日本児童文学学会の第51回研究大会における全体シンポジウムで、百名弱の参加者がありました。
横川寿美子(敬称略、以下同様)の司会で、四人のパネリストがそれぞれの分野から「児童文学の境界」についての発言がありました。
府川源一郎は、「教育と文学の境界」について発言しました。
まず最初に、「文学はどこに生まれるか?」という問題提起がありました。
そして、「日本ではお話し(ストーリー)を教訓にかぶせる必要があり、そこから児童文学が生まれてきた。」という歴史認識が示されました。
「児童や文学という概念は近代になって作られたもので、現在はそれらは揺らいでいる。」という現状認識が提示された後で、「国語と修身と児童文学は一緒じゃないか。」という挑発的な発言がなされました。
目黒強は、「児童文庫にみる児童文学の境界」について発言しました。
「児童文学は知識教育学的な観点で語られてきたが、そこに収まらないエンターテインメントの分野が伸長している。」と指摘しました。
「エンターテインメント作品を語るときに、「まんがのような」という表現がよくつかわれるが、ここでまんがのようにとはどういうことか。」と問題提起して、「ワンピースのノベライズ」のような作品に対しては、他分野との共同研究が必要である。」と提案されました。
灰島かりは、「現代英米絵本はパロディの花ざかりなのに、なぜ日本の絵本はパロディが嫌いか?」を豊富な実例を示しながら語りました。
そして、「絵本の買い手である母親が毒のあるものは選ばない。」と推測し、媒介者の問題であると指摘しました。
また、「日本の児童文学の賞にパロディが入ったことはない。」と、日本の児童文学界の体質も批判しました。
川勝泰介は、「児童文学研究の境界」について発言しました。
「日本児童文学学会の会員がピークの400人台から300人台へ減少している」ことを指摘し、「児童文学研究の衰退、多様化への不適合があるのではないか」と推測しました。
「大学でも文学関係の学部が減っている」とも発言し、研究者の絶対数の減少と職業として成立することの困難性を指摘しました。
「2000年に「21世紀に児童文学は消滅するか?」と本田和子(雑誌「日本児童文学」において。その記事を参照してください)が予言したことが当たるかもしれない。」と警鐘を鳴らしました。
それを回避するためには、「児童文学の境界も(研究対象として)取り込んでいかなければならない。」と提案しました。
ここでいったん休憩に入り、聴衆に配られていた質問票を回収し仕分けしました。
質疑では、司会者の好みなのか関連質問が多かったのかわかりませんが、テーマであった「児童文学の境界」から離れて、「なぜ日本ではパロディが受け入れられないのか」に偏ってしまいました。
目黒は、「皮肉が社会に受け入れられるかどうかであり、若い人たちには受け入れやすいのではないでしょうか。」と発言していました。
府川は、「教科書には載らないだろうが、教師がパロディを教室に持ち込むことはあってもいいのではないか。ただし、人権その他の偏見につながることには歯止めはかけなければならないと思う。テキストだけを使うのが授業ではない。当然、声などの身体性が加わる形になる。」と、教育現場での可能性と限界について述べました
議論の発端を作った灰島は、「日本にはパロディの伝統はあるが、絵本では出版社や研究者によって除外されている。」と、現状の問題を指摘しました。
川勝は、「子どもが良くても親が納得しないと買ってもらえない。パパとママでは選ぶ本が違う。パロディはママに選ばれにくいかもしれない。」と、媒介者の問題を指摘しました。
府川は、「現在、国が読書運動を進めているが、かえって選択の幅が狭くなっている。」と危惧していました。
目黒も、「読書活動の推進にはプラスとマイナスの面がある。エンターテインメント系の作品も読書運動に取り込まれている。何がパロディとして認められやすいのか。例えば二次創作は若い人ではやっている。」と、教育界や出版界と、実際の若い人たちのアクションとの遊離を指摘しました。
話がここでややとんで、灰島が「日本には言葉狩りとかタブーがある。」と発言しました。
川勝も「大人はいいが、子供はダメという制限がある。」と児童文学としての限界について述べました。
府川も、「言葉を均質化する方向に進んでいる。」と、教育、出版の方向性に対する問題意識を示しました。
会場と自由に質疑をしたり、パネラー同士が議論するような場面もなく、シンポジウムとしてはまとまりはよかったものの、物足りなさは残りました。
また、司会者の独断で、質疑がテーマの「児童文学の境界」からそれていったのは不満でした。
ただし、「児童文学の境界」というと、一般文学との境界しか頭になかったので、いろいろな境界が存在することを知ったのは収穫でした。
シンポジウム終了後、パネラーの目黒と少し話ができましたが、「いわゆる児童文学作品とエンターテインメント作品とまんが」の境界については、「媒介者である大人に、まんがよりは{まんが的に読まれている)エンターテインメント作品の方が許容されやすい」程度の認識で、まだ研究は進んでいないとのことでした。
