とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

アプリオリという語義に見る、人間の認識能力の低さ、及び物理と数学と度量衡

2016-11-20 02:33:36 | 哲学・社会
最初に断らなければならない。
いろいろと人間の認識というものを批判する文章をこの後に書くことになるのだが、しかし、この以下に続く私自身の論こそが、人間の認識を論ずる上での一つの仮定に過ぎない、ということを、論述前に言わなければならない。これを付託したことを踏まえた上で文章を続けたい。



アプリオリとは欺瞞である。これはどういうことか。
普段見慣れない「アプリオリ」と言う言葉の意味についても、再度私なりに解説しながら進めたい。

以前の記事では、そもそもアプリオリという語義は、これ以上定義や議論を重ねることのできない、人間が「先験的」に得ている認識であるとした。
例えば、1+1の結果は、その倫理から答えが2であることを誰しもが導くが、そもそも「1はなぜ1なのか」「1とは何なのか」ということは誰しも考えない。
当然だ。あまりにも単純すぎて考察を不要としない。「1は1でしょう? 何を言っているの? 」というのが『普通の』人の答えで、これ以上疑問に持つと、社会からは大抵、こいつはものごとの飲み込みが悪く、平均よりも頭が悪いんだという認定をされる。
こうした「原理遡及において議論不要な、人間が万古普遍として認識しうる、世界における真理」がアプリオリである、と当時の記事では作業仮説として仮定した。


だが「原理遡及において議論不要」となる事象についても、更にそれを考えないと解けない問題があることも発生する。
よくある子どもの素朴な疑問で、「1+1は2になるって言うけど、どうして泥団子を二つ合わせると1つになるの? 」ということで、大人たちは大抵「そんな屁理屈言ってないで、きちんと勉強しなさい! 」だとか「先生の言うことをきちんと聞きなさい」とか面倒な質問から逃げる。
この「面倒」という語句が文章上に現れる理由というのは、この質問にはある種の真実がそこに潜んでいて、こんな簡単な問題こそは大人としてはきちんと回答してあげるべきだし、大人としてはそれをきちんと知っているべきであるはずが、それを知らず、そして回答できない、という理想と現実のギャップがあるからで、そこから大人は大人なりに「理屈」をつけて逃げるからである。




こうしたことに「1はなんで1であるか」という、そもそも考察不要であったはずの疑問について、その疑問の回答を長年考えていた私から回答したい。

1というのは、人間が認識する数量概念のことで、人はものが並んだ時、特に、同じ同質のものが複数並んだ時に数を数え出す習性を持っている。
その開始する最初の数量が1である。(後述の度量衡の話しとも併せて考察したいが、結果としてこれが基準になる。)

1が1たるゆえんは、人間が勝手に決めた分割や区別の尺度が1なのであって、それをもう一つくっつけると次の値の2になるという人間側の理解の取り決めなのである。
いや、取り決めというよりも人間という動物種が持っている習性や本能に近い。動物である人間が、「数量数え出し」という「本能」を使った「習性」及び「認識」なのだ。
つまりは食べ物が食べたいだとか、眠りたいだとか、お金が欲しいだとか、ウンコがしたいだとかそういう習性の延長線上にこれが存在する。
だから皆、この「1がなんで1であるか」というのが理屈で説明できるようでいて、これを理屈で説明できない。
当然だ。本能であるがゆえに理屈で説明できないからだ。

ここから先述の泥団子の例を考えてみよう。
二つくっつけて一つの泥団子にしたものは、最初に「これが一つですね」と決めた泥団子の二つ分の物体、ということになる。この為、分割の尺度を最初に取り決まっていればいいので、コップ1杯でも、ガソリン1ガロンでも、プール○杯分であっても構わない。
また、こうした「数え」の取り決めは、「分割や区別の尺度」を取り決めているだけなのであるので、○○の何分の1とかでもいいのだが、通常、そういう風に人間社会は数えない。そういう本能を持っていないからだ。

だから、泥団子の回答としては、
「最初に1つって決めた泥団子があるよね? 今、二つの泥団子をくっつけて一つにした泥団子は、最初の1つって決めた泥団子の二つ分あるっていうことなんだよ。」
とまずは言えればOK。

ちょっと脱線しよう。
子供達は止まらない。世界のルールや仕組み、取り決めやからくりに好奇心旺盛(そしてかなり意地悪)な彼らはこういう質問を言うかもしれない。
「でもここにあるのは二つ分って言っても、実際にあるのは1つじゃん」
もし優しく答えたいなら次のように言えばいいかもしれない。
「そうだね、取り決めとして、これが一つって決めれば一つだね。でも他のものと比較する時に、これはこれの何個分だったっけ? という時に大変になるから『どこかで決めた基準の値の何個分』って決めているだけなんだよ。」

