんど排除されていて、女性だけ(それもごく一部の文学少女とその成長形)に偏している異様な状態が進んでいるのではないでしょうか。
また、児童文庫(女の子中心)やライトノベル(男の子中心)といった「大人」とあまり共有されていない「児童文学」の領域がどんどん拡大している(書店での本の置かれているスペースを見れば一目瞭然です)のを全く無視しているのも、実情から目を逸らしているように感じられました。
日本児童文学 2015年 04 月号 [雑誌] | |
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