横川寿美子(敬称略、以下同様)の司会で、四人のパネリストがそれぞれの分野から「児童文学の境界」についての発言がありました。
府川源一郎は、「教育と文学の境界」について発言しました。
まず最初に、「文学はどこに生まれるか?」という問題提起がありました。
そして、「日本ではお話し(ストーリー)を教訓にかぶせる必要があり、そこから児童文学が生まれてきた。」という歴史認識が示されました。
「児童や文学という概念は近代になって作られたもので、現在はそれらは揺らいでいる。」という現状認識が提示された後で、「国語と修身と児童文学は一緒じゃないか。」という挑発的な発言がなされました。
目黒強は、「児童文庫にみる児童文学の境界」について発言しました。
「児童文学は知識教育学的な観点で語られてきたが、そこに収まらないエンターテインメントの分野が伸長している。」と指摘しました。
「エンターテインメント作品を語るときに、「まんがのような」という表現がよくつかわれるが、ここでまんがのようにとはどういうことか。」と問題提起して、「ワンピースのノベライズ」のような作品に対しては、他分野との共同研究が必要である。」と提案されました。
灰島かりは、「現代英米絵本はパロディの花ざかりなのに、なぜ日本の絵本はパロディが嫌いか?」を豊富な実例を示しながら語りました。
そして、「絵本の買い手である母親が毒のあるものは選ばない。」と推測し、媒介者の問題であると指摘しました。
また、「日本の児童文学の賞にパロディが入ったことはない。」と、日本の児童文学界の体質も批判しました。
川勝泰介は、「児童文学研究の境界」について発言しました。
「日本児童文学学会の会員がピークの400人台から300人台へ減少している」ことを指摘し、「児童文学研究の衰退、多様化への不適合があるのではないか」と推測しました。
「大学でも文学関係の学部が減っている」とも発言し、研究者の絶対数の減少と職業として成立することの困難性を指摘しました。
「2000年に「21世紀に児童文学は消滅するか?」と本田和子(雑誌「日本児童文学」において。その記事を参照してください)が予言したことが当たるかもしれない。」と警鐘を鳴らしました。
それを回避するためには、「児童文学の境界も(研究対象として)取り込んでいかなければならない。」と提案しました。
ここでいったん休憩に入り、聴衆に配られていた質問票を回収し仕分けしました。
質疑では、司会者の好みなのか関連質問が多かったのかわかりませんが、テーマであった「児童文学の境界」から離れて、「なぜ日本ではパロディが受け入れられないのか」に偏ってしまいました。
目黒は、「皮肉が社会に受け入れられるかどうかであり、若い人たちには受け入れやすいのではないでしょうか。」と発言していました。
府川は、「教科書には載らないだろうが、教師がパロディを教室に持ち込むことはあってもいいのではないか。ただし、人権その他の偏見につながることには歯止めはかけなければならないと思う。テキストだけを使うのが授業ではない。当然、声などの身体性が加わる形になる。」と、教育現場での可能性と限界について述べました
議論の発端を作った灰島は、「日本にはパロディの伝統はあるが、絵本では出版社や研究者によって除外されている。」と、現状の問題を指摘しました。
川勝は、「子どもが良くても親が納得しないと買ってもらえない。パパとママでは選ぶ本が違う。パロディはママに選ばれにくいかもしれない。」と、媒介者の問題を指摘しました。
府川は、「現在、国が読書運動を進めているが、かえって選択の幅が狭くなっている。」と危惧していました。
目黒も、「読書活動の推進にはプラスとマイナスの面がある。エンターテインメント系の作品も読書運動に取り込まれている。何がパロディとして認められやすいのか。例えば二次創作は若い人ではやっている。」と、教育界や出版界と、実際の若い人たちのアクションとの遊離を指摘しました。
話がここでややとんで、灰島が「日本には言葉狩りとかタブーがある。」と発言しました。
川勝も「大人はいいが、子供はダメという制限がある。」と児童文学としての限界について述べました。
府川も、「言葉を均質化する方向に進んでいる。」と、教育、出版の方向性に対する問題意識を示しました。
会場と自由に質疑をしたり、パネラー同士が議論するような場面もなく、シンポジウムとしてはまとまりはよかったものの、物足りなさは残りました。
また、司会者の独断で、質疑がテーマの「児童文学の境界」からそれていったのは不満でした。
ただし、「児童文学の境界」というと、一般文学との境界しか頭になかったので、いろいろな境界が存在することを知ったのは収穫でした。
シンポジウム終了後、パネラーの目黒と少し話ができましたが、「いわゆる児童文学作品とエンターテインメント作品とまんが」の境界については、「媒介者である大人に、まんがよりは{まんが的に読まれている)エンターテインメント作品の方が許容されやすい」程度の認識で、まだ研究は進んでいないとのことでした。
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