五年生の女の子が、おとうさんにもらった外国製のおしゃれなノートに、日記のようにクラスメイトのことを書いていく形でまとめられた作品です。
「森本えみちゃん」
宮川健郎「児童文学 新しい潮流」(1997年)(その記事を参照してください)に、この章が転載されています。
主人公と一番の親友の森本えみちゃんとの、学校でもらった蚕の分配方法における、ちょっとした仲たがいと仲直り(主人公の心の中だけで行われた、言ってみれば独り相撲です)を、徹底して主人公の内面を語る手法で鮮やかに描いています。
主人公の心の動きを、一人称の語りだけで読者に納得させる作者の腕前は相当なものです。
「坂内マリア・マリセラちゃん」
クラスでただ一人の外国系の友だちと、家族で行った海辺のキャンプ場で出会うお話です。
キャンプや生理(そのころは、こういうのをあっけらかんとを書くと、「女性差別に負けない教育を受けている」女の子とアピールできたのかもしれません)の話は月並みなのですが、ねんざしてキャンプに来られなくなった自分の兄とからめて、非行によって今は矯正施設にいる兄へのマリセラちゃんの思いに対する主人公の共感を描いた部分は好感が持てました。
「いろんな女の子たち」
クラスの女の子全員の人間関係を、いかにも女の子が書いているという感じで描いて見せています。
これからの章の伏線でもあるのですが、これはもう女の子だけの世界と言う感じで、作者も出版社も男の子読者のことはまったく眼中にないようです。
他の記事にも書きましたが、この本が出てから数年後、ある児童文学関係の飲み会で、「本を読まない男の子のことなんか、わざわざ考えて本は作らない」と豪語する女性編集者に出会って驚愕したのですが、こうして「児童文学」は男の子(特に高学年の)からは無縁の世界になっていきます。
「橘ゆりちゃん」
学年委員選挙に立候補することになったクラスのリーダー的な女の子と、選挙運動を手伝った主人公たちを描いています。
いつもの仲良しグループではなく、一つの目的を持つことによって、女の子たちの間にいろいろな軋轢が生じることを描こうとしているのですが、作者の持ち味であるユーモアやいかにも女の子っぽい語りが生かされませんでした。
「根岸加津ちゃん」
今まで目立たなかった女の子が、些細なことで目立ってしまい、それがきっかけでクラスの女の子の中ではずされるようになった事件の顛末を描いています。
取り立てて大きな理由がないのにはずされる子が出てくる様子はうまく描けているのですが、担任や親が介入してくる結末はいかがなものでしょうか。
「片桐レイちゃん」
番外と言うか、クラスメイトではなく、昔通っていた学童で問題児だった子と再会する話です。
はっきりいって、このエピソードは不要なので、おそらくクラスの子だけではネタ切れだったのでしょう。
「葦川園子ちゃん」
一家が、クリスチャンで、自然食品に凝っていて、途中で新興宗教に入信して、母親は癌で死んでしまうという、かなり無茶苦茶な設定な女の子です。
もうこのあたりになると、作者のネタ切れが顕著になっていて、強引なお話になっています。
全体を通して、いろいろなクラスメイトを日記調で書きながら、実は主人公の岡本なづかを描いていくという、作者のねらいは分かるのですが、はじめのころは些細な身の回りのエピソードで書き方とマッチしていて良かったのに、次第に普通のクラスの様子ではネタ切れ(そのためにかえって大きな事件(いじめや非行や母親の死)を持ち出しています)になったようで、尻すぼみの感は強いです。
「森本えみちゃん」
宮川健郎「児童文学 新しい潮流」(1997年)(その記事を参照してください)に、この章が転載されています。
主人公と一番の親友の森本えみちゃんとの、学校でもらった蚕の分配方法における、ちょっとした仲たがいと仲直り(主人公の心の中だけで行われた、言ってみれば独り相撲です)を、徹底して主人公の内面を語る手法で鮮やかに描いています。
主人公の心の動きを、一人称の語りだけで読者に納得させる作者の腕前は相当なものです。
「坂内マリア・マリセラちゃん」
クラスでただ一人の外国系の友だちと、家族で行った海辺のキャンプ場で出会うお話です。
キャンプや生理(そのころは、こういうのをあっけらかんとを書くと、「女性差別に負けない教育を受けている」女の子とアピールできたのかもしれません)の話は月並みなのですが、ねんざしてキャンプに来られなくなった自分の兄とからめて、非行によって今は矯正施設にいる兄へのマリセラちゃんの思いに対する主人公の共感を描いた部分は好感が持てました。
「いろんな女の子たち」
クラスの女の子全員の人間関係を、いかにも女の子が書いているという感じで描いて見せています。
これからの章の伏線でもあるのですが、これはもう女の子だけの世界と言う感じで、作者も出版社も男の子読者のことはまったく眼中にないようです。
他の記事にも書きましたが、この本が出てから数年後、ある児童文学関係の飲み会で、「本を読まない男の子のことなんか、わざわざ考えて本は作らない」と豪語する女性編集者に出会って驚愕したのですが、こうして「児童文学」は男の子(特に高学年の)からは無縁の世界になっていきます。
「橘ゆりちゃん」
学年委員選挙に立候補することになったクラスのリーダー的な女の子と、選挙運動を手伝った主人公たちを描いています。
いつもの仲良しグループではなく、一つの目的を持つことによって、女の子たちの間にいろいろな軋轢が生じることを描こうとしているのですが、作者の持ち味であるユーモアやいかにも女の子っぽい語りが生かされませんでした。
「根岸加津ちゃん」
今まで目立たなかった女の子が、些細なことで目立ってしまい、それがきっかけでクラスの女の子の中ではずされるようになった事件の顛末を描いています。
取り立てて大きな理由がないのにはずされる子が出てくる様子はうまく描けているのですが、担任や親が介入してくる結末はいかがなものでしょうか。
「片桐レイちゃん」
番外と言うか、クラスメイトではなく、昔通っていた学童で問題児だった子と再会する話です。
はっきりいって、このエピソードは不要なので、おそらくクラスの子だけではネタ切れだったのでしょう。
「葦川園子ちゃん」
一家が、クリスチャンで、自然食品に凝っていて、途中で新興宗教に入信して、母親は癌で死んでしまうという、かなり無茶苦茶な設定な女の子です。
もうこのあたりになると、作者のネタ切れが顕著になっていて、強引なお話になっています。
全体を通して、いろいろなクラスメイトを日記調で書きながら、実は主人公の岡本なづかを描いていくという、作者のねらいは分かるのですが、はじめのころは些細な身の回りのエピソードで書き方とマッチしていて良かったのに、次第に普通のクラスの様子ではネタ切れ(そのためにかえって大きな事件(いじめや非行や母親の死)を持ち出しています)になったようで、尻すぼみの感は強いです。
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