とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

ゲーム

2012-11-13 11:46:04 | 哲学・社会
ゲームの本質とは、自分の実力の確認、特に不確実性に対する運やそれを乗りきる力も含めた実力の再確認を行い、その悲嘆と歓喜に自分の身を溺れさせる事にある。これがビジネスとなった際、この世のゲームは新規性と購買を促進する為に、そのスタイルは幾度と無く果てしなく変化してきた。

古くはトランプなどのカードゲームやあるいはくじなどの原型にその形をとどめていたが、テレビゲームが普及するに当たり、初めはATARI社のPONGや、あるいはドンキーコングのゲームウォッチが登場し、その内、テトリスやシューティングゲーム、更にはスーパーマリオブラザーズなどのアクションスクロール、そしてRPGが登場した。これらが次第にゲームとして進化するに当たって、そのシナリオやゲームの登場人物におけるキャラクター付けなど、物語に深みを与える事が次第に重視されていく。
そして、一昔前に発売されたドラゴンクエストVなどは登場人物の一生をトレースする形となる。ここで与えられた物語の深みとは、その登場人物の苦悩や痛み、あるいはゲーム中での「ある程度の」不確実性である。
この不確実性と行動の自由度、そしてその解法が人に達成感と幸福感を与える。時にはゲームにのめりこみすぎて、ある種の義務感が生まれているケースもあったりする。

そしてはたと気づいたのが、自分の人生こそが最も自由で最も不確実(リアルで戻れない、リセットできないバッドエンドもある)、そして達成すべき目標が実際に存在するゲームなのではないか。無論、人の人生をゲームなどに例える際の不謹慎な皮肉など私は言っているのではない。
その不確実性と自己の行動における努力と達成について、現実ではないところでその意志を持つのではなく、それらの能力は自己の実際の人生に使うべきではないだろうか。
忍耐までしてゲームをするのであれば、忍耐の本来の使用どころである現実にそれを使うべきだと考える。

現在、ソーシャルゲームが流行しているのは、ゲームの本質が「不確実性に対する運も含めた自分の実力を再確認を行い、その悲嘆と歓喜に自分の身を溺れさせる」事から動いていない事を証明する。
しかしそのような所に自己の力を使うべきであろうか。


話しは変わる。インターネットで次のような文章を見つけた。
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サル完全に破壊する実験について

サルを完全に破壊する実験って知ってる?

まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。

ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。

ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。

餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。

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上から下に転がるなら石ころにだってできる。
そのまま動かない事も石ころにだってできる。
異性を追いかけるだけなら獣に任せれば良いし、
ゲームだけ追い求めるなら猿と同じだ。

人は人として生まれている。
万物の霊長として生まれたのであれば、自己の人生は自己の思考によりその方向性を決定すべきなのだ。
コメント
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