夏の夜に天空の城ラピュタを見た思い出がある。
ああいう子供の日は大人になったら帰って来ないんだなあとしみじみ。
蒸し暑い夏にエアコンつけて麦茶だのを飲んで、妙に居心地のいい冷えた部屋でアニメ映画見てドキドキするような・・・
ちなみに私は更にその前の、もっと小さい子供の頃にちょっとした長編映画と言うものを見ることができなかった。
なぜかというと、映画を見ると、どんな内容でもショックを受けすぎて一週間くらいはまともに考えることができない状態が続くから。
ほら、過激なホラーやスプラッタとかは子供には刺激が強すぎて見せられないでしょう。
もし見せたら、放心状態になったり、心がショックを受けすぎて、一週間ほどはそれしか考えられなくなる。
それと同じで、ラピュタレベルでも、私にとっては感動やら考え方やら生き方やらの影響を受けまくって放心してそれしか考えられなくなる程度にショックを受ける。
数分見ただけで心奪われて体力を消耗するのだ。これでは全編を見ることなどできない。
なので、私は完全子供向けであるラピュタの公民館などでの子供向け上映などの集まりにはなんだかんだと理由をつけていかなかった。
また、ショックのあまり、それが正しいんだと自分自身に思い込まされるような洗脳感があるだろうなという予感はしていたので、それも嫌だった。
ルパン三世カリオストロの城はいいんですよ。あれは健全だから。
でもラピュタはダメ。ラピュタは健全じゃないのかというと、社会倫理的には健全なんだけれども、人の判断集合があそこの中に細かく描かれていて、それに何か人間はこういう風に判断はしないだろうと言う不純物が混ざっているという予兆を感じ取ったんですよね。未視聴なのに。
実際問題、現在ラピュタを見た人がアニメーターになった場合、ラピュタからの束縛から逃れられないでいる。仮にラピュタが偽物の描き方ならば、本当の線が描けなくなるのだ。そういうのは嫌だ。
もし仮に私が今からアニメを作るとなったらば、それはもう勿論ラピュタは超えられない壁になるのだが、しかしそこに囚われてはいけない、そこの描き方とは違うスコープで、線で、更にその先を超えたテーマで、テーゼで描かないといけない。
その意味で、ラピュタは偉大なる作品であるが、それと同時に見た者を束縛させ、自由に羽ばたかせない罪のある作品なのだ。
ラピュタを見てショックを受けたらどうなる? そう、ロボットはああ言う形だと思いこむ。
飛行戦艦はどういう形か? ああいう形だと思いこむ。
飛行戦艦を画面に写す時、どういう角度で映し出す? そう、ああいう形で映さなければならないなどと思いこむ。
男児(パズー)はああいう風な大げさなガッツポーズを取るか? 普通はしない。でもアニメに影響されすぎると、あれがアニメのものだと思わず、それが自然なものだと認識をしてしまう。
これらは罪だ。宮崎駿監督は、我々に健全なショックと感動と爽快感を与えたその代償として、我々の身の内に存在していた無限の自由方向の想像力を奪っていくのだ。これは罪深い!
だが我々はそうした鎖を足かせにはめられようとも、それを打ち砕き、その砕いた鎖の上で、更にその向こうに飛翔せねばならない。
ああいう子供の日は大人になったら帰って来ないんだなあとしみじみ。
蒸し暑い夏にエアコンつけて麦茶だのを飲んで、妙に居心地のいい冷えた部屋でアニメ映画見てドキドキするような・・・
ちなみに私は更にその前の、もっと小さい子供の頃にちょっとした長編映画と言うものを見ることができなかった。
なぜかというと、映画を見ると、どんな内容でもショックを受けすぎて一週間くらいはまともに考えることができない状態が続くから。
ほら、過激なホラーやスプラッタとかは子供には刺激が強すぎて見せられないでしょう。
もし見せたら、放心状態になったり、心がショックを受けすぎて、一週間ほどはそれしか考えられなくなる。
それと同じで、ラピュタレベルでも、私にとっては感動やら考え方やら生き方やらの影響を受けまくって放心してそれしか考えられなくなる程度にショックを受ける。
数分見ただけで心奪われて体力を消耗するのだ。これでは全編を見ることなどできない。
なので、私は完全子供向けであるラピュタの公民館などでの子供向け上映などの集まりにはなんだかんだと理由をつけていかなかった。
また、ショックのあまり、それが正しいんだと自分自身に思い込まされるような洗脳感があるだろうなという予感はしていたので、それも嫌だった。
ルパン三世カリオストロの城はいいんですよ。あれは健全だから。
でもラピュタはダメ。ラピュタは健全じゃないのかというと、社会倫理的には健全なんだけれども、人の判断集合があそこの中に細かく描かれていて、それに何か人間はこういう風に判断はしないだろうと言う不純物が混ざっているという予兆を感じ取ったんですよね。未視聴なのに。
実際問題、現在ラピュタを見た人がアニメーターになった場合、ラピュタからの束縛から逃れられないでいる。仮にラピュタが偽物の描き方ならば、本当の線が描けなくなるのだ。そういうのは嫌だ。
もし仮に私が今からアニメを作るとなったらば、それはもう勿論ラピュタは超えられない壁になるのだが、しかしそこに囚われてはいけない、そこの描き方とは違うスコープで、線で、更にその先を超えたテーマで、テーゼで描かないといけない。
その意味で、ラピュタは偉大なる作品であるが、それと同時に見た者を束縛させ、自由に羽ばたかせない罪のある作品なのだ。
ラピュタを見てショックを受けたらどうなる? そう、ロボットはああ言う形だと思いこむ。
飛行戦艦はどういう形か? ああいう形だと思いこむ。
飛行戦艦を画面に写す時、どういう角度で映し出す? そう、ああいう形で映さなければならないなどと思いこむ。
男児(パズー)はああいう風な大げさなガッツポーズを取るか? 普通はしない。でもアニメに影響されすぎると、あれがアニメのものだと思わず、それが自然なものだと認識をしてしまう。
これらは罪だ。宮崎駿監督は、我々に健全なショックと感動と爽快感を与えたその代償として、我々の身の内に存在していた無限の自由方向の想像力を奪っていくのだ。これは罪深い!
だが我々はそうした鎖を足かせにはめられようとも、それを打ち砕き、その砕いた鎖の上で、更にその向こうに飛翔せねばならない。