「『どこかで決めた基準』ってどこで決めるの? 」
「取り決めは自由だから色々あるんだよ。長さの単位とかで一番使われているのがメートル法で1790年3月、つまり今から大体200年くらい前の昔に、フランスで決められたんだね」
「どうして決まったの? 」
「それまでの社会は、地域や時代ごとにそういう取り決めを何となく決めてた。村や都市ごとに人の往来が無かったから、そんなに問題は無かったんだけれども、工業生産とか、ビジネスをする上で村とか街の交流をするようになった。『みんなが同じ長さの単位を使わないと超不便』だと思ったんだね。それでフランスの国会で、タレーラン=ペリゴールさんという人が、『せや、地球の北極点から赤道までの子午線弧長の1000万分の1を1メートルとしよ ニッコリ)』って提案したんだ。」
「フランス人はなんJ民だったんだね」
「だからそれまでは色んな長さの単位があったよ。一番古いのは8000年前のイラク(メソポタミア)で、王様の肘から中指までの長さ(キュビト)が基準になったよ(1キュビト=大体現在でいう43~53cm。長さが曖昧なのは、大昔のことであるので「こういう結果だった」という研究がたくさんあるのと、王様が替わると、体格も微妙に変わる=長さの基準も変わったので)。」
「昔は結構あいまいだったんだね」
「でも今でも、体を基準にした長さ(身体尺)はまだ使われているよ」
「それは嘘ー」
「お酒でウィスキーのダブルとかシングルとか言うけれど、あれはバーテンの人の指何本分のウィスキーを入れるかって言う基準で入れているよ。指一本分だけの量をグラスに注いだならシングル、二本ならダブル」
「はえーすっごい」
「あとはテニスラケットのストリングを張る時に、通常はラケット一本分の長さのストリングが売っているけれども、シームレスで何本分もの長さのある長いストリングロールも売っている。こうした時、自分で必要な分だけを取り出してどこで切断するか、というのは決まった長さが必要だけれども、長いストリングロールから決まった分量を取る時に、自分の体だけで測る人もいるよ(但し、長さが足りなくなったら張りなおし+最初に切り出したストリングはゴミになるので一般的には奨められないけれども。普通はラケットの長さを基準にして切り出す)。」
「よく分からンゴ」
「ともかく、長さの単位は色々だよ。個人で勝手に決めるケースも結構あるけれども、それが不便だから、みんなで同じ長さを使おうってなってるよ。まだ完全には統一されていないけれども、大体僕らが勉強しているセンチメートルだとかグラムとかで全然大丈夫。これでDSとかスマホとかが動いているし、ポケモンのデザインの設計とかやってるから。」
「分かったンゴ」
「ちなみに、こうした長さとか重さとか体積の単位は物理量(ぶつりりょう)って言うよ。もっと概念に寄って言うと度量衡(どりょうこう)って言うよ。」
「物理量(ぶつりりょう)と度量衡(どりょうこう)ってどう違うの? 」
「物理量は正確に計るための取り決め。現代物理で「こうしましょう」と正確に測定する為にできて、比較的歴史は浅い。でも正確。
 度量衡(どりょうこう)は、人間そのものの認識。人間が何か量を測るとき、曖昧でもいいから測定しようっていった、量を認識しようとする概念のことだね。曖昧だけれど古い。」
「『最近で正確』なのと『古くて曖昧』なのの認識で大丈夫? 」
「説明が悪かった。テストにはそう書けば正解だけれども、その理解じゃダメ。テストとしていい点を取らなければならないけれども、それ以外に本当のことを言わなければならないし、知ってもほしい。人間として成長するため、これが必要だから覚えて。
 人間は元々「何かを計ろう」って習性があった。大きさや重さとか。その大きさや重さを何かの取り決めに従って測るって言っても、「物を計る際の物差しってどういう種類があるんやで」とか言う時、それを都度言うのは面倒だったの。一言で言わんとなんぼも都合が悪かったの。だから『度量衡』(どりょうこう)って一言で言い換えた。「物を計る際の物差しってどういう種類があるんやで」という時、「『度量衡』(どりょうこう)の種類は~」と言った方が意味としてしっかり決まっている。『度量衡』はどういう種類があるの? と言うと、「重さ」「長さ」「明るさ」「硬さ」「甘さ」「臭さ」「痛さ」「半数致死量」「放射線量」とかがある。
 そういう「何かを計ろう」とするのは人間の習性で、概念として言語化することが可能だったけれども、それはみんな各地域ごとにバラバラに決めた。そういう「何かを計ろう」という取り決めそのものが『度量衡』だった。
 それを正確に測ろうというのが人類史において比較的最近できた物理量なんだね。さっきの『度量衡』の中でも「重さ」「長さ」「明るさ」「硬さ」「甘さ」「臭さ」「痛さ」「半数致死量」「放射線量」の内、「重さ」「長さ」が物理量。ものごとの基礎根幹で動く物理学で使うから。「硬さ」が工業量。工業製品で使うから。もっと言うと、硬さにも何種類かあって、「割れにくさ」だとか「傷のつきにくさ」だとか、「引っ張る時にどれだけ耐えられるか」とかがあるよ。「明るさ」「甘さ」「臭さ」「痛さ」が感覚量。人間の感覚を基準にしている。「半数致死量」「放射線量」が医学で使用される量。通貨供給量、価格、金利、年収、GDPが社会で使用されるよ。全部量で度量衡で、昔から使われていたものもあるけれども、その内、物理に使われて最近決まったものが物理量なんだね」

