1970年に出版された著者の第三評論集の序章で、この文章自体は1964年に書かれています(評論集自体は、1960年代に書かれた著者の論文をまとめたものです)。
ここでいう「ふしぎの国」は1964年当時の日本の状況であり(文中にルイス・キャロル「ふしぎの国のアリス」が出てくるので、この言葉を選んだものと思われます)、「この日本の現在は非常識きわまりない世界である」という著者の認識を反映しています。
そして、「旗」は弔旗のことで、「敗北の日本をいたむ弔旗」(戦争に負けた日に弔旗がかかげられなかったことを指します)、「三池、鶴見の死をいたむ弔旗」(三井三池炭鉱と国鉄鶴見線の事故で多数の死者が出ても、大企業の原理が優先されたことを指します)、「つらなる工場にひるがえる弔旗」(「大企業の原理」に対して、働く者たちの「人間の原理」が勝利することを意味します)の三本です。
このタイトルでも明確なように、この児童文学評論は、著者の政治的な立場を明確にしたうえで展開されています。
他の記事でも書きましたが、「現代児童文学」は、過去の児童文学の価値観を明確に否定する文学運動としてスタートしました。
そして、そのうちのひとつである「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派(早大童話会(宣言の直後に早大少年文学会に改名)のメンバーが中心)にとっては、文学運動であると同時に政治運動でもありました。
そのため、この文章もまた、文学評論であるとともに政治評論でもあります。
60年安保闘争の革新側の敗北による挫折感や、高度成長時代の社会の様々なひずみなどが、著者の評論の背景にあります。
この文章の中で、著者は「子ども」をほとんど「あるべき未来を享受すべき者」と等価に使っています。
どうしたら、「「子ども」たちに「ふしぎでない」未来を手渡せるか、そのために児童文学者ができることは何か」という問いかけが、その根底にはあります。
それは、ナチス弾圧下のエーリヒ・ケストナーが、児童文学や子どもたちに抱いていた思いに重なるものがあります。
著者の思想の是非は別として、こうした確固たる理念を持って児童文学に取り組んでいる人間は、残念ながら現在では見当たりません。
児童文学研究者の宮川健郎は、「現代児童文学」は「戦争」を描くために散文性が必要だったと述べていますが、他の記事にも書きましたが、「現代児童文学」が「戦争」を描くのはあくまでも手段の一つ(ここで言えば三本の弔旗のうちの一本)にすぎず、彼らが本当に描きたかったのは階級闘争とその勝利だったのです。
児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ) | |
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