とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

人と卑下

2012-11-03 20:20:31 | 哲学・社会
謙遜という態度がある。
自分の位置を落として、相対的に相手を持ち上げる文化だ。
「新しく来た私にはここが分かりませんので、経験のある○○さんにご指導頂こうと思いまして」というのは前半部分は謙遜で後半は尊敬だ。
この謙遜とは、社会における自分の位置を的確に指摘した上で、マイナスになっている面を正直・正確に言って相手を持ち上げる事になると私は考える。

ただ、これが行き過ぎると、卑下・卑屈・劣等感・ルサンチマン・自嘲・敗北主義や負け犬根性、マイナス思考など悪い方向へ向かう。

思えば日本の会社とは、大体において上記の謙遜から悪い方向へ一歩踏み出しているように思う。「いや、自分なんて全くダメでして・・・」「いやいや自分の方こそ全く出来もしませんで・・・」と少しおかしい方向へ向かっている。本当は勉強しているのにテスト前に「勉強できなかったよ」と言いつつも、その後しれっと良い点を取っている学生、その社会人バージョンだ。

謙遜の正しい定義とその作法を「社会における自分の位置を的確に指摘した上で、マイナスになっている面を正直・正確に言って相手を持ち上げる事」とすると、上記例の二人はよくある会話だけれども、過度に表現しているように思われる。(そしてこれは健全であるか、そうでないかという事を見ると、そうでないように思われる。)
そしてこうした態度が普通になると、今度は卑下・卑屈もある程度受容されるようになる。

そもそもこうした不健全な態度が醸成されるようになったのは何故か。
歴史的背景もあるだろうが、少し心理的・文化的側面から考えてみたい。

現在の日本において卑下の反対、即ち、増長したり自信を持ったり、主張や主導を行うと疎んじられる傾向が強い。人の僻みが発生して、それはいずれ不支持などの傾向によって、個人の努力の結果に比してマイナスに働く事が多い。

よって、ストレスや緊張、あるいは批判や批難を受けるなどの高度な心理的代価を支払って、高い結果を得るよりも、自らを卑下し、見下し、しかし平穏な暮らしを過ごせるならそちらの方がコストパフォーマンスに優れると判断されるなら、卑下した方が楽だという結論になる。
そして、今はそれが選択される社会構造になってしまい、そうした文化が根付いているのではないか。

分析は以上だが、ここから更に一歩踏み込んで考えてみたい。卑下は受容すべきかそうでないか。

卑下とは社会に対してマイナスのみに作用するものだ。よってすべきではない。

私は例の件から、言葉が喋れなくなり、その時からの正確な記憶ができなくなり、人生に見通しが立たなくなり、職場を転々とした。
卑下・卑屈・ルサンチマンの固まりとなり、一歩歩けば愚痴を言い、もう一歩歩けばクダを巻いた。
このような状況に貶めた人間と組織を心の底から恨み、憎み、呪を唱えた。
しかし、これでは自分の人生が本当にダメになる。
普通の人生はもはや歩けないだろう。ただ、自分が残りの人生で出来る事はしておきたい。社会に迷惑をかけぬよう、人に迷惑をかけぬよう・・・。

ただ、だからと言って怒りを打ち消す事は無い。その憎しみの目線を持って、私を貶めた人間と組織を、未来永劫に渡ってじっと見つめ続けるものである。
何もしないが、視線はそらさぬ。そしてその方向に向かって呪を唱え続ける。これが私に課された天命ではないだろうか。

***
余談ではあるが、私の会社と関係する会社の人、二人から(二人とも同じ会社)、「まったくこんな会社にいて・・・」と聞いた事があるが、いやいや、自分よりも本当に立派すぎて頭が上がらないのに、それよりも下の下に位置する私の会社は一体何なのかと思った事はある。
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デフレと経済情勢

2012-11-03 17:02:40 | 哲学・社会
現在は不況である事に異論は無いだろう。
だが、現在が耐え時なのか、賭け時なのかについては意見が割れるのではないだろうか。これをよく考えてみる。

「国家は破綻する~金融危機の800年」という書籍がある。金融は、失敗と成功を数多く経験してきた分野であるが、数百年に渡る歴史ではその当事者が失敗を否定したり隠蔽したりしてきた為、その資料が多く集まらない為に知体系化がなされなかった。これを為したというのだ。
英語での原題は「This time is different(今回は違う)」である。これは何かというと、金融に関しては、常に最先端の事を行ってきたという自負が関係者にあるが、それが為に同じ失敗を結局するにしても、毎回失敗の前に「今回は違う」と関係者を説得するのだそうである。

この書籍では、いつの時代も「今は違うんだ、過去とは違う動きをする」と言って、その後同じ金融危機(社会現象)をくりかえしてきたという。つまり、経済は同じ事を繰り返さない、今回だけは違うと言った主張(そしてその主張は裏切られる)と、経済が繰り返すという証明の歴史的に通底する法則が二者が存在する。
これを現在に当てはめてみても同様である。同じ動きだ。後者の歴史的に通底する法則の方を述べてみよう。浜 矩子さんの「(社会的に守られるべき)最低賃金の底は融解し、最低賃金のラインは下降し続ける」という主張は現代だけでなく、過去にも見られる。ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」では、労働者需要に対して労働者の供給が多すぎた為に、労働者自身が食うに困って、その日だけでの賃金を貰おうと、自らの賃金をディスカウントして行く様が生々しく描写される。当初1日3ドルなければ生活できないという話しだったが、雇われたいという労働者自身によって少しずつ自らの賃金をディスカウントして行き、ついには1日1ドルという金額まで行ってしまう。

私は未読であるが、マルクスの「経済学・哲学草稿」によると、「人間の供給が需要よりはるかに大きいとき、労働者の一部は乞食の状態か餓死に陥る」とあるようである。
つまりは現在の事業での需要が無ければ、労働者の賃金は下がり行く一方であって、世界の動静に関し、仕事の需要の上下が労働者賃金に直接的影響を及ぼすのである。
これは今回だけではない、長期的に見て普遍の現象である。現在の小手先の回避ではなく、普遍的な機を見出す事は可能ではないだろうか。

ジョージフリードマンの「100年予測」によれば、現在の景気動向は、覇権国家たるアメリカの軍事予算に対応するとする。この世のおおよその技術は軍事技術から発生した。という事は、現在アメリカが開発している技術が民間に転用される際に景気が良くなる、その技術は宇宙からのマイクロ波による電池技術で充電の必要が無くなる、技術転用は数十年後としている。景気動向の鍵はこれだけではないと思うが、このロジックに従った場合、数十年間は景気が良くならず、労働者は厳しい思いをする。

見方を変える。これはチャンスだ。但し労働者側ではなく、事業者側での。
とある事業をしたい場合には、労働者(雇用者)が安く雇える。例えば企業イメージの音楽を有名音楽家に一曲書いてもらうのに500万かかっていたとしよう。これが今では優秀な人間が5万程度で書いてくれる可能性がある。
社会モラル・労働モラルを無視して言えば、怒りの葡萄のようにディスカウント制にすれば、適正限界値まで価格は下がるのではないだろうか(無論、提供側にしてみれば懐が痛い事この上ないのだが)。
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