~脱線終わり~

さて、最初取り決めた「1」という数量、すなわちそもそも議論不要で、「先験的」に人間に備わっているはずの「真理の認識」というのは、もっと掘り下げられることが分かった。
「真理の認識」というのは、人間が勝手に取り決めた「真理と直感」している動物的習性ではないのか、とここでも作業仮説を立ててみよう。

真理は別に存在し、その一端だけを見た人間が、勝手に自分の認識できる能力の範囲内こそが全てだと思い、それが真理の全てであると思い込んでいるだけなのでは──。
即ち、アプリオリという言葉が定義されていることそのものが、人間が「真理を認識できる」という傲慢な感覚なのであり、そしてそれが人間の限界なのではないのか──と。

アプリオリを基準にして構築したはずの社会は、未だ混迷から脱しきれていない。人間の認識、それに伴って構築される社会と学術がまだまだ脆弱だからだ。
本来であれば数学の各諸論、各理論を統合した、ヒルベルト・プログラムのように、言語学、心理学、生理医学、経済学、社会学、政治学、歴史、地理学、地政学、人口動態、人類学を統合したグランドセオリーの登場が待たれるが、しかしまだその予兆はない。
これが分かれば、どのように戦争を避けることができるか、どの商品をどれだけ生産してどういう価格にしてどういう宣伝をすればいいのか、どうすれば株価は上がるのか。
社会のありとあらゆることが分かるのではないか。

物理の初端は中世錬金術であると言う。
それまで経験則と勘と運によって為されていた、実験的な錬金術は、現代物理と化学によって、高分子化合物を大量生産できるにまで至った。
同様に、戦争やビジネスや株価変動も経験則と勘と運によって為されてきたそれは、理論の登場を切望している。
この人文社会学系統における各分野の原子たる理論をそれぞれに結合すれば、社会的な高分子有機化合物を生成し、量産し、有意にコントロールすることが可能になるのではないのか。

そしてそれを築く前に、我々は「真理の全貌を捉えるには、人間の認識そのものが脆弱である」と認識し、アプリオリの語義形成に見られたような、「人間は認識したその直感全てが真理である」と思ってしまう人間特有の傲慢と増長を捨てねばならない。直感と理解というのは、完全であるように見えて、実はそれは脆弱な仮組みした足場なのである。

ここにリンゴと鉛筆がある。机の上に置いた。それは静止しているか否か。分子震動は考えなくていい。
昔の人間であるならば、これは静止していると考えてよかった。直感であるも何も、見たままであるし、それ以上は何も考えなくていい。背後に潜む何かを考えなくていい。
だが、今の我々はそう考えてはならない。

実はこのリンゴと鉛筆は、宇宙における位置座標が変更されていると言う意味で、猛スピードで動いている。
地球は猛スピードで自転している(赤道の場合は時速1700km)。その猛スピードで自転している地球は、更に太陽の周りを時速約10万7280kmの更なる猛スピードで公転している。
更に言えば、その太陽を中心としたと太陽系座標は宇宙的に固定なのかというとそうでもなく、その太陽を含めた太陽系そのものは、その属する銀河に対し、銀河系の中を時速5184万kmで銀河の中を円周上を螺旋を描いて周回している。
更にその銀河自体もビッグバンを端緒とする動きにより、光速以上の速さで互いに遠ざかっている。
絶対座標は変わりまくり、リンゴと鉛筆は地面や生活環境からの変動が無いから「動いていない」と認識されるだけなのであって、実は座標は今この瞬間も変更しまくり、動きまくっているのである。

昔の人なら静止している、という認識で良かった。
今の我々は宇宙から見れば「絶対座標は動いている」ということが分かる。
だが、その認識ですら、未来の人間から見れば絶対に正しいものなのだろうか。これを考えねばならないのだ。

「常識」と思っていたことへの疑義、新しい考え方の発見、我々の認識は、我々から見れば十全に見えるが、それでも恐らくは、そもそもが人間の認識そのもが真理から見れば不足していること・・・・
こうしたことを探っていかなければならないだろう。

以上である。
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