日本の実写映画(以下邦画と略)は昨今人気がなく、そして元気がない。
それまで力があった邦画界は、なぜ力を無くしたのか。
これを私なりの視点で書いていく。
と言うことで、これはどの国でも傾向は同じだと私は考える。
女性向けには出演者の露出をガシガシやって、広告もビシバシ打てばいい。
男性向けには売れ筋の原作を探して実写化をすればいい。
あるいは良ジャンルを常に探して投資をすることだ。
さて、それでは、今後もその通りにすべきなのか?
答えはイエスであり、かつノーだ。
どういうことかというと、これをベースにもっと考える必要がある、と言うことである。
上記は別の観点が抜けている。
それは男性・女性が単独で映画を見る理由として見に行くのは何か? と言うことであって、「ファミリー」はどういう動向をするのか、と言うことである。
あるいは父母に子供と言う構成の他、おじいちゃんおばあちゃんが孫をつれていくパターンや、老齢の夫婦が見に行くもの、あるいは小中高専門大でそれぞれ見に行く理由と言うものがあるだろう(男女でのデートや、あるいは友だち同士でおもろいもん見にいこうぜ! みたいなノリのもの)。
そうした時、「安心して見られるもの」「ハッピーエンドで終わるもの」「社会課題が提示されて解決するもの」「精神的課題が提示されて解決するもの」「哲学同士の対決」「見終わったあとに互いの感想を言い合える」「感想を言った時に、共通項や違う視点を得られて鑑賞後に精神的なトクをする」などがあったりする。
つまりは、
1.社会動線(誰が誰とどのような形式で見に行くのか)
2.動機(その時何を求めているのか、その時の満足度はどうなのか)
を考えなければならない。
こうした時、よく我々がコーンフレークの袋の裏に見る栄養バランスのようなあの星型の表をチャートにし、そしてそれを意識した上で製作をせねばならない、と言うことだ。
我々がかつて見ていた名作の数々、監督が自身の人生をかけて作った至高の逸品は、コーンフレークのような大量生産品の映像に負けつつある。
が、悲しきかな、それでなければ産業として、興行として、経営として成り立たない。
かつての国家主導における映画製作のように、とある目的をもって採算は数えなくとも良いと言うような映像であれば、それは可能であろうが、今の時代はそうではなくなった。
そこに人の心や魂は込められず、ただ単に、消費に適切なものだけが生産されて、消費選択されていく。そういう運命に向かって、我々は走らなければならない。
一方においてそれは別の方向の幸せでもある。
よく言われるのが、新海監督は言の葉の庭から君の名はに移行した時、それまであった芸術路線・個人路線を捨て、大衆受け路線に変更した、と言うことだ。
それによって新海監督は幸せを失ったかもしれない。一方において、鑑賞者側は、「言の葉の庭」ですかっとしなかった層も「君の名は」でおおいにすかっとした、と言うような幸せの量的享受がここに生まれたのではないか。