謙遜という態度がある。
自分の位置を落として、相対的に相手を持ち上げる文化だ。
「新しく来た私にはここが分かりませんので、経験のある○○さんにご指導頂こうと思いまして」というのは前半部分は謙遜で後半は尊敬だ。
この謙遜とは、社会における自分の位置を的確に指摘した上で、マイナスになっている面を正直・正確に言って相手を持ち上げる事になると私は考える。
ただ、これが行き過ぎると、卑下・卑屈・劣等感・ルサンチマン・自嘲・敗北主義や負け犬根性、マイナス思考など悪い方向へ向かう。
思えば日本の会社とは、大体において上記の謙遜から悪い方向へ一歩踏み出しているように思う。「いや、自分なんて全くダメでして・・・」「いやいや自分の方こそ全く出来もしませんで・・・」と少しおかしい方向へ向かっている。本当は勉強しているのにテスト前に「勉強できなかったよ」と言いつつも、その後しれっと良い点を取っている学生、その社会人バージョンだ。
謙遜の正しい定義とその作法を「社会における自分の位置を的確に指摘した上で、マイナスになっている面を正直・正確に言って相手を持ち上げる事」とすると、上記例の二人はよくある会話だけれども、過度に表現しているように思われる。(そしてこれは健全であるか、そうでないかという事を見ると、そうでないように思われる。)
そしてこうした態度が普通になると、今度は卑下・卑屈もある程度受容されるようになる。
そもそもこうした不健全な態度が醸成されるようになったのは何故か。
歴史的背景もあるだろうが、少し心理的・文化的側面から考えてみたい。
現在の日本において卑下の反対、即ち、増長したり自信を持ったり、主張や主導を行うと疎んじられる傾向が強い。人の僻みが発生して、それはいずれ不支持などの傾向によって、個人の努力の結果に比してマイナスに働く事が多い。
よって、ストレスや緊張、あるいは批判や批難を受けるなどの高度な心理的代価を支払って、高い結果を得るよりも、自らを卑下し、見下し、しかし平穏な暮らしを過ごせるならそちらの方がコストパフォーマンスに優れると判断されるなら、卑下した方が楽だという結論になる。
そして、今はそれが選択される社会構造になってしまい、そうした文化が根付いているのではないか。
分析は以上だが、ここから更に一歩踏み込んで考えてみたい。卑下は受容すべきかそうでないか。
卑下とは社会に対してマイナスのみに作用するものだ。よってすべきではない。
私は例の件から、言葉が喋れなくなり、その時からの正確な記憶ができなくなり、人生に見通しが立たなくなり、職場を転々とした。
卑下・卑屈・ルサンチマンの固まりとなり、一歩歩けば愚痴を言い、もう一歩歩けばクダを巻いた。
このような状況に貶めた人間と組織を心の底から恨み、憎み、呪を唱えた。
しかし、これでは自分の人生が本当にダメになる。
普通の人生はもはや歩けないだろう。ただ、自分が残りの人生で出来る事はしておきたい。社会に迷惑をかけぬよう、人に迷惑をかけぬよう・・・。
ただ、だからと言って怒りを打ち消す事は無い。その憎しみの目線を持って、私を貶めた人間と組織を、未来永劫に渡ってじっと見つめ続けるものである。
何もしないが、視線はそらさぬ。そしてその方向に向かって呪を唱え続ける。これが私に課された天命ではないだろうか。
***
余談ではあるが、私の会社と関係する会社の人、二人から(二人とも同じ会社)、「まったくこんな会社にいて・・・」と聞いた事があるが、いやいや、自分よりも本当に立派すぎて頭が上がらないのに、それよりも下の下に位置する私の会社は一体何なのかと思った事はある。
自分の位置を落として、相対的に相手を持ち上げる文化だ。
「新しく来た私にはここが分かりませんので、経験のある○○さんにご指導頂こうと思いまして」というのは前半部分は謙遜で後半は尊敬だ。
この謙遜とは、社会における自分の位置を的確に指摘した上で、マイナスになっている面を正直・正確に言って相手を持ち上げる事になると私は考える。
ただ、これが行き過ぎると、卑下・卑屈・劣等感・ルサンチマン・自嘲・敗北主義や負け犬根性、マイナス思考など悪い方向へ向かう。
思えば日本の会社とは、大体において上記の謙遜から悪い方向へ一歩踏み出しているように思う。「いや、自分なんて全くダメでして・・・」「いやいや自分の方こそ全く出来もしませんで・・・」と少しおかしい方向へ向かっている。本当は勉強しているのにテスト前に「勉強できなかったよ」と言いつつも、その後しれっと良い点を取っている学生、その社会人バージョンだ。
謙遜の正しい定義とその作法を「社会における自分の位置を的確に指摘した上で、マイナスになっている面を正直・正確に言って相手を持ち上げる事」とすると、上記例の二人はよくある会話だけれども、過度に表現しているように思われる。(そしてこれは健全であるか、そうでないかという事を見ると、そうでないように思われる。)
そしてこうした態度が普通になると、今度は卑下・卑屈もある程度受容されるようになる。
そもそもこうした不健全な態度が醸成されるようになったのは何故か。
歴史的背景もあるだろうが、少し心理的・文化的側面から考えてみたい。
現在の日本において卑下の反対、即ち、増長したり自信を持ったり、主張や主導を行うと疎んじられる傾向が強い。人の僻みが発生して、それはいずれ不支持などの傾向によって、個人の努力の結果に比してマイナスに働く事が多い。
よって、ストレスや緊張、あるいは批判や批難を受けるなどの高度な心理的代価を支払って、高い結果を得るよりも、自らを卑下し、見下し、しかし平穏な暮らしを過ごせるならそちらの方がコストパフォーマンスに優れると判断されるなら、卑下した方が楽だという結論になる。
そして、今はそれが選択される社会構造になってしまい、そうした文化が根付いているのではないか。
分析は以上だが、ここから更に一歩踏み込んで考えてみたい。卑下は受容すべきかそうでないか。
卑下とは社会に対してマイナスのみに作用するものだ。よってすべきではない。
私は例の件から、言葉が喋れなくなり、その時からの正確な記憶ができなくなり、人生に見通しが立たなくなり、職場を転々とした。
卑下・卑屈・ルサンチマンの固まりとなり、一歩歩けば愚痴を言い、もう一歩歩けばクダを巻いた。
このような状況に貶めた人間と組織を心の底から恨み、憎み、呪を唱えた。
しかし、これでは自分の人生が本当にダメになる。
普通の人生はもはや歩けないだろう。ただ、自分が残りの人生で出来る事はしておきたい。社会に迷惑をかけぬよう、人に迷惑をかけぬよう・・・。
ただ、だからと言って怒りを打ち消す事は無い。その憎しみの目線を持って、私を貶めた人間と組織を、未来永劫に渡ってじっと見つめ続けるものである。
何もしないが、視線はそらさぬ。そしてその方向に向かって呪を唱え続ける。これが私に課された天命ではないだろうか。
***
余談ではあるが、私の会社と関係する会社の人、二人から(二人とも同じ会社)、「まったくこんな会社にいて・・・」と聞いた事があるが、いやいや、自分よりも本当に立派すぎて頭が上がらないのに、それよりも下の下に位置する私の会社は一体何なのかと思った事はある。